- ナノ -




一、いつか思い出になるとしても(後)



 2番道路に入ってすぐにグズマが感じたのは違和感だった。全体的に暗いのだ。いくら空が雲で覆われていて容赦ない雨が降っているとはいえ、明かりが全然見つけられないのだ。
 理由はすぐに思い至った。遠目にやっと見えるポケモンセンターも、真っ暗だったのだ。またどこかで雷の落ちる音がする。近隣の民家にも明かりがない。
 停電していたのだ、この辺り一帯が。
 物凄く迷って、考えて、グズマは唇を噛み締めた。でも、耳元でする、背負ったリリーの呼吸があまりにも苦しそうで。

「……?グズマ君?」
「先にお前の家帰るぞ」
「なんで……?ポケモンセンターは?」
「ていでんしてるっぽいから。今行っても、たぶん診てもらえないだろ」
「でも……」
「お前を寝かせて、そしたらオレがアマカジつれて行くから」

 ポケモンセンターへ近づけば近づく程、中が混乱している様子が遠目にもわかった。ポケモンセンターのお姉さんの叫びに近い大きな声や、複数のポケモン達の鳴き声。それを静めようとするトレーナーらしき人達の悲痛な声。回復もできない、暗くて足元もおぼつかない。本当であれば災害時のために予備電源もあるだろうが、それが使われていないということはそちらにも問題が出ているのだろう。今、電力の供給は完全に止まっているのだ。
 どうせ今行ったところで、アマカジをすぐに治療してもらえるかわからない。幸いアマカジの体力はまだありそうだから、先にリリーを雨に打たれない場所で、それもリリーが安心できるところで落ち着かせてやりたい。だから、アマカジのことはもちろん心配しているが、グズマの頭はリリー優先だった。先にアマカジを預けてからリリーを運ぶべきだったかもしれないが、今はどうせポケモンセンターの中は大混乱中だし、何より今まで散々苦しがるリリーを見てきたグズマの頭は、自然とそうなった。
 ポケモンセンターを過ぎて少し。もうグズマの家もリリーの家も見えてきた。それに少しホッとして、家見えたぞ、と前を向いたまま後ろのリリーに教えてやる。うん、とあまりにか細くて小さな返事があって、耳にした限りどんどん具合が悪くなってきているみたいだった。目も瞑って苦しそうな息が熱くて、今更気が付いたけれど自分の背中から伝わるリリーの熱がとても上がっていた。早く寝かせてやらないとって、背負い直してから真っすぐリリーの家へとグズマは向かう。
 けれど、丁度自分の家を過ぎようとした瞬間だった。

「リリーッ!!」

 背後から、叫び声がした。え、と振り返ると、自分の両親とリリーのママが揃っていて、何故かグズマの家の前に立っていた。自分を呼んだ声にリリーが薄っすら目を開けて、まま?と熱い吐息と共に零した。でもその際ママの声に安心してしまったのか、力が抜けてしまったようで、ぽろっと、リリーがここまでなんとか抱えていたアマカジが落下して、ここは少し坂になっているせいでころころと丸い体が転がって行ってしまった。咄嗟に追いかけようとして、けれどそれよりも早く、ママがこの世の終わりのような顔をして二人の元へと駆け寄ってきたら、背中のリリーをグズマから奪うように抱きかかえる。リリーの体に触れた途端、ママが目を見開いてぐしゃりと顔を歪ませた。

「リリー!リリー!っ、やだ凄い熱……!」
「あのっ、おばさん、オレ」
「もうリリーとは遊ばないでって言ったでしょうッ!!」

 アマカジが、でもリリーが、とどうやってうまく伝えればいいかと混乱して、その場で縫い付けられたように足が動けなくなったグズマに、ママは怒りに染まった顔で、そう腹の底から容赦なく怒鳴った。ママの後ろから続いたグズマの父親も、グズマの前に立ったら躊躇いなく怒鳴りつけてくる。

「グズマぁ!このバカ息子ッ!何やってたんだ!どうせお前が強引に連れて行ったんだろう!?ちゃんと謝れ!」
「そんな風に怒鳴り付けたら可哀想でしょう!グズマくん、違うわよね?グズマくんはお母さんとの約束破って、そんなことしないわよね?」
「……ッ」

 違うよって、グズマは言えなかった。だって本当のことだから。バレなきゃいいって、ゲームのこともそうだし、今回もリリーは渋っていたのに、何度もグズマが強引にリリーを連れ回してきた。もう遊ぶなって言われても、言いつけを破って会いに行った。
 だってグズマを凄いって言ってくれるのは、まばゆく笑ってくれるのは、両親でも誰でもなく、リリーだけだったから。

「謝罪は結構です。それよりも早く娘を連れて帰りたいので」
「本当に申し訳ありませんでした!二度とこんなことがないようしっかり言い聞かせますので!」
「繰り返すことになりましたが、もう、息子さんとうちの娘を遊ばせないでいただきたいです。今まで遊んでくれたことはありがとうございました。でも、今後はどうか」
「仰る通りにしますから、また後日お詫びに伺います」

 ママに抱かれたリリーが、ぐずまくん、と虫の鳴くような声で呼んだのがグズマにだけわかって、でも父親に首根っこ掴まれてしまったから、いたい!としか口からは出てこなかった。そのままママに連れて行かれるリリーと、父親に無理矢理家に戻されるグズマは、でもアマカジのことを忘れていたわけじゃない。ころころと転がってしまって、恐らくはリリーの家の近くにまで行ってしまっただろうアマカジを、これからポケモンセンターに連れて行かないといけないのに。

「待ってよお父さん!あのね、アマカジがっ」
「いいから早く家に入れ!」
「ねえきいてよ!」

 リリーもママに、あまかじ、と何度も何度も言ったけれど、雨の音にかき消されて届いていないようだった。ママの頭の中にはリリーしかないのだから、余計なことなど一切入っていかない。グズマの両親も息子を怒ることしか頭にはないのだ。
 そのまま、グズマもリリーも、親の手によって家の中へと強制的に帰らされた。その頃には折よく停電もなおったようで、リリーはすぐにお風呂で温めてもらってから、自分のベッドに寝かされた。リリーの部屋の窓から外を見やるママは、ぎゅっと眉を顰める。ガタガタと、酷い風に煽られた窓が音を立てるくらい、外は酷い有様だった。

「……凄い雨。風も酷い。これじゃあすぐには病院まで行けない……」
「……まま、あのね……」
「明日の朝も熱が下がらなかったら、病院に行こうね。お外は怖いけど、大丈夫よ、ママがいるからね」

 そうじゃないの、そうじゃないんだよママって。何度もアマカジのことを伝えようとしたけれど、熱に浮かされた体ではろくに口が回らず、ママは「寝ちゃいましょうね」とリリーの額の汗を何度も何度も拭いながら、安心させようと努めて優しく笑いかける。ママは一晩中リリーの側にいるつもりのようで、あらかた必要なものを用意したら、リリーのベッドの横に座り込む。リリーが苦しそうな顔をすれば頭を撫でて手を握り、汗をかけば甲斐甲斐しく拭いて着替えさせたり、経口補水液を飲ませたり。リリーも必死にママに話をしようとしたのに、どうしても苦しい体では頭がうまく働かない上に声もろくに出なくて。しかも、ママがずっと側についているから、一人でこっそりアマカジを探しにいくことも難しかった。どの道、薬を飲んだせいで眠気も段々と出てくると、そもそも腕一本動かすのも大変な状態だったから、一人で外へ行くのは簡単なことではなかった。
 そうやって、いつの間にか眠ってしまったのだ。時折苦しさに目が覚めたり、ママが触れたことで微かに意識が浮上したりもしたが、正常に頭が働いていない状態だったのでほとんど覚えていない。だから、すっかりと目が覚めた時には、もう既に夜が明けていた。

「……」

 起き抜けでぼんやりとした頭が、まだ重たい。だけど昨夜程苦しくはない。多分熱も大分下がっただろう。だから、昨夜と比べれば頭も動きやすい。

「……あまかじ」

 体を起こそうとしたら、真っ先にママの頭が視界に飛び込んできた。リリーの布団の上で突っ伏して眠るママ。夜の間常にリリーの様子を見てくれて、看病してくれたことは薄っすらと覚えている。いつもそうだった。ママはリリーが苦しいのが一番嫌いなのだ。でもその原因の一つに自分がいるかもだなんて、微塵も思いつかない。ママの中では、リリーにあれはダメこれもダメって言うことは、こうやって苦しいことから助けようとすることと同義だから。
 なので、ポケモンからも遠ざけようとする。ツツケラの時みたいに、リリーが泣かないように。ママが世界で一番守りたいのはリリーだけ。それを、小さい頃から、リリーもわかっている。

「……」

 わかっている。わかっているからこそ、忍び足で部屋を抜けた。ママを起こさないように慎重に体を縮こませて、ママを刺激しないよう努める。ほとんど寝ずにリリーの看病をした影響か疲れも伴って寝入っているママは、幸いなことにリリーがベッドから下りても目を覚まさないでくれた。
 廊下を歩く時も、家の扉を開閉する時も。ずっとママが起きないことだけを願った。そうやってどうにか外にパジャマのまま出て、辺りを忙しなく見渡す。風に飛ばされてきた木の枝やらゴミが散乱する外で、もちろんアマカジがどこに行ったかを探すために。昨日、リリーの手から落ちて転がっていたことはかろうじて覚えている。なんとなく転がっていった方向も。
 存外、アマカジは時間をかけずに発見できた。

「……あ……」

 その姿を目にした途端、リリーから力がみるみると抜けていって、その場に頽れた。
 アマカジは、ボロボロの姿のまま、目を閉じてリリーの家の庭の片隅にいた。多分一晩中雨風に晒され、傷を癒せるわけもなく。いつから庭にいたのかはわからない。でも、確かに、アマカジは目を閉じて、そこに転がっていた。
 すぐにわかった。その体に触れなくても、呼びかけなくても。リリーには一目でわかった。ポケモンと触れ合ったことなんかろくになくても、今、リリーには。
 弱い生き物だと思った。怖い存在だなんてママは眉を顰めて忌避していたのに。まるで自分みたいに、守ってもらわないと生きていけないのだ。本当はきっと、みんなそうなのだと思った。きっとあのツツケラだって、本当は。
 リリーが苦しんでいた間、ママが側にいてくれた。でも、このアマカジは、誰にも守ってもらえなかった。せっかく守りたくてここまで連れてきたのに、あろうことに、自分の手からあの時零れ落ちていった。

 絶望感と喪失感と。何とも言えない、言葉には表せない感覚。無力感。自分で手を伸ばしておきながら、容易に踏み込んでおきながら。そうして、その場でただ泣きじゃくりながら、アマカジをぎゅっと胸に抱いた。贖罪だなんて思えない。こうすることすら、罪なんじゃないかと小さな子供は思った。
 せめてママに見つかる前に。泣きじゃくったまま、アマカジを抱き抱えたままどうにか足を動かして。ごめんなさいって何度も涙と一緒に零しながら、アマカジがいた所に、スコップで。雨が上がってから時間も経っていたのか、そこはぬかるんでもいない、固い土だった。野生のポケモンを忌み嫌うママの目から、永遠に遠ざけなければならなかった。


 数日の後、どうしてもグズマに会いたくて、懲りずにこっそりと会いに行った。ここのところママの目が厳しくて一人では勝手に行動できなかったけれど、運よくママが朝から仕事で帰らない日がまたあったので、今しかないと思ったのだ、
 先日グズマとその親が揃って改めて謝罪にきたが、リリーは直接その顔を見ていない。全部ママが対応して、お詫びの気持ちですと何か渡されたらしいが、ママは頑なに受け取りを断ったらしい。そんなのはもういいから、今度こそ今後リリーとは、と話をしていたのを、階段から盗み見て聞いていた。だけどどうしてもグズマに会いたかったのだ。

「アマカジね、」

 グズマが家から出てきたのを窓から確認して、すぐに家を出た。リリーを見て驚いたグズマだったけれど、目を泳がせて明らかに親に言われたことを気にしている様子だ。それでも話がしたいのはお互い同じだったようで、そのままグズマの家の庭に隠れるようにして。そこでグズマの口からも出たのが、当然のようにアマカジのことだった。
 リリーは正直に話をした。罪悪感に身を固くするリリーに、しかしグズマは硬直して唇を噛み締める。庭にね、とまた言いかけたところで、グズマがぶるっと大きく体を震わせた。息を吸い込む動作もない、体の中のありったけをぶつけるみたいな、そういう声の出し方だった。

「オレのせいじゃないッ!!」

 え、とリリーは目を丸める。だけどグズマは、泣きそうな顔のまま、肩をいからせていた。

「オレのせいじゃないッ!オレじゃ……オレのせいじゃっ……!」

 違う、そういうことを言いたくて来たわけじゃない。そう伝えようとするよりも早く、グズマは顔をぶんぶんと左右に振って、リリーと肩をぶつけるようにして家の中へと戻ろうした。

「グズマくっ」
「もうお前とは会わない!お父さんとお母さんにもそう言われた!もうっ……もうお前とは遊ばない!」

 ――足底が抜けたような感じだった。
 家に入る間際、一度だけリリーの顔を見て、目を瞠った後にぐっと顔を顰めて唇を噛んだけれど、グズマは家の中へと戻ってしまった。取り残されたリリーは、ただ茫然として、でもここにいちゃまずいってことだけは頭の片隅が理解しているから、ふらふらと、家へと歩く。
 グズマを責めたかったわけじゃない。そんなことをしたくて、ママの言いつけをまた破ったわけじゃない。リリーはグズマを嫌いになってなんかいない。グズマはリリーを唯一何もできない子扱いしない、大事な友達。手を引いてくれる、そうすればどこにでも行けちゃいそうって、思わせてくれる子。
 でも、多分、とうとう嫌われちゃったのだ。大事で、大好きなお友達に、嫌われた。そう思って、あまりのショックに涙も出てこない。大好きなママの言うことに背いてまで一緒にいたかった友達と、もうきっと、二度と。
 リリーとグズマが、もう少し大人だったら、また違ったかもしれない。子供だから罪だと思うことの大きさに耐えられなかっただけで、本気でリリーのことを疎ましくなったわけではないだろう。でも、二人はまだまだ、未熟だった。子供で、誰かに守ってもらわないと生きていけない存在だったから。だから、目の前のことだけで、まだ十歳の子供たちは、とにかく精一杯だった。


  ◇◇


 急に大人しく言うことを全部きくようになったリリーに、ママは最初不思議そうにしていたが、言うことをきくならそれでいいと、気にすることをやめたようだった。外に出るなも、グズマと遊ぶなも。ポケモンに近寄るな、も。リリーは全部言うことをきいた。だけど、気付けば庭にいるリリーに、ママはどうしたのかと声をかけた。リリーは笑って、ひなたぼっこしてるの、としか言えなかった。
 あれからグズマとは一度も会っていない。お互い、親の言うことをきちんときいているのだ。何よりグズマに嫌われたと思っているリリーは、勇気も持てなかった。時折、家が近いせいで鉢合いそうになったこともあるが、大抵グズマの方が先に目を逸らして、さっさとどこかへ行ってしまう。もう、リリーの手を引いてはくれなさそうだった。

 そうして時間が過ぎていく中、ある日信じ難いことが起こったのである。もう日課のように庭へと足を延ばしたリリーは、昨日とは明らかに異なる光景に体を震わせた。
 芽が出ていたのだ。毎日土を撫でて、ごめんねって呟いて、祈りをささげた場所から、不思議なことだが確かに緑色の芽が出ていた。愕然として、暫くの間それを眺める。次いでリリーを襲ったのは嗚咽の感覚だった。植物については本でしか知らないけれど、これはやがて花を咲かせるのだと、何故だか確信があった。これを、絶対に捨て置いてはならない。もう二度と、失くしたくない。だから、その日から芽に水をやることがリリーの使命になった。
 少ないお小遣いでじょうろを買って、肥料についても調べたり。毎日状態を観察して、本と睨めっこする。自分の庭のことだからママも芽には気が付いたが、種がどこからか飛んできたのかしらね、なんて何も疑う気配はなかったので安堵できた。寧ろ、娘がそれに執心していることに満足そうだった。何か夢中になることがあれば家の中にいても気も紛れるだろうと。だからママは、リリーが少しずつ成長するそれの世話をすることに文句は言わなかった。それどころか、一輪だけだと見栄えも物足らないだろうと、いつの間にか複数の種だとか苗を買ってきて、リリーと一緒に世話をしてくれる。リリーが水をやれない時にはママがきちんと水をやってくれた。

「ダメだからね」

 それから、ようやくリリーが島めぐりをできる歳になった頃。そう、はっきりと首を振られて、リリーは頭を殴られたみたいな気になった。当たり前に参加するものだと思い込んできたリリーにとって、それはなんだか青天の霹靂じみていた。でも思い返せば、ママと島めぐりについて話をしたことはただの一度もなかったように思う。それどころかその話題を避けていたようにも。
 どうしても参加したい、他の人達も助けてくれる、とママに再三訴えてみたけれど、ママは絶対に頷いてはくれなかった。ククイにもハラにも相談して、他のキャプテンにも直接話をして納得してもらえる材料を揃えてみても、ママはリリーの訴えを聞こうともしなかった。とにかくリリーの体が心配なママは、それだけを気に掛けてリリーに諦めるよう諭してくる。いや、諭すなんて生易しいものではなかっただろう。ママの中でそれは、確定事項なのだ。
 どれだけ周囲に参加もさせないのかと言われても。ママはリスクだけを見据えてリリーに、最後まで島めぐりを許しはしなかった。万が一島めぐりの間に何かあっては大変だし、何より途中棄権しようものならずっと後ろ指差されることになる。観光客ならまだしも、アローラの人間が島めぐりをするというのは、そういうことなのだ。どうやらママも島めぐりの経験はないらしく、理由は知らないけれど、知らないからこそリリーに許そうとはしないというのも一つかもしれなかった。
 グズマが島めぐりを始めたと知ったのは、グズマが旅立ってから大分過ぎた頃合いだった。羨ましい、と思ってしまった自分を、リリーは許せなかった。


  ◇◇


 当たり前に来ると思っていた日々とは異なる毎日を、そうやってリリーはアローラで過ごした。いくつか年齢に見合ったスクールを卒業して、成長するにつれ少しずつ体は丈夫になっていったリリーは、もう昔のように簡単に熱を出したり、走ったら倒れそうになるなんてこともない。でも、大人になるにつれて、なんだかママの言葉がじわじわと首を絞めているような感覚を覚えていた。今後の将来についても、ママは自分の希望をリリーに言い聞かせるだけだった。中でもお気に入りのククイとはよくリリーと一緒にいさせようとして、ククイがキャプテンを諦めた時なんかは進んで家に呼んで励ましたりもして。
 ククイからハラの下にグズマがいた、とママの目から逃れて教えてもらったリリーは、一瞬で心が昔に返った気がして、痛む胸を押さえた。瞼の裏に、体の中のありったけを叫んだ顔が蘇ってくる。
 二人はハラのところで知り合ったらしく、名前からしてリリーが子供の時に口にしていたグズマに相違ないだろうと確信したらしい。リリーの名前を出してみた時も、知らねぇ、なんて嘯いていたらしいが、確信に揺らぎはない。今はどうしているのかと訊いてみれば、ククイがキャプテンを諦めるよりも早くハラの下を飛び出してしまったらしい。それからは、少なくともメレメレ島の中ではククイも見かけたことはないとのことだ。本当はグズマと知り合った時に教えようと思ったらしいが、もうずっと話もしない二人をククイなりに気遣って黙っていたようだ。

「ククイ君、誰かいいひといるの?」
「やだなぁおばさん、そんな暇ないですよ」

 ダイニングテーブルで食事を振る舞われながらククイが明るく否定したが、下世話な話を堂々としてくるママに内心どう思っているかはリリーも知らない。多分リリーとママのことを悪くは思っていないだろうが、相変わらずリリーのことを心配する素振りはよく見せた。
 多分、ママはリリーとククイを結婚させたいのだろうと、いつからか気が付いていた。何かと二人を一緒にさせようとする言動をとっていたママは、ククイなら安心だと思っている様子だったから、見当違いではないと思う。でもいつの間にかククイが交際相手を見つけたらしく、その報告を受けた際には目に疑いようもなく落胆していた。リリーとてククイにそういう甘ったるい気持ちは持ってないから、ククイに好きな人ができたことは純粋に喜ばしい。紹介されたバーネットは、明るくて懐が広くて、すぐに大好きになった。ククイが研究者の道を志し、また新たな目標を見つけたことも嬉しかった。

「リリー。お母さんのことは気になるだろうけれど、お前がしたいことをするのが、一番なんだからな。俺が言うのも今更かもしれないが」

 度々、ククイはリリーに眉を下げてそう言ってくれた。それでも、同じ家に住むママの言葉は、日々リリーにのしかかってくる。直接的には口にされていないが、アローラで生きてアローラで死ねと、ママの言っていることは、つまりはそういう意味だ。それはもちろん、ママの近くで、という前提も。
 いつからかママのことをお母さんと呼ぶようになった時も、最初は物凄く嫌そうな顔をしていた。どうしてわざわざ呼び名を変えるのかと詰め寄られたが、この歳でママって呼ぶのはちょっと恥ずかしいから、と建前を告げれば、すんなり納得いかない様子ではあったが一先ずは受け入れてくれたように見える。でも、内心は受け入れ切ってはいないのだろう。


 庭の花は、もうすっかりと綺麗に咲き誇っていた。最初に芽吹いたものを中心にして、花壇だって自分の力で作って整えてある。それに毎日水をやりながら、リリーはあの嵐の夜を思い返さずにはいられなかった。
 守られないと生きていけなかった。弱いいきものは、そうやって。リリーもとても弱かったから、ママに守られて生きてきた。でも、じゃあ今はどうなんだろうって。昔ほど体は脆弱ではなく、走れない子供じゃない。鮮やかな花を眺めながら、よくククイの言葉が耳の中でリフレインした。
 ママが言うから、で今まで生きてきた。スクールも卒業して、今は近場に就職をした。でも、呼吸がしにくい瞬間が、時折あった。ママが将来のことを口にする度に。ククイに優しい言葉をもらう度に。島めぐり中の子供とすれ違う度に。リリーが自分で決めたことなんか、数えられるくらいしかないような気がした。
 もう、リリーは今や成人した、立派な大人なのに。もう、この手は持ったものをするっと取り零してしまうような、小さくて力の弱い手ではない。誤魔化すように咲かせた花の群れの中で、リリーは一人、しゃがんで初めに芽吹いた花を指で撫でた。これはとっくに役目を終えた花からとれた種を植え直した、もう何代目かもわからない赤い花だ。でも、こうしてずっと、ここで花を咲かせ続けている。リリーはこの花と出会った時のことを、死ぬまで絶対に忘れない。

「……こわいなぁ」

 なんてぼやきに、自嘲気味に笑ってしまった。リリーは母親と戦ったことなんて、正真正銘ただの一度もない。戦うなんて大袈裟な言い方かもしれないが、そういうのが一番表しやすい。きっと簡単には許してはくれないだろうけれど、でもリリーは、今を変えなくてはならないのだと、漠然とそれだけは強く思っていた。
 守れなかったことの罪の意識はずっと消えていない。母親と戦うなどと大仰に言っても、どうせそうそう容易に納得もしないだろう。色々と条件をつけられるかもしれない。
 それでも。これから先どう転ぶかはわからないけれど。でも、リリーはもう守ってもらいたいと願う子供ではなかった。
 母親のことは好きだ。でも、好きって気持ちだけで、もう完結させられるような、そういう単純な気持ちでもなかった。