- ナノ -




メロウ

 一人ぼっちはとても怖かった。物理的にもそうだし、何より感情的な部分でも。誰にも愛されていないと小さな頃から痛い程に理解していたから、とにかく毎日が、生きていることが、たくさんのことが恐くて。
 泣いてしまうのは、偏にあの暗い部屋の中での文字通り身をすり減らした出来事のせいで。だけど、未だに続いているその悪癖は、今やあの頃とは少しだけ違うのかもしれない。

「なかないでくれ」

 優しい唇が湿った瞼の縁に降ってくる。音もないただ触れるだけの。それがどうしようもなく優しい触れ方で、余計にぐすぐすと泣いてしまった。いつでも嫌な記憶を呼び覚まさないよう慮られた体への触れ方でも、もうあまり思い出さなくなっているのにも関わらず、染みついてしまった恐怖や嫌悪が目から滲んできてしまうのを自分の力では止められない。わかってくれているから殊更甘くて穏やかな掌の触れ方が、唇の囁きが、表情の細かな動きまで、ダンデ君の全部が私をあやそうとして。子供扱いされてもそれが全然嫌じゃなくて、寧ろ嬉しくて。
上に被さった私を愛してくれる隆起する体の、縋りつきたくて掌で撫でる温かい素肌が、人の熱が、こんなにも私の頭をふわふわとさせる。
 人間って悲しいから、辛いから、痛いから泣くものだと思っていた。実際子供の頃からそうだったし、私の中で涙とはイコールで結びついていた。でも、違った。ダンデ君に触れられると、ううん一緒にいられるだけで、嬉しくて嬉しくて、時々わけがわからなくなりそうなくらい、頭が空っぽになるくらい幸せで。悲しみも痛みも恐怖もないのに、そういうのが自分の中でめちゃくちゃに渦巻いて、行き場を求めて結局涙と混ざって落ちていく。
 だから私は未だにこんなに泣いちゃうんだ。



 一人きりの夜が終わってから、そんなに何かを怖がることは少なくなったような気もする。一人きりで自分の熱しかない静かな部屋でも、冷たいベッドでも、家の外に必ずやって来る夜も。ダンデ君が私のことを想ってくれていると毎日実感しているから、丸まって自分を抱き締めながらひとりぼっちで眠ることは、もうない。
 ご飯を作る時間が大好きだ。昔はあんまりあれが好きとか嫌いとかなかったのに、今はもうすっかりと。まぁ、食べ物でも課題でも好みでも、嫌いなんて言ったら怒られて叩かれたから多分わからなくなっていたのだけど。
 もちろん他にも好きなことでいっぱい。掃除も洗濯も。でも食器を洗う時にはダンデ君が隣で一緒に洗ってくれるから、もしかすればそれが特に好きかもしれない。今日あったこととか、私から話せることはあんまりなくても、ダンデ君が一日の出来事を教えてくれたりするから、そういう何でもないのに大事な時間が好き。昨夜二人でぐしゃぐしゃにしたベッドを綺麗にするのだって楽しい。どの道、全部ダンデ君のためにしているようなものだから、好きなことには変わりない。

 器に流したソースは真っ白。大きい口に合わせて具材も気持ち大きめ。二つオーブンに並べて時間を見る。ダンデ君が帰ってくる頃に出来上がるよう設定したら、もう後はダンデ君が帰ってくるまでソファでゆっくりするだけだ。付け合わせも全部作り終わっているから、そわそわとしたままダンデ君が開ける玄関の音を待つの。それがあるから、私はこの家で一人の時間も大丈夫。
 下手をすればレンタルで住んでいた家よりも圧倒的に暇な時間が多いこの家では、空いた時間をダンデ君のことを考えて過ごしている。顔が見たくなったらダンデ君にもらったスマホで撮った二人の写真を見返したり、ダンデ君の試合をテレビで再生したり。写真も映像も、ダンデ君が一緒に映ってくれるからか少しくらいは平気になれた。
 そうやって、家で大人しく待っているんだぞ、というダンデ君の言葉を毎日忠実に守って。躾の行き届いた犬みたいだなと時々思うけれど、いいこだなって褒められたら俄然やる気も出るしもっとたくさん大好きってなるから、それも言い得て妙かもしれない。
 そんなことをついつい考えていると、とうとう玄関が開く気配。ぴん、と見えない耳も尻尾も真っ直ぐ立てたら、ダッと駆け出す。私はいいこだからお出迎えできるよ。

「ダンデ君おかえり」
「ただいま、わっ」

 玄関の鍵を閉めようとしていたけれど、もう待ち切れないからそのまま突進して勢いよく抱き着いた。それは飛びついたと言ってもいい。私一人を受けとめたくらいじゃびくともしない逞しい体に顔を埋めて、肺一杯にダンデ君の匂いを取り込んで。外の匂いが混ざっても、私が大好きな匂いには何ら変わりない。

「今日も退屈だっただろう、ごめんな」
「ううん、全然平気。こうやって絶対に帰ってきてくれるからちゃんと待てるよ」
「あとで散歩しような。……グラタンか?」
「そうだよ」

 散歩だって、と一人でくすくすと笑っていたら、ひくりとダンデ君の鼻が動いて夕飯のメインを言い当てた。毎日グラタンでもいいなんて言ってくれるからその通りにしてあげたいけれど、さすがに栄養バランスが偏るからその辺もちゃんと考えて毎日用意している。今日は私もグラタンの気分だったから作っちゃったけど。

「嬉しいな。早く食べたい」

 そう言って、抱き着く私を軽々と持ち上げたら、抱えたまま鼻から始めて、顔中にキスをしてくれた。
 夕飯を食べて、シャワーも一緒に浴びた後、頃合いを見計らって外へ手を繋いで一緒に出る。もうみんな寝静まるような、静寂蔓延る夜の世界。誰もがベッドの中で眠りにつく中、私達は並んでゆっくりと手を重ねたまま道を往く。目的なんかなくて、ただ私に外の空気を吸わせるためだけに過ぎない時間。ダンデ君がいない間は一歩も外に出ないから運動も兼ねて。

「ダンデ君そっち行くの?」
「えっ、……あ、間違えた」

 くいって手を引かれたから立ち止まって先を見たら、いつもと違う道を進もうとしていたので訊いてみると、単にいつもの迷子癖のせいだった。まったくなぁとくすりと笑えば、ダンデ君も同じように笑ってくれる。
 夜にならないと、私はこうしてダンデ君と外を歩けない。なにせ誰かに見つかるわけにはいかないから。誰にも知られず、誰にも見つからず、この世界で生きていかないといけないの。この世界での居場所はダンデ君の隣というたった一つしかないから、見つかると色々と大変だからって。本当は博士やソニアやキバナ君に一目、と思わなくはないが、他の誰でもないダンデ君がこれで安心できるならそれでいいのだ。私がいない間にすっかり掃除も洗濯も上手になってしまった程、私達の時間は過ぎ去っているから。
 それに、この秘密の夜の時間を私は気に入っているから。暗くて人がほとんどいない今、まるで世界に二人きりみたいで。ゆったりと手を繋いで歩くダンデ君とのペースがなんだか心地良くて。

 ある程度歩いたら家に戻って、もう寝るだけ、となったら同じベッドに入って。頭からすっぽりといった具合に抱き抱えてくれるダンデ君は私を時々抱き枕みたいにするけれど、それすらもたまらなく嬉しい。頭から足まで全部包まれると途轍もなく安心できて、ダンデ君がこうしてくれるだけで世界のあらゆる怖い物から私が守られるみたいで。
 夜はいつもそうだ。二人で等しく抱える見えない不安をどうにかかき散らしたいから、いつだって相手にぴったりとくっついて眠るの。今夜はなんだか気持ちが酷く穏やかだからか、相手の服を脱がすこともなく他愛ない話をして、睡魔に負けたら静かに眠りに就いた。とんとん、とダンデ君の大きな掌が私の背中を力なく叩いてくれると、また子供みたいに扱ってと思う反面、どうしてだろう、泣きそうなくらい安心出来てしまうのは。
 朝起きたらそこにダンデ君の顔があるだけで、やっぱり泣きそうになる。まだ瞼を開けないそのあどけない寝顔が、不揃いな朝の髭が、どうしようもなくて。だっていつも眠る時は少なからず不安に襲われてしまうから。いいや、眠る時だけではない。一人でも二人一緒にいても、一秒ごとが、本当は。
 いつ私が再びいなくなるかはわからない。それは掃除をしている時かも知れないし、洗濯中かもしれないし、ダンデ君と食器を洗っている最中かもしれないし。ダンデ君のことを考えながら料理している時かも知れない。キスしてる時だって、抱いてもらう時だって、おかえりって出迎える時だって、一緒に眠る時だって。前触れなくこの世界にやって来て、突然戻って、再びやって来た私には、タイミングがわかるわけもなく、そもそももう一度そんなことが起こるのかすらもわからない。
 でもその一方で、もしかしたらもう戻らないのでは、という変な予感もあった。それは自分に優しい妄想かもしれないけれど、ダンデ君がこうして愛してくれて、抱き締めてくれて、いいこって言ってくれて。こんな幸せに浸れる日々が突然終わるわけがないって。それはとどのつまりやはりただの願望で都合よい理想の話なのかもしれないが、ダンデ君がもう私の手を離すことはないと絶対の確信もあるから。

「……また泣いてる」

 不安の考え事をしていたからか、ダンデ君が起きていたことにも気付かず声がした途端に僅かに肩が跳ねた。ダンデ君の腕の中からそのまだぼんやりとする顔を見上げて、その綺麗な金色の瞳の中に自分を見つけたら、ようやく言われたことが本当であったとわかる。馬鹿みたい。また知らない間に泣いてる。

「なかないで、ナマエ」
「……うん」

 涙に口付けてくれる優しさが、一層のこと苦しいくらい。誰よりも欲しかったものを常にくれるダンデ君が、まるで子供を慰めるみたいに私を扱っても、そんなことにすら喜びを見いだせる。昔、誰にとは言わないが、本当はきっと、そうされたかったから。
 これもまたダンデ君の隣を許されて以降時々思うことだけれど、私はもしかしたら、ダンデ君の隣で生まれ直している途中なのかもしれない、なんて。ちゃんと一個の人間になるための過程の途中。
 なれるかはわからない。わからないけど、どう転んでもダンデ君は絶対に私を突き放さないとわかっているから、焦らずに少しずつ丸まって抱え込んだ自分を自由にする練習をして。でもちゃんとなれないとダンデ君にいつまで経っても「愛してる」をあげられないから、しっかりとその辺は意識するようにしている。
 そうやって、この世界にまたやって来てから、自分が生きてきたあらゆるものを全部捨ててから数ヶ月。ダンデ君が側にいてくれるだけであとはなんにもいらないと、本気で思っている毎日。


 だけど、誰にも見つからずダンデ君だけの花でいられた日々が、ある日突然崩れた。

「……ダンデ君、わたしが君に言ったこと、まさか忘れていないだろうね」

 ダンデ君が気まずそうに目を逸らした。そういう子供っぽいところも好きだなぁ、なんて横顔を見つめていたら、ハンサムさんはびきりと青筋を立てた。色んなことには慣れてきても、怒られるのはまだまだ嫌だなぁ。


 ――などと、呑気でいられたのはこの瞬間までである。
 この後の話は、私がわたしでなくなるまでの、長いようで短いようだった時間の話だ。