- ナノ -




(6)君に希望と名付けて泣いた


 ――およそ半年前。


 男は急いていた。いくら入念に下調べをしたとはいえ、早く終わらせるに越したことはないからだ。
 暗い部屋の中で唯一の光源たるPCのモニターに表示されるローディング画面に、じりじりとさせられる。まだか、まだ終わらないのか。
 終了までのカウントを刻むそれをじっと見つめ、50%、60%、65%、86%、と心の中でゆっくり変化する数字を読み続ける。
 90%を過ぎたところで男の口角が上げられた。これでようやくこのうだるような熱さで不快な思いを強いられる場所からおさらばできる。
 そう思った矢先、暗かった室内が突然眩しい程に明るくなった。

「っ!?」
「そこで何してるんですか!?」

 見つかった!
 モニターを一瞥すると、COMPLETの文字。瞬時に判断しUSBを抜き取る。見つかりはしたが目的は達成したのだ、後は逃げきるだけ。
 この一ヵ月の間ほとんど毎日拝んだ上司の目を吊り上げる顔にほくそ笑んで、そちらへ駆けだす。生憎狭い研究室の出入り口は一つだけで、そこを突破するしかないからだ。
 女はトレーナーではなく、こちらも腰につけたホルダーに手を伸ばす必要はない。女は勢いづいた男の体に突撃されれば簡単に倒れ込んだ。

 すぐに廊下を駆け抜け到達したエレベーターを起動する。上昇するリフトに体が揺られていると、ジリリリリとけたたましい警報音が鳴り響きだした。女が状況を他の者に知らせたのだろう。
 リフトが上階に辿り着き足を加速させる。船着場まで着ければこちらの勝ちだ。
 背後からバタバタと複数の足音が聞こえる。恐らく男と同じ制服を身に着けるここの職員達だろう。つい先程まで同僚として笑顔を振りまいていたが、もうそんな役も降板だ。
 船着場では騒ぎを聞きつけた職員が行く手を阻んでいたが、軽い身のこなしでその全てを掻い潜る。これが、男がはるばるこの施設へ寄越された理由の一つであった。

 立ち塞がるものを全て伸して、男は着けていた船へと乗り込み、すぐさまエンジンを入れる。間もなく、勢いよく海上を走り出した小型艇はぐんぐんと暗い海の上を進みだした。
 後ろを確認すると、どうやら追ってはいないようである。
 やはり、と男はほくそ笑む。あの上司だった副支部長も、今やすっかりと丸くなったトップも、利益の損得より人員や中のポケモン達の安全を優先すると読んでいたのだ。暗い海を渡るリスクは、どうやら心得ているらしい。

 男は被ったままだった白い帽子を海へ放り捨て、操縦をオートに切り替えてから帽子と同じ色の制服を煩わしいとばかりに脱ぎ、それも海へ投げる。用意しておいた着替えに袖を通し、最後にグレーのジャケットを羽織った。

 小型艇が波を切り裂くように前進し、明かりで暗闇の中に浮かび上がる人工島―――エーテルパラダイスから遠ざかり、やがて夜闇に紛れてその姿を消した。




『さて、私は今トクサネ宇宙センターに来ています!ご覧ください、こちらは世界で初めて打ち上げに成功したロケットのレプリカです!デボンコーポレーション開発の∞エナジーによりついに宇宙到達を成功させたこのロケットは―――』

 くあっ、と呑気な欠伸が漏れた。あまりに毎日暇なので導入したテレビから流れてくる映像もまた呑気なもので、かといって日差しの強い外へと出たくもない。ソファの上でだらけながら、また一つ欠伸が漏れた。まとわりつく揃って同じ顔のニャース達もつられるように一斉に欠伸をしだす。

「おじさーん!」

 そんな長閑な空気を突然切り裂いた甲高い声。あらかじめ予想していた人物とは違ったが、平和な一日はどうやらここで終わってしまうらしい。これまでにあの少女がやって来て平穏に終えられた日など一日とて思い当たらない。

「おじさん大変だよ!事件だよ!」

 入口から飛び込んできた小さな少女―――アセロラは癖なのか手を上下に振りながら、ソファの上でだらけきるこの島の警察官であり島キングでもあるクチナシへ声を張り上げる。

「嬢ちゃん、元気だねぇ」
「偶にはおじさんも元気な姿みせてよぉ!アセロラ、おじさんの背中が真っ直ぐになってるとこ見たことないもん!…て、そんなの今はいいの!昨夜ね」
「エーテルパラダイスで物取り、だろ?」

 先制してクチナシの口から出てきた言葉に、アセロラの口がアングリと開いて動きを止めた。

「え?もう知ってるの?」
「研究情報が盗まれたってやつだろ。おじさん耳はね、イイのよ」
「なんだぁ!そう、そうなんだって!今もまだエーテルパラダイス大混乱だよ!」

 まったく、せっかくまた欠伸が止まらないような平和を享受できるようになったというのに、どいつもこいつも面倒事が好きな奴ばかりだと、クチナシは内心で一人ごちる。
 ここアローラを襲った未曾有の危機は、今やアローラ初のチャンピオンとなった子供の活躍でとっくに終息した筈だった。UBと呼ばれる異世界からの来訪者を相手にし、なんなら現在はそれを育てて絆を育んですらいるチャンピオンによって。
 UB。その名を、平和になった今になってまた懸念しなくてはならなくなるとは。

「さすがは島キング。お早いですね」

 突如としてもたらされた第三者の声に、アセロラが弾かれたように声が聴こえた方向へ顔を向ける。クチナシは、微動だにしない。こっちこそ、クチナシがあらかじめ予想していた本命だとわかっているからだ。

「ビッケさんだぁ!」
「こんにちはアセロラさん。今日も相変わらず元気いっぱいですねぇ」
「もう!みんなおんなじこと言うんだから!」

 頬を膨らますアセロラの頭を撫でてから、ビッケは奥でだらけたままのクチナシへ体を向け直す。恐らく、あまりだらだらと余計な話をせずに済みそうだと、内心安堵する。
 本当はアセロラの退室を求めようとも思ったが、彼女はこの島のキャプテンであり、四天王の一角を担う少女だ。耳に入れておいた方がいいだろう。

「…心を痛めている代表に代わり、私が話をさせていただきます。突然押し掛けてしまったことをまずはお詫び申し上げます。…昨夜、エーテルパラダイス内にスパイが紛れ込んでいたことが発覚しました。その所属元や目的は不明ですが、私の研究室に忍び込み、研究データを盗んでいきました」
「そのまんま追いつけなくて逃走だろ?」
「はい。提出された経歴は改めて精査中ですが、きっと全てデタラメでしょう。空港の映像データも確認してもらっていますが、まだ詳細は降りてきていません。平行して海上航路の捜査も進めてもらっています。まだこの地方のどこかに隠れているのか、既に逃亡したのかも、まだ不明です」
「どうせ足がつかないようにしてあんだろ。長引くかもなぁ」
「悔しいですがそうでしょう。ですが、問題は逃走を許してしまったこともそうですが、研究のデータ内容です。クチナシさんのことですから、中身についてもとっくに見当がついておいでなのでしょう」
「……」

 この広く豊かなアローラは、他の地方とは毛色が異なる。ククイ博士がリーグを創設するまでチャンピオン制度もなく、他地方には必ずあるジムすらない。それに代わる島めぐりがあるが、それは伝統的なもので、それを売りにしている側面もあるが、特に今更つつかれるようなことではない。
 そして、現場となったエーテルパラダイス。そこは傷ついたポケモンの保護を活動目的にしているが、もう一つ、重要な活動をしている施設でもある。

「UBの研究資料、及びウルトラ調査隊の方々の情報が、ごっそりもっていかれてしまったのです」

 ハアと、クチナシが大きな溜息を吐く。これ見よがしな嘆息でも、ビッケの眼差しがぶれることはない。
 まったく面倒事か好きな奴ばっかだと、クチナシは舌打ちした。それでも頭の中は淀みなく回転し続け、この事態に最適な対処方法を弾き出すため動きを止めることはない。

「…世間にゃ公表されちゃいねぇが、ホウエンでも一悶着あったらしい」
「え?ホウエン?」

 予想外の名前にビッケの瞳がパチパチと瞬く。何故この場で、よその地方が登場するのだろう。

「コレ。ここの、トクサネ宇宙センター。すられたのは、∞エナジーの研究データと、運用のための概要。それと、数年前に起きた隕石落下に対して本来行われるはずだった対処方法。一般には出回ってない隕石騒動の裏側」
「裏側…?」

 テレビの画面の中に、インタビュー映像が映し出される。
 目をキョロキョロと所在なさげに動かし、落ち着かない様子で質問に答える、ソライシ博士の姿が。


  ◇◇


 ぞわっと産毛だった。おぞましいものなんて何一つないこの家の中で、こんな薄ら寒い思いをしたことなんて、これまで一度もなかったのに。
 口から心臓が飛び出そうで、氷に閉じ込められたように指先一つ動けない。
 この家で、私以外の気配があるとすれば、ダンデ以外に有り得ない。

 背後の気配が動くのが空気から伝わってきた。少しずつ、確実にダンデが近づいてくる。後ろめたさとか何もかもが吹き飛んで、頭の中で「まさか」が激しく点滅する。まさか、そんな。
 すぐ横にまで歩み寄ってきたダンデが、私が強く握り締めて皺が寄った紙を掴んだ。どうやらそのまま引き抜きたいらしい。でも指先まで凍り付いたままだから紙を手放すことができなかった。
 顔を上げられない。口をきつく閉じたまま、汗だけどんどん体を伝っている。呼吸がままならない。

「貸してくれ」

 ダンデの抑揚のない声が恐ろしかった。それは、とんだお笑い草だった。ダンデがいないことを恐ろしいとついこの前まで思っていたのに。
 私の様子から紙を取り返せないと諦めたのか、ダンデの手が離れて行った。すぐ隣にいるからダンデの体の熱がじんわりと移ってくる。あれは、私を安心させてくれる温度の筈だったのに。

 喉の奥まで乾ききって声帯が震えない。そんな私を見下ろしているダンデの手が、私の肩に音もなく触れた。ビクリと跳ねた肩を、はたしてどんな瞳で見つめているのだろう。
 ダンデのまとう空気に触発されて、ズオウの顔が、あの男の声が、私を凌辱してきたありとあらゆるものが瞼の裏に去来する。乱れる心臓のリズムに呼応するように、私の息が過呼吸一歩手前まで乱れていく。

 だめ、やめて、ごめんなさい、うまくできなくてごめんなさい。

 ごめんなさい、おかあさん。


 しかし、恐れていたものは何もやって来ず、ふわっと、優しい温度が体にくっついた。

「………え、」

 一瞬思考が追い付かなかったが、目の前にある体が私を包うようにくっついて、冷えた体に温かみを分けてくれている。
 ダンデのからだ。ダンデのおんど。ダンデのにおい。
 私を怖い物から守ってくれる、ダンデ。

「…あっ……」
「驚かせてすまない。だから、こっちを見てくれ」

 ちょっと掠れたダンデの声。怒ってない。この声音は、そうじゃない。
 一つの動きに数十秒かけて、ようやく瞳の先がダンデの瞳まで辿り着く。ゆらゆらと揺れてはいるが鋭さはない。どちらかといえば、切なさそうな。

「ごめん」

 はっきりと口にされた三文字は、一体どういう意味を持っているのだろう。

「これは、俺じゃない。俺が頼んだものじゃない」

 嘯く唇が語る言葉は、とても必死に聞こえて、私へ真っ直ぐに向けられている。

「ローズ委員長が知らない間に調べていたんだ。それをわざわざ俺に渡してきた」
「委員長…?」

 再び委員長と対面した日のことを思い出す。人の好さそうな笑みを浮かべて祝福の拍手を送ってきた、最初から最後まで私の名前を呼ばなかった、委員長。

「いきなり君と結婚するなんて言ったから、何か思うことがあったんだろう。驚かせてしまってすまなかった。勝手に、こんなことされて嫌な思いをしただろう。でも、委員長は俺達を心配してくれているんだ、それだけはどうかわかってくれ」

 ダンデの言葉は、理解できる。
 委員長が私を受け入れていないことなんてわかっていたし、未だに何も進展しない結婚の話に、委員長の胸の内は推して量るべきだ。ダンデの素質を見抜いてチャンピオンとしての道をお膳立てしたのは他ならぬ委員長。何年もの間目を掛けてきたガラルのチャンピオンが突然素性もわからぬ女を紹介してくれば、それは直ぐに納得できないことなのだろう。
 頭ではそうやってわかっているけれど、やっぱりダンデは、委員長の肩を持つのか。
 委員長と私なんて、天秤にかけるまでもないのに。

「…ダンデ君」
「…なんだ?」
「私のこと、嫌い?」

 自分でも何故こんなこと問うているのかわからなかった。他にいくらでも考えていることはあるのに、よりによって一番どうでもいいことの答えを求めるなんて。

「嫌いじゃない、そんなことはない」

 間髪入れず返答が言い渡され、ギュッとダンデが抱き締めてくる。凄く温かい。言い淀むことなく返してくれた言葉に、じゃあ好き?と訊ねかけるのを、ダンデの胸に顔を押し付けることで阻止した。そんなの私だって答えられないよ。

「…ビックリしたけど、委員長の気持ちわかるから。私も、勝手に入って、勝手に見てごめんなさい」
「いや、俺が悪かった…本当にすまない」

 頭を撫でてくれる掌の心地よさが、体に触れる温かさが本物なのは間違いないのに、私だけがどこまでも歪で偽物だった。

 本当は私が一番悪い。この部屋に入った、私が一番悪。

「…あのね、父が、二人で家に来なさいって言ってるの」
「家に?」
「そう。ダンデ君とは言ってないけど、懇意にしてる人がいるとは伝えてあるの。だから、連れてきなさいって」

 前々からダンデも気にしていたことだ。義父になる予定の男に挨拶したいと。そろそろ、頃合いなのだろう。

「今度ダンデ君がお休みの日に、家に来て」


  ◇◇


 仕事にでた筈なのに突然現れたダンデは、忘れ物を取りに戻ってきたと僅かに目を伏せながら言っていた。つい受け取ってしまった報告書を委員長に返すつもりだったようで、よりによってそれを忘れたまま家を出てしまったらしかった。
 多分、本当のことなのだろう。ダンデの瞳も唇も、嘘を語っているようには見えなかった。嫌いじゃないって、耳の奥で反響している。私も、嫌いじゃないよ。
 ダンデは悪くない。委員長だって、責められるべきではない。責められるべきは、こうしてダンデに無理に結婚を決めさせた私だ。

 目の前の扉をノックする。深夜に差し掛かっていたが、多分起きているだろうと妙な確信があった。
 予想通りダンデがすぐ扉を少しずつ開けて、この扉をノックするのはこの家の中に私しかいないから驚いた様子はないが、ノック音が鳴った時点で全部お察しだろう。姿を出したダンデを見上げると、見間違いでなければ顔色が晴れないままに見えた。帰ってきてからほとんど、こんな顔ばかりだ。

「どうした?また眠れないのか?」

 なんてことない振りを装っているが、昼間のことを引き摺っていることなんて丸わかりで、突撃するように抱き着いて即座にダンデの頬を挟む。そのまま強引に引き寄せて唇に噛みついた。
 息を呑んだ気配がする。前もそうだった、この男は不意打ちに弱い。他人と暮らしているのだからもっと気を張るべきだ。

 手を振り払われなかったから、調子に乗って近くなった首に手を回してひっつく。そのまま唇同士を擦り合わせて、角度を変えて、舌先で隙間をつつくと薄く開いたから喜んで咥内に侵入した。
 わざと水の音を鳴らして、暫くの間そうして貪り合った。ダンデの手は、いつの間にか私の腰の後ろにある。
 やっと唇が放れると唾液が間を繋いで、間もなく切れて顎に垂れる。ハアハアと二人して息を荒げて馬鹿みたいだ。

「ハ…」

 熱っぽい瞳が私を捉えている。言葉がないのは私を気遣ってなのか、それとも何も言えないのか。

「抱いて」

 耳元で囁いて耳を噛むと、ぶるっとダンデの背中が震えた。



 抱かれながらボロボロと涙がずっと零れていた。相手がダンデになっても、情事の際には涙がどうしても流れる。心底嫌な癖だ。
 ダンデに手を伸ばさすと、意図を読んでくれて自分の手を重ねてギュッと握りこんでくれた。涙は一向に止まらない。もう拭うことすら諦めた。
 息が荒くて顔が熱そうなダンデに、私の頭も随分と沸騰しているようだった。

「明日ずっと一緒にいて…どこにもいかないでそばにいて…」

 悲しそうにダンデが眉を寄せる。ギュウと重なった掌が更に強く握り締められて、小さく横に振られた首と「ごめん」に胸が詰まって、苦しくてたまらなくて顔を正面のダンデから逃げるように逸らした。
 いいよ。私は貴方が結婚してくれるなら、それでいいよ。


  ◇◇


 ダンデの休みの日に、二人でナックルシティの家へアーマーガアタクシーで向かう。無言の車中で、心臓がバクバクと痛いくらいの鼓動のせいで酷く息がし辛かった。胃がむかむかして重苦しい。指先も、足先も、さっきから震えが止まらない。
 もう二度と、あそこに戻りたくなかったのに。

「アネモネ、大丈夫か」

 隣のダンデが気遣わし気に背中を擦ってくれたが、余裕なんてある訳もなく弁解の言葉も出てこなかった。いけない、もっと平気を装わねば。私はこれから、あの男にダンデを紹介しないといけないのだから。
 どれだけ祈ろうと、無情にも終わりはやってくる。敷地内の庭園にタクシーを降ろしてもらい、車のドアが開け放たれた。ダンデが先に降りて手を伸ばしてくれている。その上に恐る恐る手を重ねて、ゆっくり、車を出て。

「おかえりなさいませ、アネモネ様」

 顔を上げると使用人が数名並んでいた。誰もが笑顔を浮かべ、私達を出迎えてくれている。空々しい悪夢のような光景だ。

「……ただ、いま」

 ガチンと、錠のかかる金属音が聞こえた。
 ただいま、地獄。




 使用人に先導され、応接用の部屋までの廊下を止まることなく進む。ダンデはキョロキョロとあちこちへ目を動かして忙しなさそうだ。よその家にお邪魔しているのだから、もう少し慎ましくしてほしい。
 本当はダンデの腕に縋りつきたかったが、この家の中でそんなことはできないとなんとか堪える。
 やがて目的の部屋まで辿り着いて、使用人の女がノックと用件を口にし、扉を開けた。その重厚な扉の先にいるのは―――。

「おかえりアネモネ。私の可愛い娘」

 とびきり優しく甘い笑みを浮かべる、父親の姿。

「……ただいま、戻りました」

 声が震えないように必死だった。ダンデが隣にいるのだ、怪しまれてはならない。

「まったくお前は、本当にじゃじゃ馬だよ。…おっと、これはこれは驚いた。君はダンデじゃないかね?」
「あ、はい!初めまして、ダンデです」

 握手を求められてそれに応えるダンデの顔は、心なしか緊張しているようだった。さすがに婚約者の父親と面と向かえばそうなるのだろうか。

「娘から結婚を決めた相手を連れてくると聞いていたのに君が現れたということは…君がそうなのかな?」
「そうです。娘さんとの、結婚を考えています」
「そうだったのか…さすがは私の娘だよ。このガラルのチャンピオンだなんて見る目がある。ああ、立たせたままで申し訳なかったね、どうぞ座ってくれ」

 目で向かい合っているソファの一つに座るよう手で促され、二人でそこに腰かける。向かいに父親が座ったタイミングで使用人が紅茶を運んできた。
 紅茶なんて喉を通りそうもない。ここに座っているだけで精一杯なのに。
 視線を感じて引き寄せられるように目を向けてしまってすぐに後悔する。父親が紅茶を嚥下しながら、目を細め、微笑んで私を見つめていた。

 吐き気がする。今すぐ消えてしまいたい。

「うちのアネモネはどうだい?粗相ばかりしていないだろうか」
「とんでもないです。よく気の利くお嬢さんで」

 よそ用の顔だろうか。こんなダンデの顔見たことがない。父親は父親で、温厚そうな態度でもってダンデとそんな話ばかりしている。

 しばらく父親とダンデだけで会話の応酬が続き、ふと物思いに耽るように父親が言葉を切った。キュッと、唇を結び拳をきつく握り締める。むこうが、また真っ直ぐに私を見つめてきたからだ。
 その風体は、成人した娘を持っているなんて到底思えないように若々しい。まだ五十にも満たない年齢で、酷く頭がキれる、この歳でいくつもの会社を取りまとめるやり手の男である。
 小さく頭を振って一旦全てを忘れる。私は、何のためにこの家にやって来たの。
 私は、アネモネ。この家の、あの男の、一人娘。

「…この子はね、妻の忘れ形見なんだ。若くして結婚し、若くしてこの子を授かり、目に入れても痛くない程に可愛がってきた。そのせいかどうも世間知らずに育ってしまって、この子はほとんど話してくれないが、悪い虫が寄ってきていたらしいじゃないか」
「…そのようですね」
「君のような人望熱い人間に拾ってもらえて私は感謝しているんだ。アネモネ、お前もそう思うだろう?」
「……はい」
「まったくお前は、いくら久しぶりに父親に会ったからってそんなに固くならなくてもいいだろう?申し訳ないダンデ君。今言ったように可愛がりすぎたせいか、妙に反抗心が抜けないままなんだ」

 悲し気に首を左右に振る様はわざとらしくてヘドが出そうだ。ギュッと、膝の上の拳を強く握り締め直す。こんな最低の時間、一刻も早く終わって欲しい。

「…アネモネさんは、利口な娘さんです。私の仕事への理解もあり、彼女にはいつも助けられていますよ」

 目を細めて笑うダンデに、そんな馬鹿なとぶつけてやりたかった。嘘ばかり。父親の手前しょうがないとわかっているが、理解があるなんてどの口が言うんだ。

 仕方がないのだ。私達の馴れ初めなんて誰にも言えるようなものじゃない。ダンデには、父親には自殺はその場の口だけの勢いだったと弁明したと教え、ズオウとのことだってほぼ曖昧にしてあり、ダンデと出会ったのはもっとずっと前だということにしてある。二人でストーリーを立てなければ、この場でこうして話をするなんてできないだろう。
 それでも、この空間には一秒でも長くいたくない。こんな嘘だらけの空間、私はもういやだ。
 なのに、次の瞬間発せられたダンデの唐突な言葉に度肝を抜かれてしまった。

「君の部屋を見てみたいんだが、いいだろうか?」
「…えっ」

 柔らかい瞳は、純粋にそう望んでいるのだろう。でも素直に返事ができない。どうしてよりによって、今そんなことを言うのだ。
 しかし考えてみれば別に不思議じゃないことなのだろう。建前でも婚約者の生家だ。その婚約者の過ごした場所を見てみたいと思うのは、普通のことなのかもしれない。

「……わか、た。いいよ」

 ぎこちなくとも笑わなくては。あの男が見ている。


 えーと、と悩みながら部屋までの道を先導する。ダンデは黙って後ろから私を追ってきているが、そのまた後ろにはイエッサンがついてきている。あの子はいつも私の後ろをキープしていた子だ。最初はビックリしていたダンデだが、「お目付け役みたいな子かな」と教えると「たった一人の愛娘だもんな」などと受け入れてくれたからそれ以上余計なことは言わなくて済んだ。
 どうにか宛がわれた部屋まで辿り着き中へ招き入れる。当然イエッサンも後から入室した。

「ソニアの部屋とはずいぶん趣が違うな」
「ソニアみたいな今時の女の子と比べられても」

 多分誰もが思い描ける“お嬢様”の一人部屋、という内装なのだろう。白地のシンプルな壁に茶色の絨毯。テーブルやチェストなど家具は猫足のものばかり。アンティークローズのカーテンに極めつけは天蓋付きのベッド。よくもまぁこんな典型的に揃えたものだと、初めは顔が引きつりそうになった。

「これまでの君の印象とイメージが違うんだが…君の趣味か?」
「父親の趣味」

 これだけははっきりと言い切らなくてはならない。それは紛れもない事実でこんな部屋を私の趣味だと誤認されるのはごめんだ。
 入口で突っ立ったまま中を見渡したダンデは、更に中へと足を動かす。私は動かないままダンデをただ眺めていた。隣のイエッサンも、愛らしい笑みのまま同じようにしている。
 別に構わないが、女の一人部屋をこんな不躾に眺めるのはどうなのだろうとも思ったが、黙っていた。
 一番存在感を放っているベッドを見て、カーテンを見て、壁をぐるりと見渡したダンデは、突然表情を変えて自分の服の裾をつまんだ。いきなりどうしたのだろう。

「…あれ、裾がほつれてる…アネモネ、すまないがハサミを貸してくれないか?糸を切りたいんだ」
「え?ああ、うん」

 今しがた気付いたのか、裾を摘まみ上げて私を仰いだ。ここからだとよく見えないが、小さく糸が出ているのだろう。私だったら引きちぎっているところだが、本人が必要だと言うのだから探してあげよう。
 ハサミ、ハサミどこだ…とまた頭を悩ませながら多分ここだろうとチェストの一番上の引き出しを開けて、見当たらなくて二段目を開けて、そこにも見つからなくて三段目を開けても見つからない。ここじゃないのかと次に机の引き出しを開けると、やっと見つけられた。手に取って「はい」と渡すと、ダンデに「ありがとう」と微笑まれる。
 使いおわったハサミを受け取って同じ場所に戻すと今度は「トイレを借りたい」と言い出した。トイレ…とまた頭を悩ませる。

「えっと…ついてきて」
「教えてくれれば一人で行くぞ?」
「ダメ。この家、よその人一人で歩かせちゃいけないの」
「何故だ?」
「ドロボウみたいなことする人がいるから」

 同業者や取引先を装って父親の経営する会社の情報を盗もうとする輩が時折現れるらしい。だから外から招いた人間を一人で歩かせることを許さず、必ず使用人をつかせると言っていた。

「一人でうろちょろしてると、お手伝いさん達のポケモンにねじ伏せられるよ」
「それはぜひお手合わせしたいものだ」
「バトルじゃないからね?」

 あ、この顔。ポケモンが関わると隠せない、バトルフリークの顔。やっとダンデらしい顔を見れた。
 この家に入った時から普段通りを装っていたようだが、ずっと緊張して顔が強張っているように見えていたのだ。一応婚約者の家族に挨拶にきたのだし、相手はガラルでも有数の富豪家だ。対面は終えているというのに、いくらダンデでも緊張するらしい。

「でもまぁダンデ君のことずっとトイレの前で待ってるのもなんだし…今誰か呼ぶからちょっと待ってて」

 部屋の入口から顔を覗かせて気が進まないが誰かいないかと辺りを見渡す。わかった、と素直に返事をするダンデと私を、硝子飾りのついた首輪を巻かれるイエッサンが笑ったまま見ていた。
 


 私の部屋を見て満足できたのか、そろそろお暇しようというダンデの申し出に心底安心した。これでようやく、この家から抜け出せる。
 最後に父親の元へ帰る旨を伝えるために使用人に居場所を尋ねると、まだ応接室にいるとのことで、使用人と共にそちらへ向かった。
 応接室の中でソファに腰かけたまま紅茶を啜っている父親は、帰ると言う私達を見て、柔らかな物腰にお似合いの穏やかさで笑う。

「アネモネ、またいつでも帰っておいで。君の家は、ここなのだから」

 ―――背筋が凍り、ぶるりと、全身が震えた。

 はたから見れば慈愛の瞳であろうそれを向けられて、急にまともに立っていられなくなった。足から力が抜けてがくっと倒れかけてしまう。
 瞬発力の高いダンデが体を抱き留めてくれたものの、倒れかけた際に腕が背後にある棚にどん!とぶつかってしまった。中に高価な調度品がしまってある棚で、硝子がバリバリと衝撃に揺れる音が響いて、一瞬で血の気が引いた。

「大丈夫か!?」
「……」

 ダンデが慌てているが、息が詰まって返答ができない。今すぐ返事をしないといけないのに、言葉を引き換えにした人魚みたいに私の喉の奥は震えなかった。
 恐々と男を見上げると、ほんの一秒にも満たない僅かな間だったものの、表情が消えたのを見逃さなかった。すぐさま「どうした、大丈夫か?絨毯に足を取られてしまったんだな」などと心配そうな顔を浮かべて私に近寄ってくる。ドッドッ、と心臓のポンプ音が耳の奥で痛みを感じる程に煩く反響している。これには、触れてはならなかったのに。よりによって、今ここで、ダンデの前でなんて。

「なんだか具合が悪そうだな。このままよその家に帰すのは心配だ。アネモネだけでも、自分の部屋に今夜は泊まっていけばいい」
「っ!やだっ!」

 咄嗟に私を支えるダンデの腕にしがみついた。体を彼に可能な限り寄せて、半ば抱き着くような形だった。

 ダンデの体の熱だけが、私をこの場に繋ぎ止めてくれる。ダンデの優しさだけが、私を今生かしている。だから、絶対にダンデの手を放せない。

「……そうか」
「…っ」
「今日は早く寝るんだよ。ゆっくり休みなさい」

 優しい父親の顔をする男に、こくんと頷く。反射的に拒否してしまった時は何が起こるかわかったものじゃなかったが、ダンデの前だったからだろう、あっさり引いてくれたからもうとっととこの家から出て行きたい。
 起こして、とダンデにお願いしようと顔を向けると、ダンデは私でも父親でもなく、よりにもよって私が今しがたぶつかった棚を見ていて、心臓が縮こまった。

「随分、高そうですね」
「財産や権力を見せびらかす趣味はないんだが、ここには同業者や取引先が訪れるからね。ある種のパフォーマンスさ。もしかして、援助が必要かな?」
「ああ、いえ。すいませんそんなつもりでは…」
「大丈夫、何も傷ついていなさそうだ。仮に傷がついたところで弁償だなんだとせせこましいことは言わないよ。もし今後私の力が必要になればいつでも連絡してくれ。可愛い愛娘の選んだ相手だ、惜しむなんてことはしないさ」

 ダラダラと大量の汗が止まらない。二人の会話を、泥の中にいるような苦しさの中で黙って聞いているしかなかった。お願いだから、早くそこから目を放して。


  ◇◇


 少し歩きたいと我儘を言って、タクシーは用意せず途中までは歩いて帰ることにしてもらった。気遣わし気なダンデの目は私の体調を心配してくれているようだったが、このまま空の上を運ばれてしまえばきっと、と妙な自信があった。

 空の上でも、車の窓は開いているし、ドアだって簡単に開けられるものだから。

 父親と使用人たちに見送られて、家の敷地からようやく抜け出して、やっとまともに息ができるようになった気がする。ダンデは目立つからと髪をくくり、家にあった帽子やストールを身に着けてくれた。
 ゆっくりとした歩調で一歩一歩ゆっくりと歩けるのは、きっとダンデが私に合わせてくれるから。いつもは私の前を一人でどんどん進んでいってしまうのに、今ばかりは私を優先してくれるらしい。
 だから、私はダンデの手を隣で繋いだままでいられる。

「……」
「……」

 二人の間に会話はない。息ができるようになってもろくに喋れるようになったかと問われれば否で、ダンデだって私に訊きたいことが尽きない程ある筈なのに、口を開く様子は先程から一向に見られない。空気は重く、あまり心地良い沈黙とは思えなかったが、訊かれても困るので都合が良いと相も変わらず私も黙ったままだ。
 ダンデは、あの家にいる間自分の隣でずっと小刻みに震えていた私に、きっと気が付いているのに。
 段々といたたまれなくなって、何か話をしなければと頭を回すが、元来頭が弱いせいで何が最適なのかわからなかった。

「…ダンデ君」
「…ん?」
「夜、何食べたい?」
「君が作るものなら何でもうまいが、そうだな…グラタンがいいな」
「わかった、グラタンね」

 頭の悪い質問に付き合ってくれたダンデは、私の手をギュッと握った。私も、同じ力で握り返した。
 優しい力。優しい温度。何も訊かない優しさ。優しさの塊。少なくとも私には、そういう人。

 だから、ついこんなことを考えてしまう。
 ダンデなら、わかってくれるんじゃないか。受け入れてくれるんじゃないか。ダンデなら、もしかしたら、助けてくれるんじゃないか。あの日ズオウから隠して守ってくれた時のように、きっと、この人なら。
 本当は、ずっとあの家で暮らせるなら、ただダンデが側で優しくしてくれるのなら、別に結婚しなくてもいいよって白状したら、どんな顔をするだろう。

「…ねぇ、」
「あれ?ダンデ?」


 ―――頭の中がクリアになった。

 私の周囲を取り巻いていた音がみな消える。繋いでいる熱が、遠ざかっていく。


「おー、やっぱダンデだ。何して……え、あ、まじ?…デート?」

 いつの間にか既にナックルシティの中央地帯まで歩いてきていて、後ろにはポケモンセンターがあって、その奥に聳え立つのは誇り高きナックルジムで。

「まじ?お前いつの間に…」

 褐色の肌にターコイズの瞳。オレンジのバンダナにその下の黒い髪。


 ―――本物の、キバナ君。



 手を中途半端にあげたままダンデに近寄ってきた彼は、私と手を繋ぐダンデの姿を見て気まずそうに一度目を逸らした。彼の姿を見た瞬間から彼だけに体のありとあらゆる神経が集中し、今さっきまで一体何を考えていたのか、指の先にある感触も、一切合切を忘れてしまった。

「ダンデ…まじか!」
「まだ何も言ってないぜ?」
「その睦まじい姿みりゃ一目瞭然だろうが!んだよお前しっかりそういうことしてんじゃんか!」

 何やら嬉し気に私達を見ている彼は、ダンデの肩をバンバンと遠慮なく叩いている。ダンデはされるがままで、平静であれば私の存在がバレてもいいのかと配慮できるのだが、今この瞬間、私の思考回路など端から端まで全て焼き切れたも同然だった。

 目の前に、本物の、キバナ君がいる。

 血が通った、本物のキバナ君。彼が今、私の目の前にいる。

 ずく、と胸が疼いた。胸の奥底でどろりと渦巻いて揺らめく、甘美な饗宴。

 ダンデと楽し気に話すキバナ君から目が寸分も離せなくなる。私の耳にはまるで最初からそうであったかのように、もう彼の声しか聞こえない。

「なぁ」

 不意に笑顔を、声を向けられて歓喜に唇が震えた。

「俺はナックルジムリーダーキバナ!人呼んでドラゴンストーム!よろしく!アンタの名前は?」

 彼のカラッとした笑顔と言葉に胸がチリッと微かに痛んだが、しょうがないと素知らぬ振りを決め込んで、乱れる鼓動を内心嘲笑いながらどうにか重い口を開いた。

「…アネモネです。よろしくお願いします、キバナ君。あっ…、やだつい、すいません…キバナさん。ずっとそう呼んでたから」
「あれ?その反応……もしかして、俺のファンとか?」
「そう…なんです、もうずっと、前から」

 フランクな態度。へにゃりと笑う顔。優しい瞳。その一挙手一投足を目に焼き付けたくて、今この瞬間誇張もなく、私の世界には彼しかいなくなった。私の鼓膜が震えるのはもう彼の声だけで、彼の背後にあるナックルジムの厳かな色調も、頭上に広がる青空も、街路樹の青青しい緑も、彼以外のあらゆるものが急速に色を失くしていく。彼だけが、モノクロになった世界の中でたった一つ、淡い光として輝いている。

「こんな美人さんにそう言ってもらえると嬉しいぜ!悪いなダンデ、お前の恋人は俺様のファンだ…って…?」

 不自然にキバナさんが言葉を切って、どうしてしまったのかと不思議に思い首を傾げる。彼は目を瞬かせていて、何が原因でそんなに驚いた顔をしているのだろう。
 ボウとそんな顔も素敵だと見惚れていると、突然グラッと体が揺れた。そうと思えば倒れかけていて、何事かとビックリしていると熱いものに体が包まれる。ハッと、我に返った。のろまな音速で、私の世界に色と音が戻ってくる。忘れていた現実が、遠くから追いかけてくる。

「キバナ」

 平淡なのにゾッとする声調だった。頭の上で、男の声がこの場の空気を震わせている。

「彼女は、俺の婚約者だ」

 肩と腰を抱いた腕が、グッと自身へと私の体を引き寄せた。あまりに力強くて苦しささえ覚えるのに、頭の上の顔を盗み見れば嫌でも口を閉じざるを得なかった。

 ―――あれは、怒りを堪える顔だ。
 私はあれをようく知っている。何度も何度も何度も向けられてきた。理不尽に、飽きることなく数えるのも馬鹿らしくなるくらい容赦なくぶつけられてきた。

 ダンデのあんな顔、初めて、目の当たりにした。

「…え?あ、婚約者ぁ?」

 そりゃあ驚くだろう。もう顔が見えなくなってしまったが、きっとキバナさんは口をあんぐりと開けてこれでもかと驚愕しているに違いない。

「それってどういう、」
「悪いキバナ、後で詳しく説明するから」

 抱き締めている私の手首をひっ掴んで、ダンデはキバナさんに背中向けて歩き出す。後ろ髪引かれて背後を振り向こうとすると、まるで咎めるように痛いくらい強く手首を掴まれた。

 歩くスピードがとても速くて、私は着いて行くのも大変でほとんど走る状態だった。息が上がるのは、多分運動不足という理由だけではないだろう。でも、この期に及んでどうしても認めたくない。ダンデのことを、そんな風に思いたくはないのに。
 無作為に道を進んでいるのかと思っていたが、アーマーガアタクシー乗り場が見えたからどうやら目的を持って歩いていたらしかった。すぐに客を待って待機していたそれに押し込まれて、シュートシティの家付近の場所をダンデは淡々と告げる。
 狭い車内ですぐ隣にダンデがいるのに、今私は彼に近付くことができない。掴まれたままの手首は相変わらず強くて痛みを与えられるままで、きつく閉じられた唇が隙間を空ける様子もない。

「ダンデ君…」
「……」
「お願いだから何か喋ってよぉ…」

 目の奥が火がついたように熱い。唇がぶるりと私の意志とは関係なく震える。嫌なの貴方のそんな顔も態度も。
 今まで、これまでの人生の中で、こういう態度をされるときはいつも私が何か悪いことをした時だった。お前が悪い、お前が出来損ないだから、そう癇癪を起こして罵られ叩かれてきた。

「…すまない、頼むから黙っていてくれ」

 ずっ、と鼻を啜る音が無言の車内にわざとらしく響いた。

  
  ◇◇


 安寧を得られる筈の家が、思いたくもないのに怖く感じられた。全部ダンデのせいだ。ダンデの纏う空気がずっと揺らめいていて、玄関の扉を閉め切ってから再び正面から抱きしめられても、それは変わらなかった。
 このまま抱き潰されるのではないかと危惧する程強く強く抱きこまれて、怒気を殺そうとしているのか耳元で聴こえるダンデの息は、フゥフゥと荒いものだった。

「なぁ」

 震えたままの声が耳の中に囁きこまれる。隙間がない程抱き締められるせいで胸が潰されて苦しいし、ダンデが屈んでくれないせいで足がつりそうなくらい伸ばしているのが辛くて、どうしても言葉が出てこない。

「君は、俺と結婚するんだろ」

 ダンデの背中の布地を精一杯握り込んで、どうにか態勢を保つ。

「なのに、どうして」

 しかし健闘虚しく更に強く抱きこまれて、ガッと詰まった息が漏れ出た。

「…ダンっれくん……くる、い…!」

 無理に喋ろうとしても当然ろくな言葉になり得なかった。
 本格的に呼吸が辛くなってきた頃、突然顎を掴まれてダンデの唇が噛みついてきた。顎を固定されたまま最初から大口を開けて文字通り飲み込まれ、口を開けたまま食われてしまったから厚くて唾液をまとわせたぬるつく舌が入り込んできて、簡単にからめとられてしまう。
 乱暴で奪うような貪りはダンデが飽きるまで続いて、唇が放れた時には酸欠で頭が空っぽだった。視界もぼやけて前が見づらい。

 力が抜けている体は簡単にダンデの手に従うようで、肩を押されて玄関扉の横の壁に押し付けられた。徐に伸びてきたダンデの手が背中に回って、ワンピースのチャックを下げ始める。

「…え、あっ…ここでぇ…?」

 戸惑いを滲ませる声はあまりに弱々しくて、体の力だって酸欠のせいでまともに入らず、捕食者に食べ散らかされても文句が言えないくらい脆弱だった。
 嫌だ、こんなダンデは嫌だ。いつもはあんなに優しくしてくれて、甘くどろどろにとろかしてくれるのに。
 これじゃ、あの部屋に来た奴等と、どこが違うのだろう。
 うねるように身動ぎすると、僅かなりとも抵抗する意志があることを読み取ったのか、乱暴にたわんだ襟元を下にずり下げられ、短い悲鳴を上げた私の耳の穴に直接熱くて湿っぽい息が吹きかけられた。

「俺なら、好きにしていいんだろ?」




 ゼェハァと整わない息をダンデの肩に顔を押し付け吐き続ける。倦怠感で気を抜くと縋り付く腕も落ちそうだし、足がガクガクして自分一人の力では到底立っていられない。ずっと固い壁に押し付けられていたから、背中が酷く痛んだ。鬱血痕と噛み痕だらけの体は、見るに堪えないだろうな。

「ごめん…ごめんっ…!」

 譫言のようにダンデが謝罪ばかり繰り返している。その懺悔は、己の行いを客観的に見られるくらいには理性が戻ったからようやく吐き出せるようになったのだろう。

 初めて、避妊をされなかった。様子から察するに衝動に掻き立てられたまま体を突き動かされてそれどころではなかったのだろうが、この家で、ダンデを相手にして、それは初めてのことだった。あの部屋にいた頃は薬を飲まされていたが、この家にそんなもの、用意してある筈がない。
 頭の片隅で、冷静な私がそんなの気にすることじゃないって、そんな身も蓋もないことを言っている。前に自分で言ったんじゃない。子供を産むかもしれない女、って。あの時はただお礼を受け入れさせるためだけの建前だったが、素直に建設的な考えに移行すべきだ。

「…ダンデ君」
「すまない…!」
「私と、結婚してね…私のこと…、守ってね…」

 貴方のことを好きになるつもりはないけれど、私に優しい貴方でいてね。


 偽りだらけの私は、最初から知っていたけど、世界に嫌われるくらいみにくい。