- ナノ -




(1)エンドロールにはまだ早い


 大丈夫。全部、きっとうまくいく。 
 あんなに下準備をしたのだもの。だから、大丈夫。絶対成功、する。


 靴を脱いで鞄と共に揃えて、柵を乗り越える。本当は灯台の麓を選びたかったが、あそこは高さがあまりなかったからやめたのだ。
 住宅街を抜けた崖の上から眼下をゆっくりと見下ろす。暗闇で果てのない大海の表面までには、どれ程の高さがあるのかすら灯りが乏しいせいで見えない。飛び降りたら、一体何秒で着水するのだろう。
 思い返してみてもなんて人生だったのだろう。何度も恨んで、何度も血反吐を吐いて、何度も殴られて、何度も辱められて。誰も助けてくれなくて、とうとう私はこんな所までやって来てしまった。

 ああ全く、どうして私は、生まれてきてしまったのだろう。

 もうそろそろ頃合いだろうか。ビーズを散りばめたような星が点々と広がる夜空を見上げていた顔を一旦引いて、再び底が見えない真っ黒な海を見つめる。ザバザバと波が大きく寄せては引いている。実際本当に、波に攫われてしまいたかった。
 でも、いいのだ。これが私の望みなのだから。私が選んだのだ。
 ばいばい私。さよなら、惨めな人生。

「何してる!!」

 背中から大きな声が聞こえて、突然の怒鳴り声に体がビクついたせいでふらりと前へと傾く。あ、なんて自分の口から小さな声が漏れて、反射的にギュッと目を瞑った。ほら、やっぱりいい頃合いだった。
 しかし私の体はそのまま無防備に海へ投げ出されることはなく、誰かに腕を力任せに掴まれて体が勢いよく後ろに傾き、足が踏ん張れなくて勢いのままに倒れてしまった。

「っはっ…はあ…」

 頭の上から男の荒い声が聞こえる。温かい温度が背中から伝わってきて、その誰かのせいで私は海に落ちることができなかったらしい。
 ボンヤリしていると後ろから肩を押されて上半身を無理に起こされる。腰が抜けたのか立ち上がることができない。そんな私に気付いたのか自ら正面に回って、その人は恐ろしい程眉を吊り上げながら肩をいからせ、興奮のせいか目が大きく開いていた。

「死ぬ気か!!」

 ガツン!とその場の空気が殴られたように震える。私はまだボンヤリしていて首を傾げた。
 不思議なことを聞く人だ。どこからどう見てもそうだっただろうに、そんなことをわざわざ確認してどうなるのだろう。何のために靴まで丁寧に脱いでいたのだ。
 自分の怒りが私に微塵も響いていないことに気付くと、男が肩を掴む手の力が増した。力を込め過ぎているせいか小刻みに手が震えている。

「…っはぁ、でも、間に合って良かった」

 急に力が抜かれて男が溜息を深く吐きながら安堵しているが、何も良くない。これじゃあ何も終われないのだ。まだ、エンドロールには早い。
 貴方が私を引き戻したところで、何一つ事態は終わっていないの。

「…良くないです。せっかく死ぬところだったのに」
「死ぬなんて簡単に口にするな。何があったのかは知らないが、命は捨てていいものではない」
「それは貴方の価値観で、私の価値観ではない。私は、私の命を捨てていいと思ってあそこに立っていたのに」
「それでも、目の前で命を投げ出そうとする人を見て、大人しくなんてしていられないさ」
「さすがチャンピオン、ご立派ですね」

 ガラルのチャンピオン―――無敗のダンデは持論までご立派で綺麗なことだ。輝かしい功績ばかり積み上げる人はさすが民衆に優しい。でも、やっぱり馬鹿なのだろう。貴方の物差しと私の物差しはね、根っこから作りが違うの。
 自分が有名人だと自覚があるのだろう。私が名前を言い当てたところで動揺も驚く素振りも一切見られなかった。

「放してください。私は死にたい」
「そう言われて素直に放すわけがないだろう」
「なら結婚してくれますか?」
「は?」

 脈略のない私の発言に目を丸くするダンデは、あまりに間抜けだった。数秒かけて私の言葉を咀嚼していたようだが、当然そんな話が飛び出してきた理由など自分でわかる訳もないだろう。

「私、付き合ってる人がいるんです。でもその人、私のことよく殴るの。気に入らないことがあるとすぐに、何度も何度も。今も、そんな彼から逃げてきた。今までに何度も逃げて来たけど、いつも見つかって連れ戻される。甘い言葉に騙されて、そうやっていつも辱められてきた。もう無理なの。痛いのは嫌なの、逃げたいの。逃がしてくれないなら、貴方が私を守ってよ」
「…それで、結婚か。極論だ」
「そうでもしないとあの人が怖くてたまらないの」

 我ながら無茶な話だと思うが、そうするしかないと浅慮な考えが支配する。
 いつも一人で暗い場所の片隅で祈っていた。もう私一人だけではどうにもできない。お願いだから、誰か私を助けてって。暗い沼底から手を引っ張り上げて、と。
 助けてくれる人は、この世界の何処にもいないのに。

「肩、そろそろ放して。そこも踏まれたばかりなの」

 痛みにはもう慣れたものだが痣が酷いだろうし、肩を掴まれたままではろくに動くこともかなわない。
 ダンデは何やら考え込んでいたようだが、まじまじと私の顔を見つめた後、ふっと手の力が完全に抜けて放されたからそれは幸いだった。
 少し腕が回しづらいが、外れるまではいっていないだろう。誰もかれも人の肩を痛めるのが好きな人間ばかりだ。
 さて、どうしようかと思案していると、不意にダンデの顔がしっかりと私に合わされ、思案している間ずっと閉じられていた唇が、ようやく開いた。

「わかった、結婚しよう」

 内心大笑いだった。こんなこと、本当にあるものなのか。
 それが本心ならば貴方、人が良いにも程があるでしょうに。




「今日はここに世話になってくれ。明日の朝迎えにくるから」
「ここは貴方の家に連れて行ってくれる場面ではなくて?」
「女性を迎える為の準備があるだろう。今からだとできることも少ないが、追々それは二人で話し合おう」

 連れてこられたのはブラッシータウンで、ここは確かマグノリア博士の自宅の筈だった。こんな夜に突然訪問するのもいかがなものだろうかと他人事のように思っていたが、宛もないし大人しく言うことに従った。
 アネモネだ、と老齢のマグノリア博士と、何事かと様子を見る為に二階から降りてきたソニアと名乗る女性に紹介され、一応頭を下げる。三人が何やら話をしていたが、眺めているだけだったのであまり耳に入ってこない。それよりも、早く体を横にしたかった。

 ソニアさんに案内され、まずはシャワーを借りることになった。彼女の物らしき着替えを渡され、下着は今から洗濯するから少し待ってくれと申し訳なさそうな顔をしている。頼まれた相手がチャンピオンとはいえ、初対面で素性も知れない女のためにそんな顔をしてくれるなんて優しい人なのだな、なんて思うことはない。きっとダンデから身を投げようとしたことを聞かされている筈だ。優しさは優しさだろうが、それは、哀れみの範疇から抜けない部類だろう。
 風呂場の説明を受けていると、ふとソニアさんの目が私の顔に向けられているのがわかって、反射的に眉を顰めてしまった。よく知っている視線だ、これは。

「何かおかしなところでもありますか?」
「あ…いえ、ごめんなさい。ただ、その…とてもお綺麗だと思って」

 じっと見つめていたことに後ろめたさを感じているのか、へにゃりと誤魔化すような笑みを見て、落ち着くために一度目を瞑った。
 私にとってそれは、賛辞ではなく、呪いの言葉だ。
 化粧落としを借りて、温かいシャワーを浴びて、備え付けられた鏡に映る自分の体を見つめる。白い肌に青かったり赤黒かったり、大小様々な痣がたくさん広がっていて、バウタウンに向かう直前まで馬乗りになられていたことを思い出し、当然かと薄い笑みがこぼれる。

 きたないからだ。きたないこころ。ほんとうはみにくいかお。
 こんなの、一体誰が愛してくれるのだろう。

 乾燥機まで回してくれたお陰で無事に下着を身につけることもでき、リビングらしき場所まで引き連れられて、そこではマグノリア博士が手ずから紅茶を渡してくれた。
 淹れたてだろう、他人が用意した湯気が立つ赤い液面に少しばかり逡巡したものの、恐る恐る口をつけて、ゆっくり嚥下する。カップから口を放して博士を見やれば、まるで慈しむような笑みを浮かべていて、何故だかわからないが一粒涙が零れた。紅茶の温かさが、喉から胃にかけてほんのり残っている。
 あんなにやさしい顔は、いつぶりに見ただろうか。



 客間を借りたものの、今更他人の家の柔らかいベッドに寝るというのは落ち着かないもので、結局あまり寝られはしなかった。目的が目的だったのだから心も休まる筈がないのだが、それでも、安全に寝ることができる環境というのは久しぶりで。少なくともこの家の人達は、私に乱暴を働きはしないだろう。
 人が動く気配を察知してから一階へと降りた。すでにマグノリア博士が紅茶と朝食の準備に取り掛かっており、隣でソニアさんはあくびをしながら手伝いをしているようだった。

「おはようございます。よく眠れましたか?」
「ええ。ありがとうございました」

 平気で嘘を吐いたが、正直に言うことではないだろう。それ以上追及はされず、顔を洗ってきなさいと促されて大人しく従った。他人がキッチンをうろつくのは良くない。
 こざっぱりして戻ると、テーブルに三人分朝食が置かれていて、食欲をそそる匂いと湯気立つそれらに、体が固まった。

 ガラル家庭の定番であるブレックファーストにトースト。マグカップにミルクを混ぜてたっぷりと注がれたブレックファスートティー。この地方では見慣れたメニューだろうが、何故か胸が詰まった。
 湯気が立ち、温かそうな食事。攻撃の意志のない人間が手ずから用意してくれた料理。
 テーブルを見つめたまま動かなくなった私に、マグノリア博士は一瞬目を細めた。次いで、杖をつきながら歩き、一つの椅子を引く。ソニアさんが、その隣に座った。

「どうぞ。貴女の席はここですよ」

 ぶるっと唇が震えた。ぐっと声が漏れるのを堪える。
 博士は敵対心の欠片もない穏やかな笑みをたたえていて、足の裏がむずむずしだし、目の奥がどうしてか熱かった。



 朝食をとっている途中でダンデは約束通りにやって来た。このまま二度と私の前に現れなかったらどうしようと考えていたが、取り越し苦労だったようで。
 三人で食卓を囲む様子を見て一度顔が固まっていたが、すぐに解いてソニアさんを手招きして二人だけで話をした後、今度は博士を呼んだ。入れ替わってソニアさんは私の元へと戻ってきて、博士とダンデだけが何やら話をしている。

「えっと…結婚するの?ダンデ君と」
「…あの人の言葉が本当なら」
「苦労するよーダンデ君。マジで。ジムチャレンジ時代どれだけ振り回されたか」
「迷子癖があるそうで」
「そーそー。その上珍しいポケモンとかバトルのことになると何があってもそっちに夢中になっちゃうし…」

 昔を思い出したのか「やだやだ」と小さく首を振るソニアさんの口振りだと、噂はどうやら本当だったらしい。本当に酷い迷子癖があって、夢中になると寝食も忘れるとか。そんな男がガラルのトレーナーの頂点に君臨しているというのだから、とんでもないな。
 やがて話を終えたのか、二人が戻ってきた。どうやらこのままバトンはダンデに戻されるらしい。一晩のお礼と突然の無礼を二人に詫びて、またいつでも遊びに来てねなんて社交辞令を背に浴びながら、私はダンデに手を引かれて外に待たせていたらしいアーマーガアタクシーに乗せられた。

「二人で暮らすために家を借りた。今日からそこが君の家だ」
「は?わざわざ用意したんですか?」
「ああ。実家はハロンタウンにあるんだが、多忙であまり帰れていない。そこに預けてしまうと頻繁に君に会えなくなる。家に帰れないときはほとんどホテルを使っているが、さすがに婚約者をそこにずっと一人にしておくこともできないからな」

 婚約者。一瞬ポカンとしてしまった。
 当然の如く口にされたその単語に、本当に結婚する気なのかと心配になってしまった。自殺願望者の世迷言をこんなに素直に受け入れるなんて、最早頭が可笑しいレベルではない。

「どうした?」

 しかし本人はメディアの中の人物像となんら変わらない佇まいで、苦労するよ、というソニアさんの嘆きを思い出した。

「まぁ、その前に病院だ。暴力を受けていたと言っていただろう。一度きちんと見てもらおう」

 お人好しと言い表すのは、お人好しに失礼だ。けれど貰ってくれるというのだからこれ以上機嫌を損ねるような言葉は慎もう。ダンデの精悍な横顔を眺めながら、それでも私はとんとんと進む展開に小さく身を竦ませていた。

 こんなに、上手くいってもいいのだろうか。
 ダンデが前を見据えていることをいいことに、私も前へ向き直って、静かに瞼を閉じた。あまり、この人と会話をしたくなかった。
 暗闇の向こうから、罵声が耳を劈く。堪えがたい屈辱を、恥辱を何度も受けてきた。そうしないと、私は生きていけないと知っていたから。抵抗しようだなんて、微塵も考えてはならなかった。そうしないと何処にも居場所がない私は途方に暮れ、路頭に迷いとっくに死んでいただろうから。
 だから私は、よく知りもしなくても、どれだけ会話をしたくない相手だろうと、その手を選んで放してはならない。

「…寝たのか?」

 気配から隣のダンデが身じろいで私を見ていることがわかったが、瞼を開けるのが億劫で、勘違いされている通りに寝た振りをすることにした。別に可笑しくはないだろう。昨夜自殺しようとしたところを寸での所で止められ、他人の家に預けられて夜を明かしたのだから。教えた境遇も相俟って神経が疲弊し、体に疲労が蓄積していると思ってくれるだろう。

 だから私は、ダンデが一体何を考え、どんな瞳で私を見つめていたのかを一切知らない。




「…こちらハンサム。…ええ、無事につきました。アローラよりは格段に日差しが優しいものですな。…お気遣いありがとうございます。ところでボスは……無事に帰還したようで良かった。では、早速調査に入ります。…はい。まずはガラルのチャンピオンから接触しようと考えています。…そうです、ゆくゆくはローズ氏にもと思っていますが、何やら含みがありそうな男に見えてしまって…ええ、はい、わかっています、ローズ氏にも接触しますので。はい。それでは」