- ナノ -




一、運命だって信じてみたかった(後)



 数時間前には素通りしたポケモンセンターに、リリーは生まれて初めて入ることになる。生まれ育った故郷ではない異国の地で初めて入るなんて、と少しばかり自嘲に笑えた。トレーナーではないリリーが立ち寄る理由は今までなく、今後もない予定だったので、奇妙な心地だった。
 けれど、もう建物が見えてきたという矢先のことだった。ひょい、とダンデの頭の上で髪をいじっていたチラーミィが、突然そこから軽快に飛び降りて、ポケモンセンターへと誰よりも早く辿り着こうとしたのだ。驚くリリーに対して、ダンデもやや驚きはしたものの冷静に「中にトレーナーがいるのかもしれない」などとのたまった。気配なのか、匂いなのか。はたまたあのポケモンセンターに馴染みでもあるのか。理由は定かではないが、勝手に行ってしまったチラーミィをトレーナーにきちんと引き渡すまで見失ってはいけないと、リリーはすぐに追いかけようとした。

 しかし。

「ちちっ!?」
「大人しくしてろよ!」

 ――チラーミィがポケモンセンターに飛び込むことは叶わなかった。急にその小さな体は宙に浮かされ、そこで留められる。混乱して藻掻くチラーミィを嘲笑うように、その見えない拘束がきつくされたのか、その顔が苦しみに染まった。
 宙で見えない何かに拘束されたチラーミィはそのまま宙を移動し、やがて見知らぬ男の隣に置かれた。側にはスプーンを両手に持ったポケモン。名前は出てこないが、恐らくはエスパータイプなのだと、状況からしてポケモンに明るくはないリリーでも理解できた。

「そこのお前!お前もポケモンを出せ!ついでに金目のものもだ!隠しても無駄だからな!」

 ナイフを片手に、男は周囲にそれを見せつけるように振りかざしながら怒鳴った。
 ――ポケモン強盗だ、とリリーは気付いた。アローラでもポケモンの強奪は度々ニュースになっていたが、幸いにも出くわしたことはなかった。しかし正に今、このガラルでもそういう輩が、目の前にいる。
 大抵は計画的に犯行に及ぶ輩が多くて、ポケモンが集まる施設内で多発するケースばかりだが、時折こうして街のど真ん中でも起きることはある。無差別かつ突拍子もなく始められれば、運悪く出くわした人間は状況を理解できぬままに巻き込まれやすい。無防備なところに襲撃されるのだから、咄嗟に動ける人間は少ない。
 リリーも、同じだった。ポケモンも持たないリリーには、ナイフ一本にも対抗出来得る力はない。そこにエスパーポケモンとくれば、例え立ちはだかろうとしてもその力であっという間に無力化されるのがオチだ。人間もポケモンも無害であるときはとことん無害であるのに、ひとたび牙を向けられるとなれば、途端に性善説が瓦解してしまう。

 ナイフを持った男は真っ先にチラーミィを捕らえたが、すぐそこにあるポケモンセンターを襲うわけでもなく、恐らくは目についたあの子を捕らえるとは。どこを襲えばいい、という訳ではないが、やはり計画性もないのだろう。こんな広場では閉鎖空間でもないのだし、すぐに警察だって呼ばれる。本当に、突発的な犯行なのかもしれなかった。ただ警察が来るまでの短時間の間に必要なものさえ強奪できて、逃げられればそれで。凶器を手にしてポケモンを人質のようにしているのだから、そうそう容易に自分に歯向かうこともしないだろうと。
 恐怖に動けなくなったリリーの目の先にいた、同じようにどう動けばいいのかわからなくなっている男性に、男は真っ先にナイフを向け、そして強引に財布やモンスターボールを奪い取った。次にその隣。そのまた隣は、ナイフを突きつけられようと毅然と男にこんなことはやめなさいと諭したが、ポケモンの力で所持品が浮かされ、あえなく奪われてしまった。かろうじて刺されはしなかったが、それも男の機嫌次第によるだろう。次は刺されなかったり、ポケモンに攻撃されない保証はどこにもない。

 と、そこでようやく可笑しなことに気が付いた。なんとダンデが、いないのだ。先程までは隣に居た筈のダンデが、周囲を見渡してもどこにもいなかった。あるのは自分のキャリーケースだけ。
 そこで、最悪の推測がついた。どさくさに紛れて逃げた、という推測が。
 少しの時間だったが、話をしていて、そういう印象は欠片も受けなかったのに。過去の後悔のことを、真剣に話してくれたのに。それがいざとなればこうなるのかと。現に、通りがかろうとした人間は皆、異常事態に気が付くや否や男の目が向くより早くすぐに逃げ出していく。誰だって、自分が一番大事なのだ。何よりリリーだって、自分のために逃げてきたも同然で。

 ――オレのせいじゃないッ!!

 その時体の奥底から蘇ってきた、足底が抜けるような感覚。虚脱感。絶望。やるせなさ。違うのに違うって言えなかった。自己嫌悪。
 だからリリーも、大人しく財布を明け渡した。ポケモンは、とナイフを向けられながら催促されたが、トレーナーではないと恐々と首を振る。ポケモンの力で身動きできなくされて確かめられたが、事実ボールの一個も持っていやしないので、あっさりと体の自由は戻してもらえた。死にたくなければ大人しくしていろ、と念押しされてから。よくやったフーディン、と男がポケモンを褒めたことで、あのポケモンの名前がわかったところで何の意味もない。
 言う通りにしていれば無事でいられそうだった。居合わせた誰もが、すぐにそれに気づいて、やり過ごすには渡せるものは渡すほかない。ポケモンを差し出す時には苦悶の顔をしていたが、ナイフを押し付けられると泣く泣く渡してしまう。身を切られるような思いではあるだろうが、脅された彼等は皆そうした。男一人ならまだどうにかできたかもしれないが、フーディンのあの力の前で、人間は無力だ。
 だけど、諦めの空気が漂うその空間に、甲高い叫びが響いた。

「チラーミィいじめないで!!」

 ハッとして、知らず俯いていた顔を上げてみれば、小さな男の子が大人達の中から飛び出て、ナイフの男に向かって何度も悲痛な声で叫ぶ。まだ十歳にも満たない小さな子供だった。その子は、大人達が項垂れて言うことに従う中、小さな体でナイフを持った大人に少しずつだが近づき、何度もチラーミィを返してくれと訴える。周囲の大人がやめろと手を伸ばすが、小さなその子は聞く耳を持たず目の前のことでいっぱいいっぱいのようだ。勇敢なのか子供が故に無鉄砲なのか、制止も振り切って涙ながらに訴えるあの子がリリー達が探していたチラーミィのトレーナーであることは、どこからどう見ようと疑いようもなかった。恐らくポケモンセンターへ情報を求めてここまでやって来ていたのかもしれない。でも、ようやくトレーナーがわかったのにも関わらずこんな状況では、喜ぶこともできやしない。少しでもタイミングが違ければ、もしかしたら先にあの子へチラーミィを渡すことができたかもしれないのに。

「うるせぇ!死にたいのか!」
「チラーミィかえして!ぼくの……ぼくのともだちかえしてよぉ!」

 ――ともだち。

「チラーミィ……チラーミィぃ……わあああん!」
「うるせえっつってるだろうが!!」

 リリーの中で、何がどうして感情が渦巻いたのか、本当のところ自分でもわかってはいなかった。目の前で小さな子供が、大人達が頭を垂れてポケモンまで差し出して大人しくする中、足を竦ませて泣きながら立ち向かう光景になのか、昔の、何も救えず色々と失ったことなのか。自分には力がないと思い込んできたことなのか。あの子も、立ち向かうだなんて勇猛なことを考えてああしているわけではないだろう。ただ、返してほしいだけだ。自分のポケモンを、友達を。怖くても大切な存在を、いじめないで、返してほしいだけの。自分はチラーミィのトレーナーで、親だから。
 男の罵声が何度も耳をつんざいた。口汚く子供を罵って、ナイフを突きつけて、傷付ける真似をする。フーディンはただ、チラーミィを宙に浮かせて自由を奪ったまま指示を待っていた。自身のトレーナーであり、絶対的な存在である、男の。周囲の大人たちはさすがにそわそわとしていて、やめろと口にする人間もいるが、未だに誰も動けずにいる。子供の言うことのきかなさと泣き止まない声に怒りに顔を真っ赤にした男が、とうとう大きくナイフを振りかぶっても。

「……やめて!!」

 リリーがそう叫んで、駆け出して、子供を抱き締めて男に背を向けたのは、きっと頭より体が動いた、というのが正しい。正義感だとか難しいことをあれこれと、考えていられなかった。弱い昔の自分と重ねてしまっただけなのかもしれないし、そんなのもすっ飛ばしたただの無謀なのかもしれない。ナイフ一本と言えでも刺されれば死にかねない。子供も、リリーも。
 でも圧倒的にこの子供とリリーは違う。差があって埋められないくらいの違い。リリーは、何にも立ち向かえなかった。弱さに負けて、あらゆるものを取りこぼしてきた。このままだと、せっかくこの地までやって来たというのに、ずっと取りこぼし続ける。仕方のないことだと、言ってもらえて安心なんかしている場合じゃない。

「どいつもこいつもッ!!」

 怒声がナイフと共に降ってくる。恐らく今までの素振りからして本気で殺めるという気はなかっただろうが、とうとう怒りで我を見失ったらしい。躊躇いを失くしたスピードでナイフが迫るのを、不思議と顔だけで後ろの男を見るリリーにはスローに見えた。なので子供をぎゅっと抱き締めて体で隠す。あの長さならリリーに刺さるだけで、子供に傷はつかないだろう。

 子供を守りたくて。もちろんチラーミィも守りたくて。誰にも傷付いてほしくなくて。だけど、本当に守りたかったのは。守りたいだけではなく、赦しがほしかったのは。そんなことを思うだけで、随分と独善的であるのに。

「リザードン!エアスラッシュ!」

 けれど覚悟をするよりも早く、凄まじい風が吹いた。
 リリーの髪がばさばさと舞い上がるが、うまい具合に衝撃がリリーに掠めることはなかった。風の刃がフーディンに直撃し、直撃せずともその風圧に押し負けた男が態勢を崩してそのまま吹っ飛ばされる。手から勢いのまま放り出されたナイフが宙を舞い、サイコキネシスが解けたチラーミィが地面にぽとっと落ちる。
 地面を踏みしめるような足音がすぐ側でした。どっしりと重たく、けれど頼り甲斐のあるような、軽やかなのに重厚で。

「……?」
「チラーミィ!」

 何が起こったのかとまた混乱するリリーの力が抜けたのに合わせて、子供が腕の中から飛び出して行った。行く先は当然チラーミィの元で、大切そうに抱き締めて泣きじゃくり始める。
 けれど起き上がったのは男もフーディンも同様で、しかし双方が何かをするよりも早く、炎がそこへ降り注いだ。もろに炎を受けたフーディンはすぐに沈黙し、男も熱さのせいでろくに判断ができなくなる。次いで、男の動きが固められたように動かくなくなった。縛られるように後ろに手を固定されて、指一本動けなくなる。フーディンの操り方と酷似していた。

「ダンデだ!」

 顔を上げたら、逆光に染まった背中が目の前にあった。堂々とそこに立ち、ポケモンに指示を出すため手を振りかざして。頭を垂れていた大人の、その背中に向ける嬉々とした声が聞こえた。

「……ダンデさん?」
「無事か!?」
「は、い……?」
「間に合って良かったぜ!」

 二匹のポケモンがダンデの指示に従った。一匹はリザードン。あれはアローラでも頻繁に見かけたポケモンだったから、名前がすぐに浮かんだ。もう一匹はわからないが、丸々としたフォルムをして、ステッキを男に向けて宙に浮かせていることからエスパータイプなのかもしれない。

「チラーミィも君も怪我はないな?」
「うん!ありがとうダンデ!おねえちゃんも!」
「ちぃっ!」

 どう見たってあれはダンデで、逃げたと思っていたのだが。だが、今あそこで周囲から賞賛を浴びている。子供がダンデの次にリリーに笑顔を向けてくれたが、曖昧に頷くことしかできない。ダンデは逃げたわけではなかったらしいが、それよりも皆が口々にする単語に気は向いた。

「チャンピオン!」
「さすがだわチャンピオン!助かった!」

 チャンピオン。チャンピオンってなんだっけ。アローラにチャンピオンはいないから馴染みなど微塵もなくすぐにはぴんとこない。だけど、確かに耳にしたのだ。それをきっかけに、リリーはガラルまで遥々と空も海も越えてやってきた。
 サイレンの音が遠くから聞こえた。既に誰かが警察を呼んだだろうとは思っていたが、丁度良く来てくれたようだ。

 けれど、茫然とリリーはしていて。目まぐるしい展開に呆気にとられていると言うべきか。あっという間に恐怖していた男達が無力化されたこともそうだし、逃げたと失望していたダンデが、どうやら助けてくれたらしいことも。自分も子供もチラーミィも、みんなが無傷であれたことを喜ばしくは思うのにあまりそういう気持ちが大きくはならない。あの堂々とした背中と、今賞賛と笑顔を浴びているダンデは、逃げるという選択肢が全く似合わないような出で立ちをしている。

「無茶するなぁリリーも。でもリリーに気を取られたからこそ、男に隙が生まれて、うまくいったぜ」

 本当のことなのか、お世辞なのか。わからないが、そう言いながらリリーがほっぽっていたキャリーケースを引いてきてリリーの側に置いてくれる。それからそっと自分の上着を脱いで被せてくれた。女性の髪に易々とは触れられないからそれで勘弁してくれな、と茶目っ気たっぷりに口を開けて笑いながら。遅れて、ああ髪がぼさぼさだからか、と気が付く。上着にはダンデの熱が残っていた。

「……チャンピオン?」
「やっぱり知らなかったんだな。黙っていてすまない」

 ダンデは背を伸ばして、リリーへ掌を差し出す。その時ようやく、ダンデの背後にあるビルの街頭モニターに、ダンデの顔がアップで映っていることに気が付いた。目の前のダンデと同じ帽子を被ってはいるが、その服装は全く異なる。胸に剣と盾を模したようなデザインの服に深紅のマント。あのモニターの中と同じように、ダンデはリリーへにかりと笑いかける。

「改めて。ガラルリーグチャンピオン、ダンデだ。……やったな。今度こそ、リリーは助けられたんだな」

 つられて手を伸ばして握手をしながら、何とも言えない気持ちが体の中に拡がっていく。やっと緊張が抜けきって、その笑みと温度のせいか安堵できた。眩しいダンデの笑みが、掌から伝う熱さが、みるみるとリリーを焼いていくようだ。助けられたという言葉も、頭の中に張り付く。実際は自分だけの功績ではないのに。
 ダンデの背後の街頭モニターの上には、太陽が燦然と輝いている。アローラよりも格段に優しい日差しであるのに、酷く暑く思えた。

「ごめんなさい、逃げたかと、思っちゃった」
「あの男に対抗するためにポケモンセンターまでリザードンとバリコオルを受け取りにいっていたんだ。何も言わずいなくなってすまなかった。それに、言っただろう?」

 握られた掌が、じりっと焦げ付くようだった。

「やるせない思いは真っ平だって。俺はもう、何も取りこぼすつもりはないぜ」


  ◇◇


 ダンデはリーグチャンピオンとして、十歳からその役を全うしているらしい。あの事件の後から、ダンデとは何かと連絡を取り合う機会があったが、本人から直接経歴を聞くよりも早く、リリーはダンデの情報を古いものから最新まで知ることになる。あらかじめ一時的な居住目的でとったアパートメントホテルのテレビで、連日のようにダンデのことが報道されていたから。
 ダンデの言っていた、過去の背景がそれでなんとなく想像できた。それで、ダンデとリリーは、本当に、全く異なる人間だって、わかった。何もできなかったリリーと、諦めなかったダンデ。その差は、測る必要もないくらいに。
 事件に巻き込まれた一人として警察と話をする時もダンデはずっと付き添ってくれたし、チラーミィのトレーナーが改めてお礼を言いたいと申し出た来たという際には、ダンデと揃ってトレーナーの家族一同から丁寧に感謝されてしまった。それでダンデとの縁が切れた、ということにはならず、なんならアパート探しも手伝ってくれた。ダンデはどうやら自分で物件を探した経験はないようだが、親身になってあれこれと世話を焼いてくれた。自分はリーグ委員長が用意してくれた高級マンションにずっと一人で暮らしているらしく、逆に物件探しには新鮮さすら感じたらしい。

 話をする内に互いに同い年だとわかってからは、タメ口をきくようになった。段々と親しくなっていた段階だったのでほとんど抵抗はない。初めてダンデ君、と呼んだ時は、口の中が痺れたような心地だった。それに、どこか嬉しそうはにかんでくれたことにも。
 仕事探しまで手伝ってくれたし、ダンデには感謝が尽きない。一人暮らしは慣れないことばかりで初めは四苦八苦したけれど、ダンデが手助けしてくれるから。そうして、ダンデはリリーにとって、ガラルでできた友人第一号になった。
 だけどリリーは一般企業に勤めることになった、ポケモントレーナーでもないただの渡航者で、ダンデはガラル中に愛されるリーグチャンピオン。そもそも、本来なら出会う機会すらなかったような存在だった。偶然にもチラーミィを抱えて右往左往し、さっさとアパートメントホテルに辿り着けなかったことでダンデと遭遇しただけの、きっと連絡先を交換して友人になることもなかった筈の。ダンデが一緒になって探してくれたアパートに落ち着いてから、買ったテレビに連日映る、ダンデの顔とバトル。雑誌の表紙もダンデ。CMにだって。芸能人を押しのける勢いのダンデは、どう考えても、リリーとは人生が重なりそうもない人間。

 厄介だったのは、遠いと思えば思う程。ダンデと自分は不似合いだと思えば思う程。あの熱と、笑みと、掌が、まとわりついて消えなくなったこと。
 憧れは募る一方だった。そう、憧れだったのだ、最初は。リリーとは全く逆のような人生を歩んできたダンデは、ポケモンに対しての考え方だってリリーよりも遥かに深く、愛情だって。近寄ることすら許されなかった、ポケモンのことは何にも知らないも同然のリリーとは、文字通り別の人生をこれからも歩むのだ。だけど、だからこそ憧れて止まなかった。自分とは何もかもが違うダンデが常に眩しくて、輝いていて、優しくて。助けてくれたことも一因かもしれないが、それ以降も何かと心配してくれるし、よく試合の観戦にも呼んでくれた。必ず勝つダンデは酷く頼もしく、バトル知識もからきしなリリーにも、ダンデの強さや、どうしてこんなに愛されているのかもよくわかった。

『本当に大丈夫なの?変な人、周りにいない?ご飯は?』
「いないって。ご飯もしっかり食べてる。大丈夫だよお母さん。仕事も慣れてきたし、ちゃんと暮らせてるから」
『でもやっぱり心配よ。いい?約束通り毎日こうして連絡を頂戴ね。困ったり寂しくなったら、いつでも帰ってきていいからね』
「うん」

 母親との約束を、守るつもりではいる。連絡のことも、将来のことも。今は我儘でモラトリアムを貰っただけだ。逃げたつもりとは言っても、一時的なこと。何かある度に母親は少しでも帰ってきてくれと言うが、これで一度でも帰れば、きっと母親は二度と海も空も越えることを許さないだろう。だから帰省も軽々しくはできなかった。でもどうせ仕事があるから。休みに理解のあるガラルでは連休を取ることも比較的やりやすくはあったが、お金の問題とか、そうやって色々と理由をつけた。

 ダンデは、優しかった。ダンデとは頻繁に会うわけではなかったけれど、ばったりと出会えば笑って駆け寄ってくれるし、時々迷子の案内をしてあげたりもした。恥ずかしそうにしながらも、リリーに素直にありがとうと言ってくれる。そういえば初めて会った時も迷子だったんだよなって、何度か笑った。
 ダンデは会うといつもポケモンについて熱く語ってくれて、いくらでも教えてくれる。そのお陰でどんどんとポケモンの知識だけは蓄積されていった。好きならトレーナーに、と言ってくれたが、どうしてもイエスを言えない。その度に母親の顔がちらついたから。でもダンデの熱弁のお陰でポケモンへの興味は坂を転げる勢いで加速していく。
 バトルを観に行けば、試合が終わった後にわざわざリリーを探して、会いにきてくれる。客席のどこにいたってダンデには発見されるようで、黙ってこっそり観に行ったとしても必ず見つけてくれた。そうして、嬉しそうに笑うのだ。
 だからか、どんどんと、憧れは変貌していった。遠い、手の届かない存在への憧憬から、少しずつ、少しずつ。形が崩れて、柔らかくなって、胸に引っかかって、そこから落っこちてくれない。いつの間にかダンデの真似をするように、何事にも突っ走るようにもなっていたのが、余計に。母親の目がないことや体が丈夫になっていたことも相俟って、ダンデの迷子につられてあちこち走り回ったりもした。それにダンデのポケモンにも触らせてもらったら、一気に世界は拡がった。狭い世界がみるみると広がっていく、小さい頃こっそり読んでいた子供向けの紙の図鑑の中に閉じ込めていた、ポケモンへの気持ちが噴きだしてくるよう。それでやっと、ポケモンが好きって、誰かに遠慮することなく笑えるようになれた。ちょっとずつ自分が変わっていっている気がして、それは全部、ダンデがいてくれるからだとリリーは思う。

 かといって、どうこうなりたいとは、考えてはいなかった。嘘、本当は自ら首を振って否定するのだ。蓋をして、見ない振りを続けて、けれど胸から落っこちないものを振り払い切れないもどかしさ。結局いつまでも母親の言葉を気にしている、自立できていない自分とダンデでは、あまりにもかけ離れ過ぎている。それに、母親の言葉を守るつもりである以上は。
 そうは思うも、それは本当に守らなくてはならないのかと、考える日だってたくさんあった。でもどうしても、最後は母親の顔が離れなくなる。長年、自分の時間を犠牲にしてまでリリーを守ろうとしてくれた母親。こうしていざ遠くに来てみると、解放されたような気持ちにはなったが、ふとした瞬間に一人だけの空間に寂しさを覚えてしまう。長年母親と二人きりで居過ぎたせいだ。呪いだなんて大層なことを言いながら、心がまだ母親から離れ切れていない。そうして、ガラルでの生活が毎日毎日、どんどんと過ぎていく。未来が見えぬまま、漠然とリリーの人生が。


 ――そんな、どうすればよいのか、段々とわからなくなってきた時のことだ。
 それを転機と呼んでもいいものか。ただ、リリーには、筆舌には尽くしがたい程、どうしようもなく特別に思えた。

「…………、ぁ」

 突如として空から降って来た少女は、目玉を零れ落としそうなくらいに驚いた顔をしてリリーを見上げた。丁度、故郷の星空を思い出して、ベランダで空を眺めていた夜のことだ。ぶつけたお尻に痛そうにしていたのがまるで嘘のように、少女はリリーを見て硬直する。唇から落ちた声は聞き取れなくて、歪んだ表情は悲喜こもごもで複雑に絡まり合い、一概にどれとは言えない。だけど、その少女は一目見た瞬間から、何故か他人のようには思えなかった。突然現れたことに驚きこそすれど、怪しむだとか、そういう気持ちは一切湧いてこない。
 偶然にも。でもなんだか運命のように。都会であるが故に見つけづらいものの点々とだが確かに星の見える夜。どこをどう歩けばいいのかわからなかったリリーは、そうして少女と――ネモと出会った。