- ナノ -




(4)救いたもうた君に蔓延る棘


「はぁ?結婚!?」

 しまった、と口を押さえた所でもう遅い。ダンデからは許可を貰うまでは他言無用を言い渡されていたのに、ついうっかりでポロッと口から零れてしまい、ソニアの米神から冷や汗が伝う。
 ガチャンとカップをテーブルに叩きつけるように戻したルリナの向かいに座るソニアは、心底ここが自宅の自室であったことを感謝した。これが公共の場であれば今頃注目の的で、一体誰に二人の話が伝播したものか分かったものではない。しかもそれが、尾ひれがついて憶測ばかり広がった下世話な内容であれば、そうなった場合ソニアはどう責任を取ればいいのかと想像もできない。

「いや、あのぉ……ごめん聞かなかったことにして!」
「いやいやムリでしょ!?しんっじらんない、ダンデが結婚だなんて!」
「あ、ああ〜〜〜……」

 突っ伏して頭を抱えるソニアを見ても、ルリナはどうしても興奮を抑えきれなかった。
 だって、いつの間にそんな話が出来上がっていたというのか。それも相手はあのチャンピオンだ。これまでにそんな様子は一切見られなかったし、ダンデが結婚だなんて、およそ似つかわしくない単語が一体全体どうしたらくっついてくるのだ。

「ダンデくんからは言うなって言われてたの〜〜だからルリナさえ黙っててくれればここで終わる話!お願い!」
「……もう、しょうがないなぁ…公式発表されてるわけじゃないし、知らん顔しててあげる」
「ありがと〜〜!」

 パンッ!と両手を合わせて懇願するソニアの必死な姿に、ルリナは親友を助けてやることに決めた。実際まだダンデからその話があったわけではないし、ソニアの様子から話は本当なのだろうが、大切な友人の首を絞めるのは本意ではない。

「でも、もう少し細かい話は聞きたいなぁ〜」
「うっ……口を滑らせた私が悪いんだけど、ほっっんと黙っててね!」
「はいはい」

 要所要所をかいつまんで、ソニアはダンデが見知らぬ女性を連れてきて泊めてほしいとやってきた日のことを思い出しながら話す。さすがにダンデの相手が命を捨てようとしていたことは伏せた。そもそも直接的にそう話をされたわけではなく、当のダンデもポロッと「海で…」などと滑らせただけだ。恐らく祖母たるマグノリアには詳細を話したようだったが、祖母からも彼女について詳しくは伝えられていなかった。
 話を聞いている内に、段々とルリナの眉間に皺が寄っていく。モデルとして顔を商売の一つにしている彼女は気を付けていることだったが、聞かされた話にそれを解く気まで回らなかった。

「それって、本当に恋人なの?」
「じゃなかったら結婚なんてしないでしょ」
「まぁ…そうだけど…」

 ソニアの話を聞いた限りだと、どうしても想い合う二人が結婚を決めたようには思えなかった。ますます眉間に皺を寄せるルリナに「ココ、ココ」とソニアが自分の眉間を指して、ようやくルリナは我に返って眉間を指で揉み解す。
 しかしそれでも、もやもやとした感情まで解かれることはない。

「いつ二人はココに来たの?」
「えっと…一週間以上前だったから…」

 スマホのカレンダー機能を開いて「この日」とルリナに見せる。すると、ルリナが少しだけ驚いた顔をした。

「委員長とジムに来た日だ」
「え?ジム?」
「そう。委員長とダンデと、あとオリーヴさん」
「なんでまた?」
「今度のエキシビジョンマッチ開催の打ち合わせ。委員長がレストランに用事があったからってわざわざジムまで来てくれたの」
「あ、今度のエキシビジョンマッチの相手ルリナなんだ」
「そう。でも変なの、ダンデはそんな素振り一切なかったのに…」

 確かダンデは、別れるときにこのまま帰ると言っていた筈だ。それも、委員長からの誘いを断って。あれは恋人と会う予定があったから、わざわざ断って帰ろうとしていたのだろうか。とは言っても、ダンデからは浮足立つような印象は全く感じられなかったのだが。
 そもそも、仮にその後恋人と逢瀬したとして、どうしてわざわざこの家に泊めろなどとやって来たのだろう。

「…考えてもしょうがないけど、本当にその結婚相手、大丈夫なの?」
「うーん…なんかあんまり好かれてない気がして、ほとんど喋ってないんだよね」
「え、そうなの?」
「うん。おばあさまにはそんな態度じゃなかったんだけど、なんとなくそう感じて」
「ソニアが幼馴染って知ってたとか?ヤキモチみたいな」
「そういう風でもなかったんだよね…なんかしたかな、私」
「たったの一晩の間に?」

 怪訝そうな顔をする二人だが、顔を見合わせて唸ったところで直接面識のないルリナと、面識があってもほんの数時間しか共にいなかったソニアでは、答えは出てくるわけもない。
 あれからダンデも結婚相手も訪ねてくるどころか連絡の一つも寄越されていないが、今頃どうしているのだろうか。
 突然訪問してきた日のことをまた思い返し、ソニアはダンデの結婚相手の顔を思い浮かべたところで「あ」と、小さく溢した。

「ちょっとあの人には悪いんだけど…。その人、凄く綺麗な人だったの」
「…ん?それのどこが“悪い”の?」

 風呂場へ案内した際、正面からまじまじと見てしまった、ダンデの結婚相手の顔。
 はっきりとした目鼻立ちに、ぷるんとした唇。その時ばかりは艶を失っていたが、ふっくらとして赤みのある唇だった。パッチリの二重瞼で、他人の目を引く美人と言い表せる顔立ちだろう。顔の系統から純粋なガラル人ではないかもしれないが、同性のソニアですら綺麗な人だと思ったのだ。
 でも、ソニアは気が付いてしまった。もしかすれば、それが心を開かれなかった原因かもしれない。

「ダンデ君が気付いてるかはわからないけど、あの人、多分―――」



  ◇◇



 動かなくなったダンデは、大人しく私の唇を受け入れた。重なった瞬間は驚いたようだが引き剥がされることもなく、僅かな間のキスは音もなく始まって、音もなく終わった。
 余韻に浸りながらすり、と指先で頬を撫でると、ダンデはようやく我に返ったのか私の肩を急いで掴み、自分から遠ざけた。

「…ごめんなさい、抑えきれなくて」

 悪びれるつもりは微塵もなかったが、いじらしい振りをした。お互いに想い合う気持ちがないくせにこんなことをした私は、軽い女だと思われただろう。

 でも、本当にただ、嬉しかったのだ。

 この世界の誰一人も私を助けてくれるわけがないと思っていた。ずっと暗い部屋に押し込められて、周りは敵だらけで、どんどん自分を失くしていった。大人しく言うことを聞いて従った方が楽で、何よりそうしないと生きていけなかったから。

 でも、この人は違った。愛情なんて持っていなくても、正義感が動かした行為だったとしても、私を怖いものから引き離して守ってくれた。

 それがどれだけ、喜びを与えてくれたのか、一つもわからなくとも。

「でも、どうやってお礼をしたらいいのかわからない。誰かを喜ばすなんて、これしか知らない」

 Vネックワンピースのボタンを上から外して襟元を寛げる。まだほんのり噛まれた跡が残っているし、薄いが殴られた痣が消えていないけれど、これしか思い浮かばない。
 ブラジャーが覗く箇所でボタンを外すのをやめ、腕を袖から引き抜こうとしたところで、慌てたようにダンデに手首を掴まれた。見上げると、顔を赤くしたり青くしたりと、随分忙しそうだった。

「ま、まて、やめるんだ」
「でも、お礼しなくちゃ」
「いいからっ、そんなつもりであの男から君を庇ったわけじゃない。それに、そんなに簡単に自分を売るものじゃない」
「…そうだよね、汚い体だもの。嫌だよね」

 俯いて睫毛を伏せると、ダンデは目をうろちょろさせてわかりやすく狼狽えた。変なの。今まで近づいてきた男たちはみな、舌なめずりしながら私の体をまさぐったのに。
 ぐっと息を詰めたダンデは、再び私を抱き締めた。恐る恐る、という言葉が似合うような、弱々しい力加減で。
 頭の後ろをなだめるように撫でられ、子供をあやすような優しい抱擁に今度は私が狼狽えた。攻撃の意志のない温もりは、こんなに安らぐものだったのか。
 母親にもこんな風に抱き締められたことがないから、わからない。

「違うんだ。そうじゃない。君は悪くない…でもここで君の言う通りにしたら、俺は君を痛めつけたあの男と同じになってしまう。俺は、俺の劣情に流されて、今後も君を傷つけたくはないから。だから君は、もっと自分を大切にしてくれ」

 大切にするってどうすればいいんだろう。私の体は“感謝”になり得ないのだろうか。今までずうっと蔑まれて、踏み躙られて、なのに欲望だけはぶつけられてきたから、具体的なことが想像できない。
 でも、多分ダンデも私を大事にするよって意味の言葉をくれたようだから、少し考えてみよう。

 眠くはないが、自然と瞼が落ちて視界が暗闇だけになる。
 遠くから、ねっとりといやらしい声が聞こえた気がした。うまくやるんだよ、って。うるさい、言う通りにするから、だから今はこれ以上余計なことは言わないで。



 気付けばすっかり陽は落ちていて、夕飯時になっていた。
 夕飯をこしらえている間ダンデはソファに座って自分のスマホと睨めっこしていて、そういえば日中かかってきた電話も長かったなと思い出す。仕事の話だったらしいが、彼はチャンピオンなのだから色々と背負うものもあるのだろう。
 それにしても、よくダンデは私を見つけたものだ。ズオウに引っ張られて元居た場所からは遠ざかった路地と路地の間というわかりにくい場所にいたというのに。汗を随分かいていたようだし息も荒かったから、探し回ってくれたのだろうか。
 見つけて助けてくれたから、今更それもどうでもいいのだけれど。

 時間をかけて料理を用意し、全てテーブルの上に並べるとダンデは面白いくらいに目を丸くした。一つずつ並ぶ料理を見比べて、戸惑っている様子だった。

「こんなに作ったのか?」
「何が好物なのかわからないから、とりあえず色々と…」

 色々とダンデの話は知っているが、好きな食べ物なんて聞いていないからわからなくて、思いつくものを間に合う食材で片っ端から作り上げたのだ。
 ほんの少し胸がくすぐったい気がして、俯いて指先を擦り合わせた。もしかして、これが照れくさいというやつなのかもしれない。ほんのちょっとだけ、頬が熱を孕んでいた。

「一個でも…、好きな物があればいいけど…」

 痒くもないのに指先をくにくにと擦り合わせて下を向いているから、ダンデの反応は見えない。けれど一向にフォークもスプーンも持ち上げない様子に、もしかしてと思い至り顔を上げてダンデに詰め寄った。

「も、もしかして苦手な物あった…?ごめんなさいすぐ片付けるから」
「え?…いや、違う、違うからそんな顔しないでくれ!」

 そんな顔とはどういう顔だろう。焦ったように私の肩から二の腕を擦るダンデに聞きたかったが、なんだかダンデのその顔をもう少し見ていたくて口を閉じた。そんなに焦って、私を気遣ってくれているのかな。なんて、おこがましいだろうか。
 ちょっと気落ちして縮こまっていると、ますますダンデは狼狽えてしまい、そわそわとした気持ちが急激に萎んでいった。

「……すまない、違うんだ。驚いてしまっただけで。それに苦手な物はないから」
「ほんと?」
「ああ」
「なら、良かった」

 ほんのり持ち上がった気分に現金だなとは思うが、気分を害したわけでないなら本当に良かった。
 安堵したら力が抜け、頬の筋肉が緩んだ。すると、何故かダンデが全身で固まってしまった。また驚いたような顔をしている。今度は何にビックリしたのだろう。

「ダンデ君?」
「…あ、ああ……」

 おざなりな反応に首を傾げる。それよりも苦手な物がないなら冷めない内に食べてもらいたいのだが、どうしたらよいだろうか。
 もしかして、私が席に着かないから待ってくれているのだろうか。ならば逆に申し訳ない。お腹空いているだろうに、私を気遣ってくれたのかもしれない。
 いそいそとテーブルを回って自分の席に着いて、食べよ、と声を掛けると、ようやくダンデの体が揺れて、また料理の山を見つめた。
 初めにサラダをフォークで刺しながら、なんだか心あらずな様子のダンデに訊きそびれたことを尋ねる。今後のためにも必要な情報だ。

「ダンデ君、何が好き?」
「…特に好き嫌いはないぞ。強いて言うなら手早く食べられるものだろうか」
「手早く?」
「ああ、正直食べられればそれでいいんだ。食べている時間も惜しいからな。でも、このグラタンは絶品だ」
「本当?嬉しい…ありがとう」

 また頬の筋肉が緩んだ。ずっと凝り固まっていたから違和感が強いが、今日はなんだか頬が動かしやすい。それに少しだけ、体も軽い。
 ダンデはまた私をまじまじと見つめて、持ち上げたままだったフォークがポロッとその手から落ちた。カチャンとテーブルに落ちた音がしても、落とした態勢のままで微動だにしない。二つの目が揃って真ん丸で、口がポッカリと開いていて、その中には何もなかったから本当に美味しいと食べてくれているみたいで良かった。あと間抜けな顔、可愛い、かも。


 それからダンデは並べた料理を無言でかきこんで、あっという間に全部吸い込まれていく光景に満足感を覚えた。あんなに量があったのに大食漢というのは恐ろしいものだな。
 食べ終わって立ち上がったかと思うと「シャワーいく…」と何故か頭を押さえながら歩いて行ったダンデは、大丈夫だろうか。何やら具合がよろしくなさそうに見えて、いつもならいつの間に浴びてきたのかと疑うくらい短い湯浴みなのだが、今日はまだ戻って来ない。少しだけ心配になってきた。

 様子を見に行こうかと思った頃、ようやく戻ってきたダンデは髪が濡れたままで、いつもなら気にならないのにこの時ばかりはどうしても気になって、パタパタと彼に駆け寄った。
 かがんで、と請うと不思議そうにしながらも素直に応じてくれて、肩に掛けるだけのタオルを引き抜いて腕が届く距離になった頭をわしゃわしゃとタオルで拭く。一瞬ダンデの肩が跳ねたが、気にせず続けた。

「いつも乾かさないけど、どうして?」
「…放っておけばそのうち乾くだろ」
「傷んじゃうよ。ねぇ、そこ座って。乾かしてあげる」
「えっ、…いやいい!」
「良くないよ、せっかく伸ばしてるんだから綺麗にしなきゃ」
「別に必要ないぞ!」
「必要あるよ、ほらこっち」

 タオルを頭に被せて手を引こうとしたらさっと高い位置に上げられてしまった。むっとして見つめると「じ、自分でやるから!」と強めに言い切られてしまった。
 逃げるように脱衣所へ戻っていく背中に残念な気持ちになる。やりたかったのに。


  ◇◇


 お礼がどうしてもしたいのだ。何かをしてもらったら、何かお返しをしなくては。対価が必要。ずっとそうしてきた。

 あの部屋にいた時もそうだった。一方的な場合もあったが、こんなに教えてあげたんだからわかるよね?といつも言われた。嫌で嫌でたまらなかったけれど、お返しをしないと後が怖いから泣きながら対価を払った。ほとんど泣きじゃくりながら対価を払うと余計に喜ばれて、その内泣いていないとつまらないなどと、普段だけでなくその時も殴られることが増えたから、自然と始まる瞬間から涙が零れるようになった。

 そのずっと前から対価を求められることが多かった。ある日を境に、それは相手から求められるようになった。勉強を教えてもらった、夜道を送ってもらった。些細な“助け”を受けた際は、必ずと言っていい程対価を求められた。舌なめずりをして、瞳をギラつかせて、私に対価を寄越せと迫ってくる。
 だから、私はダンデへお礼をしなくてはならない。そうでないと、私に価値がなくなるから。私の価値なんて、それしかないから。

 最初は帰宅した時のダンデの言葉を頭の中で反芻させて、少なくともこの家にいる間は必要ないのではないかと迷ったが、どうしても素直に割り切れなかった。多分、ダンデは後出しで対価を求めはしないだろう。短い付き合いだが、そういう人間に見えた。
 でも、私の中で根付いたそういう価値観がどうしても静まらない。そわそわと落ち着かなくて、頭の中がグルグルとして、結局大人しく寝られなくてダンデの寝室の前までやって来た。
 まだ起きているだろうか、薄く期待しながら扉をノックする。すると程なくして扉が開いたから、起きていてくれたかと胸を撫で下ろした。

「どうした?まだ寝ていなかったのか?」
「入っていい?」
「…え?」

 言葉はなくても私の様子から何やら察したらしい。瞠目して動揺するダンデが呆けている内に胸を押して扉の中へと入る。慌てた様子のダンデを見るのは、今日これで何度目だろうか。

「ま、待て、どうしたんだ」
「嘘吐き。気付いてるくせに」
「俺の言葉を聞いていなかったのか!?俺は君にそんなこと求めてない!」
「婚約者なのに?」

 うっ、とダンデは途端に言葉を失くした。続かない言葉に小さく笑って、行き場がない右の掌を掴んで引き寄せる。

「どうしてもね、お礼がしたいの。これしか思いつかないし、今までずっとそうしてきた。それに、本当に嬉しかったの、ダンデ君が助けてくれたこと。私はダンデ君の婚約者で、遠くない日に結婚して、子供を産むかもしれない女。何が可笑しいの?」

 熱い掌を指で揉み込んで、自分の頬にぴとりと当てる。あったかくて大きくてマメがたくさん潰れていて、ちょっとカサついていた。言葉を模索するのに夢中で掌が引かれないのを良いことに、真ん中にできた窪みにキスをしてから唾液を乗せた舌でベロリと舐め上げた。

「っ!」

 何を思っているのかはわからないが、一度震えただけで掌は大人しく私の舌の動きを受け入れている。ちゅっとキスを交えながら指を食む。丸い爪が可愛い。
 唇を放して、寝間着の上から胸に押し当てた。
 ダンデが、閉じた唇を噛み締めている。瞳が揺らいでいることを見逃さなかった。

「ダンデ君なら、好きにしていいよ」


  ◇◇


 隣で寝転ぶダンデの寝顔は、小さな子供みたいに幼げで愛らしい。なのに整えた髭の周りにポツポツと不精髭が生えていて、この人もやっぱり生きた人間なんだって改めて思う。
 不揃いな髭を指先で擦るとジョリジョリとして面白い。まだ寝ているのを良いことに遊んでいるが、早く起きて欲しいようなまだ眠っていて欲しいような矛盾を抱えつつ、髭を遊ぶのに飽きてその下まで指を伸ばす。顎を過ぎて、出っ張る喉仏。軽く指先で押すと、強く手を掴まれた。

「起きた?」
「……何してた?」
「遊んでた」

 ふふっと笑うと、ダンデの眉が中央に寄った。そんなに怒らなくてもいいのに。
 不機嫌そうな寝起きのダンデは、ゆっくりと体を起こして、すぐにハッとした顔を作った。自分の体を見下ろして、毛布を持っていかれてしまい上半身丸見えにされて「さむい」と笑う私を見て、慌てて毛布を私へ被せた。頭からすっぽりである。

「ダンデ君、見えない」
「俺は…くそ……」

 毛布を捲って顔を出して見ると、目元を掌で覆って嘆いているダンデは昨夜のことを後悔しているらしかった。あんなに気持ちよさそうだったのに。
 つくづく可笑しな男だ。別にそんな罪悪感、抱くことでもないのに。

「ダンデ君」
「…なんだ?」
「優しくしてくれて…ありがとう」

 鼻の上まで布団をもう一度被ってダンデに伝えると、ハアアと深い溜息を吐いて項垂れた。本当に変な人。



 優しく抱かれた日から、ダンデは私に対して過保護になった。今日もまた朝から口酸っぱく外には出るなと言われ、頬を膨らます。

「…別に、大丈夫だよ」
「ダメだ。またあの男に見つかったらどうするんだ」
「ズオウの行動パターンは知ってる。あれは暫く現れないよ」
「わからないだろう、百パーセント安全が保障されないなら、君は暫くこの家から一人で出るべきじゃない」
「心配してくれてるの?」

 わざとそう言えば、数秒黙った後「…そうだ」と返ってきた。最近ダンデは、実はからかい甲斐のある男だと気が付いてしまったから反応を見るのが楽しい。

「…とにかく、今日も家で大人しくしててくれ。なるべく早く帰るようにするから」
「わかった。ごめんね」
「もう謝らないでくれ、頼むから」

 朝から疲れたような顔のダンデは私の頭を一撫でしてから出て行った。
 本当にズオウのことは暫くの間考えなくてもいいことなのだが、ダンデの言葉に従うことにした。また暇を弄ぶ毎日が続くのかと思うと憂鬱だが、それでもこの家にいる間は安全だから贅沢な悩みだろう。
 時計の時間を確認して、メッセージアプリを開く。たった一人からの連絡に返信し、スマホの画面を暗くする。これもまた憂鬱な時間だった。今後ずっとこれが続くのかと思うと、その内具合が悪くなりそうだ。

 それから数日。今日も暇を持て余してテレビを点けたままスマホをいじっていると、スマホの方に速報ニュースが入った。見出しに含まれる“ダンデ”の名前に何も考えずそれをタップする。画像付きで掲載される文章を、上からゆっくり読み進めた。

 それは、つい先程ダンデがポケモン強奪犯を捕まえたというニュースだった。
 ラテラルタウンで発生したそれは複数人の犯行で、皆一様にグレーのジャケットを羽織り、往来で爆破騒ぎを起こして逃げ惑う人々のポケモンを盗もうとしたらしい。その後盗んだポケモンを抱えて逃走しようと6番道路へ向かったところでダンデがやって来て、あっという間に取り押さえられたようだ。
 画像はその場に居合わせた人々や被害者らしき人達がダンデを囲み、にっかりと笑うダンデの姿。

 ここのところ、こうした盗難事件が頻発しているようだ。多くは騒ぎを聞きつけて駆け付けたジムリーダーやダンデの活躍で未遂に終わっているようだが、最近こうしたニュースが目立つ。あまりに発生件数が増えていることから、それぞれの関連性の可能性が示唆されている。
 それにしても、チャンピオンというのは色んな所にひっぱりだこのようだ。こうした警察管轄の事件にまで出動させられるとは。

 ボンヤリと笑顔のダンデの画像を眺めていると、メッセージアプリが受信アイコンを表示して、送信者がダンデだったのでまたすぐに開いた。どうやら今日も家で夕飯を食べるらしい。

『わかった。リクエストある?あと、ネットでニュース見たよ。ポケモン盗難事件のやつ。お疲れ様』

 送信して一度スマホの画面を落とす。ソニアさんの話や普段の様子から筆不精かもしれないと懸念していたが、意外とこうしてダンデは連絡をくれる。そうして欲しいとお願いしたからでもあるが、連絡があるとないとでは夕飯の運命が変わるから助かっている。
 早く帰ってこないかな。今日は、一緒に寝たいな。

 ふと、聞こえた点けっぱなしのテレビの音声に顔を上げて、目が釘付けになる。なんてことないプロテインの宣伝CMだったが、目が奪われたように放せなかった。
 短い音が鳴ったことから、暗くなったスマホにダンデからの返信が届いたみたいだが、CMが終わるまでそれは見られない。


  ◇◇


 引き籠りのような毎日を続けて、二週間は経った。その間言われた通り一人で外出はせず、どうしても買い物が必要な際はダンデに買ってきてもらうか、ダンデが休みの日に必ず同伴で外出した。最悪通販だ。その間予想通りにズオウは現れず、ほれ見たことかとダンデを鼻で笑ってみせたのだが、ダンデの顔は相変わらず難しいままだった。

 一人で外出OKを貰えず、今日もぶすくれながら掃除に洗濯に勤しんでいたのだが、昼食を用意しようとして冷蔵庫を開いて、ペットボトルの水が少なくなってきていることに初めて気が付いた。いつの間にこんな本数になっていたのだろう。生活の必需品の底がつきかけている様に困ってしまった。昼食で使ってしまえば夜にもたないだろう。
 たかが水。されど水。どうしたものか。ダンデに頼めば買ってきてくれるだろうが、それも夜遅くになって夕飯には間に合わない。今日の帰りは深夜になりそうだと今朝言っていたのだ。
 デリバリーを頼もうか。でもそれもそろそろ飽きてきたところだ。それに、ダンデには出来立ての手料理を食べさせてあげたい。

 冷蔵庫を閉じて腕を組む。うーんと唸って、邪な考えがもくもくと浮かんできた。
 今、買いに行ってしまえばいい。マーケットまでは少し歩かなくてはならないが、少しの外出だ。少し外に出たところでダンデへ居場所が筒抜けになっている訳でもないのだから、きっとバレないだろう。

 今までイイコにしていたんだから今日くらい許してねと、財布とバッグを持って外へ出た。寧ろこれまで言うことを素直に聞いていたことを褒めてほしいくらいだ。
 燦々と降り注ぐ太陽の下を歩くのは気持ちが良い。今の家に住むまでは暗い場所にいたから、余計に太陽のありがたみを痛感するようになっていた。



 真っ直ぐマーケットまで歩いて、目的の水を数本買って店を出た。重いが仕方ない。
 寄り道していこうかとも思ったが、荷物が重いからさっさと今日は帰ろうとゆっくり元来た道を引き返す。
 住宅街へ差し掛かろうとしたところで、見慣れた後姿を見つけてしまってビクンと体が跳ねた。ダンデ、何故、そこにいる。
 どうしよう、見つかったら怒られてしまうに決まっている。迂回路を探したかったが、ここから先は一本道で、このまま真っ直ぐ進まねば家へは辿り着けない。
 立ち止まってどうしようかと冷や汗を垂らしていると、ダンデの体が少しだけ動いてその正面に誰かがいるのがわかった。どうやら誰かと立ち話をしているらしい。
 ダンデよりも年上らしき男性は、茶色いロングコートにベストとネクタイという装いで、仕事の関係者なのだろうか。

 つい二人の様子を見ていると、ロングコートの人物と目が合った。男の口が微かに動いて、ダンデがこちらを振り向いてしまう。目と目が合って、ヤバっと自分の状況をようやく思い出した。

「アネモネ…!?何故外に!」

 ずんずんと歩いてくるダンデに逃げ出したかったが、逃げ場などなく簡単に捕まってしまった。そっぽを向いて口を固く結ぶ。吊り上がっているだろう目尻など見たくはない。

「君は!あれほど出るなと言ったのに!」
「…水が、切れそうで」
「連絡してくれれば俺が買って帰った!」
「夕飯にも足らなそうで…」
「デリバリーすればいいだろう!」
「飽きたし……それに、ダンデ君に料理作ってあげたくて…」

 ぐっ、とダンデが黙った。何やらヒットしたようだ。このままいけば押し切れるかもしれない。

「…だからといって、またいつ奴が現れるかわからないのに」
「大丈夫だって言ってるのに…もう二週間以上経ってるし」
「でもなぁ君」
「ダンデ君あの人と話してたんじゃないの?いいの?」

 顔をロングコートへの人物へと向ければ、ダンデは思い出したのかそちらを振り向いて「すいません」と謝る。ロングコートの人物は気真面目そうな顔で「気にしないでくれ!」と口にしつつ私達へ近寄ってきた。

「話の途中にすいませんでした」
「いや構わないさ!ところでこちらのお嬢さんは?」
「……ハンサムさん、」

 咎めるような視線をハンサムと呼んだ男へダンデが向け、奇妙な光景に首を傾げた。何故そんな目をする必要があるのだろう。

「…すまない、ついな!驚かせてしまってすまないなお嬢さん!わたしはハンサム!よろしくどうやらダンデ君と関りがありそうなお嬢さん!」
「…アネモネです」
「そうかアネモネ君!重ね重ね、わたしはハンサム!いわゆる国際警察だ!」
「国際警察…?」

 しれっと口にされた単語に首を傾げた。何故、国際警察がこんな所にいるのだ。それも、ダンデと二人きりで。
 驚いた様子の私に気付いたのか、ハンサムさんは「ふむ」と顎に手を添えて短く漏らす。するとダンデが、まるで私を隠すように前に立ち塞がった。

「ハンサムさん、彼女は一般人です。これ以上は…」
「いや、君と何やら関係ありと見た。ならば、今後巻き込まれる可能性だってある。先日の一件だって治めてくれたのはダンデ君、君だ。腹いせに奴等から目を付けられても可笑しくはない」
「…そうかも、しれませんが」
「…?」

 顔だけで私を振り返り、向けられる気遣わしげな色の瞳にますます疑問が募る。一体、何の話をしているのだろう。

 ハンサムさんは一度表情を引き締め、コホンと咳払いした後、私へ向けて真っ直ぐに口を開いた。


「失礼、アネモネ君。わたしはとある組織を追ってここガラル地方へと捜査の為にやって来た。その組織の目的は分からず、全容は未だ知れない。目下捜査中であるが、ダンデ君等の協力によりようやくその端っこを掴むことができた。アネモネ君、グレイ団という名に聞き覚えはあるだろうか?」