- ナノ -




重ねて繋ぎ直すクオリア


※ifじゃないけどエクストラルート。本編最後でご満足いただいている方には向かないかもしれないです。



 目が覚めても真っ暗の世界だったから、まだ夢が続いているのかと錯覚してしまった。だけど目の前にあるのは果てのない闇ではないし、なんなら体が横になっていることだってわかった。

 ここは、もう、あの夢の中じゃない。
 だってあの人が、側にいないから。

「…あっ、」

 いない、と認識してしまうともうだめだった。じわじわと涙が滲んできて、一気に溢れ返る。どうしよう、このままだと目が溶けてしまうかもしれない。

「あっ…、うっ、く…!」

 咄嗟に手の甲で両目を押さえても止まる訳が無かった。
 わらってくれた。あったかかった。やさしかった。なでてくれた。まもってくれた。
 あのひとがいつからか、ほしかった。
 栓を失くしたように止まらない涙だったが、どうせ止まらないだろうから放置することに決めた。中がぐちゃぐちゃの頭のまますぐにベッドを飛び出して、クローゼットを開ける。しまったままの、自分で買った覚えがない服を一度まじまじと見つめてから手にして、着ていたものを脱ぎ捨てる。
 スマホも財布も思い出も、何も要らない。何も持っていかなくていい。私に必要なものなんて、ここには一つもない。

 許されなくてもいい。
 まだ名前を思い出せないあの人さえいれば、それでいい。

 あの人しか、いらない。


  ◇◇


 病院で目覚めて以降あんなに怖かった夜をひたすら走った。足がすらっと見えるからヒールが好きだけど、走りやすいから踵が低いものにして正解だ。
 涙を垂れ流したまま夜道を駆ける女はごくたまに擦れ違う通行人には軽くホラーだったかもしれないが、声を掛けられるよりも早く走る。人通りが少ない深夜で良かった。
 街灯と月灯りしか頼りがいのない道だった。都心で街路樹もそこまで多くない。しんと静まり返る世界に私の荒い息だけが耳につく。体力はそんなにないけど、止まれるわけがない。
 信号だけはしょうがないから止まったけど、立ち止まっている間もそわそわと落ち着かないし、気が逸って仕方がなかった。目を閉じても閉じなくても、頭の中にはたったの一人しかいない。

 やがて目的地が見えてくると、体の芯から震えた。
 ここで全てが始まって、全て終わった。
 ほとんど覚えていないけど、でも、確かにここで。

「はっ…!はぁ…!」

 ようやく立ち止まれた足はがくがくと震えてしまうし、いくら低い踵でもさすがに足が痛い。でも、休んでいたくない。休む時間を作るなら、一秒でも、早く。

「…あいたい、の」

 その場所に立って、地面に向けて情けなく震えっぱなしの消え入りそうな声を吐き出した。喉の奥が焼けるよう。ぼとぼとと、コンクリートの地面に染みを絶え間なく生んでいく。
 確証なんてない。もう一度があるかなんてさっぱりわからない。それでもここまで来てしまった。

「あいたい、だきしめてほしい、いっぱいよんでほしい、いっぱいよびたい」

 言葉にすれば、余計に指先が焦れた。
 私の名前をやっと教えられたのに、今度は私が名前を思い出せないのは、罰にしても質が悪い。

「うっく…、あいったいっ…」

 あそこで、たくさんのことがあった。

 たくさん辛かった。たくさん痛かった。たくさん苦しかった。たくさん悲しかった。
 たくさん嘘を吐いた。たくさん迷惑かけた。たくさん傷つけた。
 だけど、たくさんあたたかいもの、もらった。
 先生以外には貰えなかったものを、先生以上に、もらった。
 私とは違う色の肌はいつも温かくて、ふんわりと安心する香りをまとって、私の近くに在ろうとしてくれた。
 いつの間にか意識と行動が乖離しだして、自分でも正体を掴みあぐねるものをずっと抱えて持て余した。戸惑って、認められなかった。

 二人で笑い合って、傷つけあって、やっともう一度繋がれた。

「つれてってよ…!またっ…、もういっかい…!」

 黒い大きな染みを広げる地面に小さく吠えると、膝ががくがくと限界を訴えてきてしゃがみこんだ。周りには誰もいなくて、ここで消えた時も目撃者がいなかったのだから、今でもそれは都合がいい。
 遠くからトラックの音が聞こえる。それは、まだここにいる証明だった。あそこでは車はほとんど走っていなかったから、あの音が消えない限り、あえることはない。
 泣きじゃくっても、何も変化は訪れない。腹立たしい限りだ、こちらの意志と関係なく連れて行って、戻して、今度は望んでもつれていってくれない。

 鼻が垂れてきたからぐっと顔を持ち上げて空を向く。
 深く暗い空。都会の光に負けて、ぼんやりとしか見えない点々とする光たち。半分しかないお月様。
 一人の夜は隠れるように小さく丸くなってやり過ごしてきたから、こんなにじっくりと夜空を見上げたことは、ほとんどない。上よりも下ばかり見て生きてきた。だけど、今だけはどうしてか、目が離せなかった。

 本当に、今にも消えちゃいそうな光。眠らない街に押し負けて、暗闇と薄い雲に飲まれそうで、今にも見えなくなりそうな星。私と一緒。でも、少し違うかな。きっとあの星は、消えたくはないだろう。くしゃくしゃに丸められて、ポイッと放り捨てられていなくなりたかった私とは違って、誰かに見つけてもらいたくて、ああして僅かにでも光っているのかもしれない。
 ぐずぐずしたまま見上げていると、その星が揺れた気がした。目の錯覚だったようでそのまま見つめても、その後動くことはなかった。流れ星かと思ったのに。
 流れ星でもなんだっていい。なんでもいいから、もう一度、あわせて。
 言いたいこと、たくさんあるの。怒られてもいいから、きいてほしい。きいて、できるなら、許されるなら、ずっとだきしめてほしい。


 一瞬風が吹いて、反射的に吹いた方向を見ると、待ち望んだものが口を開けていた。考える間もなく、暗闇に落とされる。
 最後にかろうじて見たのは、視界の隅を横切った、落ちる星である。


  ◇◇


「……」

 目を覚ますと、目の先にあるのは何の変哲もない天井だった。体が少し、痛い。ぴくっと指先が動いて、自分が転がっているそこを軽く叩いてみる。固い。フローリングの床だ。
 ハッとして体を起こすとまだ頭がボンヤリするが、心臓がどきどきして破裂しそうなことだけはよくわかった。

 床を見て、壁を見て、もう一度天井を見て。
 ぐるりと一面を見渡して、胸が打ち震えた。

 私が暮らした、家。
 あの人と一緒にいた、場所。

「っ…!」

 止まっていた涙が再び止めどなく溢れた。嗚咽を漏らしながら、真っ暗な空間で少しの間丸まって泣き続けた。
 もう一度、ここに来れた。
 ここで、色々、あった。騙して、助けてもらって、触れ合って、怒らせた。
 でも最後は、もういいのにって思うくらいとびきり優しくしてくれた。繋ぎ留めようとしてくれた。

「…うぅっ…!」

 蓋が開かれたように思い出す顔が、数えきれないくらいにある。だけど、どうしても名前が出てこない。名前だけが、喉の奥で引っ掛かって上がってこない。大好きな人の名前が、思い出せない。
 明かりが点いていなくて埃臭い何の気配もないこの家は、きっともう誰も住んでいないことを示唆しているに違いない。どれ程の時間が経ったのかはわからないけれど、ここにあの人はもういないのだろう。

 あいにいこう。それだけを胸に抱えて、どうにか立ち上がる。ふらふらしながらも一歩進むごとに靄が晴れて記憶が少しずつ蘇ってきた。
 そう、ここの角を曲れば玄関。何度もここで出迎えて何でもなくても笑い合った。そうして玄関の鍵を開けてドアを押そうとして。

 ――どこにいけばいい?

 急に思い至って、手がぴたりと止まる。その手を見つめて、自分の足を見て、愕然とした。
 ここにいないのなら、一体どこにいるというのだろう。私、どこにいけばいい?
 実家、その近くの、泊めさせてもらった家。いくつか思い浮かんだが、そもそもお金がないから列車は使えない。タクシーもまたおなじく。
 誰かに訊いてみる?でも、どうやって尋ねればいい、名前もわからないのに。
 とにかくまずは一度外に出ようかと思い、もう一度取っ手に力を込めようとした時。
 フラッシュバックする、薄暗くて狭い最低の部屋。下碑た笑みでこちらを見下すたくさんの顔。容赦なく飛んできた手と足。


 ――またこわいひとにつかまったら、どうしよう。


  ◇◇


 勢いよく上半身を起こして、汗だらけの自分の掌を数秒の間茫然と見つめた。まだ暗いこの場所は、自分の寝室で間違いなかった。
 はっはっ、と呼吸が断続的で荒い。心臓が痛い程にバクバクとしていた。鼻の奥がつんとして、火に炙られるように体が熱い。目がチカチカする。てんで落ち着かない頭の中でも、絶えずそこにある姿。
 確証はない。でも、きっと。
 布団を蹴り飛ばし、一瞬で汗だくになったシャツを脱ぎ捨てて、適当に着替えてからリザードンのボールだけを掴んで家を飛び出した。自分の足で行けるものなら行きたいが、迷って余計な時間を食うのはごめんだった。
 確証はない。だけど、根拠はなくとも確信めいた予感がある。良くも悪くも勘だけはいい。

 会いたい。君に会いたい。ようやく名前を知れた君に、一秒でも早く会いたい。会って飽きるくらい名前を呼んで、頭を撫でて、抱き締めてやりたい。心細い思いをしているに違いない君を、抱き締めて二度と離さない。今度は誰より早く、君を見つけたい。

 聴こえない筈なのに、君の声が聴こえる気がする。声なき声にずっと呼びかけられている。君からのSOSは、全部俺に飛ばして欲しい。

「頼むぜリザードン」
「バギュア!」

 あそこしか考えられない。同じシュートシティ内でそこまで距離はないが、やはりこれが一番確実な方法だ。
 相棒の背に乗って、夜の風に乗る。その間も、少しも心臓は静まらない。
 会いたい。君に会いたい。それ以外何も考える必要はない。
 愛想がない顔も、泣いた顔も、ぶすくれた顔も、控えめに笑う顔も、甘えたな顔も、無邪気な顔も、全部忘れていない。

 今度こそ、君に全部伝えよう。


  ◇◇


 ぶるぶると体の震えが止まらなかった。
 結局、一人だった、私は。忘れていたけど、本当に今この世界で、私は一人きり。あの人が側にいてくれないから、ひとりぼっち。
 見つかることが怖くて電気も点けられない。ベッドの上で布団を被って体を小さくするしか術はない。ここに来るまでの夜道はどうってことなかったのに、この家の外の夜の中へ飛び出せなかった。

 こわい、さむい、さみしい。

 何度も思った。何度も泣いた。何度も震えた。でも、我慢した。我慢すれば、必ず帰ってきて笑い掛けてくれたから。
 でも、今は違う。私が今ここでみっともなく震えていることを、誰も知らない。衝動的な行動ばかりとって現実を正しく考えることができなかった。あえる保証なんて、欠片もなかったのに。

 もぐるベッドは埃の臭いしかしないから、安心材料としての役割は果たしてくれない。細かな埃のせいで時々咳き込んで、くしゃみをして、嗚咽を垂れ流す。
 頭が悪いから考え付かなかった現実に容赦なくぶたれ続けて、どんどん弱気になっていく。どうしたらいいか、わからない。どうすればあえるの。どうすれば、どうすれば。
 たすけて、たすけて、たすけて。

 ――誰も助けてくれなかった。捨てきれない希望を端から砕かれて、痛い程に実感した、思い出したくなくても思い出した真っ黒の記憶。

 あの人達、どうなったんだろう。まだ、その辺にいるのかな。ここにいるって知られたら、また捕まるかもしれない。怒られて、殴られて、乗り上げられて。もうそんなの、絶対に嫌だ。
 あの時はキバナ君のことばかり考えた。キバナ君の為に、キバナ君だけの為に。キバナ君だけの役に立ちたくて、そして、助けて欲しかった。
 今は、違う。とろけるような金色の瞳で、優しいまなじりで私を見てくれた人。思い浮かべる度に、涙の量が増した。


  ◇◇


 明かりが点いていないその家は、暗に中には誰もいないことを外へ教えている。
 だけど、その家以外目に入らない。久方ぶりのそこは、レンタルとは思えないくらい綺麗で、新築感が残っている。
 何度もただいまと言った。何度もおかえりと迎えてくれた。
 突進するように玄関の取っ手を掴んで引くと、幸いにもすんなりと開いてくれた。もし鍵がかかっていたら壊してでも入るつもりだったが、余計な手間が省けた。
 心臓の鼓動が速い。馬鹿みたいに息が荒い。

 家の中は当然真っ暗で、窓から差し込む月の光だけが頼りだった。
 進む廊下には、いない。リビングもいない。念のためキッチンを覗き込んでも代わり映えない。
 つい名前を叫ぼうとして、ぐっとこらえた。最初に君の名前を呼ぶときは、君の目の前で、君に言いたい。

 寝室、と唐突に思いついて踵を返す。そう思うとそうとしか思えなくなった。駆けるように進んで、二つの部屋の手前で立ち止まる。
 どっちだ、どっちにいる。君の部屋と、俺の部屋。
 耳を澄ませても、何も音は拾えない。自分の痛い程に逸っている心臓の音ばかり聞こえる。

 ――こっちだ。

 確証はない。でもきっと、寂しがり屋で甘えたな君は、きっと。
 逸る鼓動の音を聞きながら、迷わず、部屋の扉を開けた。

 ――ああ。

 埃降る真っ暗な部屋の中で、ベッドの上で山を作る、その中の見えない、いたいけな君。

 やっと、見つけた。

 そっと近づけば、細かに布団の山が震えていた。
 可哀想に。ごめんな一人で寂しかっただろう。今度こそ、俺が君を見つけたんだ。
 しゃがんで、俺が使っていたベッドで作られている布団の山を上から包むようにして抱き締めた。

「…ナマエ」


  ◇◇


 玄関が開く音が聞こえてしまって、びくんと体が大きく跳ねた。
 誰か、誰か、入ってきた。そういえば鍵、閉め忘れた。
 誰、どうしよう、誰。ここにいるって、誰かにバレてしまったのか。まさか、まさか。
 あの男の顔が一瞬で浮かび上がり、体の震えが加速度をつけた。

 あの男が全部のきっかけを作った。あの男のせいで嫌な思いを数えきれないくらいして、地獄を味わった。またもう一度見つかれば、今度は、どうなるの。
 ガタガタと靴音が聴こえる。何か、探してる。ぶわりと恐怖が体中を駆け巡って声が漏れ出しそうになり、震える手で口を覆った。
 怖い怖い怖いこわい。たすけて、たすけて、もうあんな思い二度としたくない。
 細かに震える体を強く抱いて、きつく閉じた瞼の裏には、名前を思い出せない人しかいなかった。

 紫の髪だった。金色の瞳だった。褐色の肌だった。
 私が近寄れないポケモンと共に生きてきた人。ポケモンが何より大好きな人。誰よりもバトルが強い人。
 包丁を握るのがへたくそな人。脱いだ服をポイ捨てする人。掃除機を壊しかけた人。そのくせ食器だけはきちんと洗えた人。髪を乾かすのを面倒くさがった人。ご飯を適当にする人。
 怖いものから守ってくれた人。力が強いのに優しく抱き締めてくれる人。私じゃない名前をたくさん呼んでくれた人。

 たすけて。

 とうとう靴音が近くまで迫ってきた。必死に息を殺して、暗闇の中で体を折って縮まり、これ以上小さくなれなくても小さくなる。息を殺しているせいで耳がキーンとなってきてしまった。飛び散りそうな程躍動してうるさい心臓の音と重なり、少し外の音が拾いづらくなる。それでも、自分という存在を薄くするよう努めるしかない。
 一度は止まった靴音に淡い期待を抱いたものの、直後に部屋のドアが躊躇いなく開く音を聞いてしまい、瞬く間に絶望に支配される。さすがに山になるベッドには、気付いてしまうだろう。
 ひゅっひゅっと鳴る口を鼻ごと懸命に押さえ直す。頭を膝に埋めて丸くなる。空気の圧迫で耳が遠い。視界はずっと滲んだまま。頭は真っ白。
 音が真っ直ぐこちらに向かってくる。一歩一歩の音を耳が小さくも拾うのに比例して、呼吸ができなくなる。命がゆったりと削れていくようなおぞましい錯覚。

 たすけて、――くん。


 けれど無情にも、靴音がとうとう間近まで迫った。目も耳も頭も塞いだ状況下、それは逃げ場を失って追い詰められ、終わりを言外に宣告された瞬間としか思えなかった。

 なのに。

「…ナマエ」

 心臓が、止まった気がした。
 突然だった。突然名前を呼ばれたと思えば、何かに上から包まれた。
 かろうじてできていた息が止まる。すぐにか細く口先で吐き出し、鼻を啜って、空気の流れを取り戻した耳が蘇る。視界は相変わらずぼんやりと悪いままでも、頭の中はただの一つだけ。
 遮断した耳でも届いた、何度も聴いた声。ずっと焦がれ続けた声。

 当然のようにもう恐怖は残っていなかった。のそりと頭を動かして、布団からゆっくりと抜ける。顔だけ覗かせて頭に布団をかぶせたまま、暗闇の中に浮かぶその姿を目にした瞬間、頭が沸騰した。

 優しい瞳で私を、みつめるひと。
 最後の蓋が、今、ようやく開いた。

「…だんで、くんっ」

 名前を言い切ると同時に勢いよく抱きすくめられた。涙のせいではあ、ふう、と息が乱れ、鼻の奥も喉の奥もじんとしてまともにならない。
 潰そうとしているのではないかと心配になるくらいきつくきつく抱き締められて、夢の中よりも格段に力強く腕の中に閉じ込められて、名前を何度も呼ばれて、体全体に伝わる熱い体温に堪えていた一切合切が一気に噴出した。

「…っかった…あいたっ、かったの…!」

 爆発しそうな感情を一人だけで抱えきれなくなり、目からも口からも、もう抑えきれない。

「俺もっ…俺も…、ずっとだ…!」
「一回ダンデ君のことわすれちゃったの…!ぜんぶ忘れちゃったの…!でももう一回あえてっ、うっく、起きてからあいたくてたまらなくて…!」
「ああ…!」
「ずっとひとりでこわかった…!あいに行こうとしたけどどこにいるかわからないしっ、うぅっ…!外がこわくてしょうがなくっ、て、でられなくなっちゃた、のっ…!」
「怖かったんだもんな、全部…」

 堰を切ったように涙も口も自分の意志では一切止まらなくなった。
 会いに行けなくてごめんなさい。外が怖くてごめんなさい。ダンデ君って気付かなくてごめんなさい。
 それでもこの人は、ここまで来てくれた。

「でもみつけてくれた…だんでくんが会いにきてくれて…っ」

 玉の涙を延々と流し続ける顔に大きな手が触れたと思えば両頬を挟まれ、引き上げられたわけでもないのに自然と上を向いた。目を細めて瞳をきらきらとさせ、薄く笑っているダンデ君の顔が、カーテンの隙間から入る外の光を浴びて幻想的に浮かんでいる。
 ありがとう、と言いだすより早く、ダンデ君が一度唇を噛んだ後、震えながら開いた。

「あいしてる」

 ――世界の音が、全部、何一つ、聴こえなくなった。

 まばたき一つすら忘れた私に構わず、頬を挟む指がやんわりと、濡れる肌を甘く擽った。ぴりっと、心臓が微かに痺れる。

「いつも君が心配でたまらなかった、君の料理が好きだ、隣で安心しきって眠っていた君の寝顔が好きだ、君の笑った顔が好きだ」

 いつかにもらった言葉。あの時は優しさの延長だと思って、全部受け止められなかった。

「ずっと会いたかった、君がいなくなってから忘れた日は一度もない、君の事ばかり考えた、やっと触れられた、やっと名前が知れた。やっと、俺が最初に見つけられた」

 忘れちゃってごめんなさい。でも、忘れてても、ダンデ君のことがどこかにずっと残ってた。グラタン二個作っちゃったのも、他の男の所に行けなかったのも、一人の夜が怖かったのも、全部ダンデ君のせい。
 指先から何かが私の中に入り込んでくることが、わかった。音もなく侵入してきて、ぐるぐると体中を駆け巡っている。決して、嫌な感覚ではない。綺麗で優しいそれは沸々と熱をたぎらせて、頭の中の思考を焼こうとする。だけど、今焼き切れてはならない。
 喉から手が出るほど欲しかった言葉を、誰にも貰えなかったものを、くれたの。
 私はこの人に、今度こそ、全部伝えないといけない。

「…ったし、わたし、わかんないの、ちゃんとひとを好きになるって、どうやったらそう呼べるの?あい、してるも、ちゃんといわれたことない、どうしたら、そうなるの?」

 ダンデ君の睫毛がぶるぶると震えている。手も、小刻みに。
 怒ったかな、違うかもしれないけれど、おねがいだからおこらないで、ぜんぶきいて。

「でも…でも、ねっ、ずうっと、だんでくんのことばっか考えてた…ここにいたときからずっと、いつからかわかんないけど、だんでくんばっか考えてた…キバナ君よりダンデ君ばっか…だんでくんみるだけで安心した…いつも抱き締めて欲しかったしあたまなでてほしかったしっ…いっしょにいたかった、どこにも行ってほしくなくて、だんでくんあったかいのうれしくて、おいしいっていわれるのうれしくて褒めてもらいたくてっ、わらってほしくてっ、よく胸がぎゅってして、泣きそうになって、となりにいてくれるのがうれしかった…笑いかけてくれるのがすきで、撫でてくれるやさしい手がすきで、ほうちょうへたくそなのもすきで、へんな服きててもすきで、ぽけもんと遊んでるかおもすきで、ただいまがすきで…、」

 まとまりなんて一切ない頭の悪いことばかり口にしても、ぎゅっと睫毛を震わせたまま唇を閉じるダンデ君が顔を挟んだ手をどこかにやらないから、ずっと大きな手を涙で濡らし続けている。びしょびしょでも、手はどこにも行かない。

「…だいすき、だいすきなの、ぜんぶだいすき、ずっといっしょにいたい…これって、あいしてるに、なる?」

 頭の後ろを急に押されてそのままボロボロの顔を胸に押し付けられた。
 何度もここに額をくっつけた。あったかくて心臓の音が聴こえて安らげる場所。体の中で行き場を失くして燻っているものにむぅぅ、と口をひしゃげさせながらぐりっと擦りつける。それでもダンデ君は、変わらず力強く抱き締めてくれている。

「…ありがとう」

 噛み締めるように降ってきた柔らかい声音に、それが問うたことへの答えでなくとも、十分だった。



 ダンデ君に子供を抱っこするように抱えてもらって、ダンデ君の首に腕を回して、外へと出た。自分で歩くと言ったが、捕まえてないと不安だと間髪入れずに返されてしまった。
 玄関を出る際に「怖いか?」と訊かれたけれど、すぐ首を横に振った。

「ダンデ君がいるから、こわくない」

 優しい笑顔を見上げて、頭をダンデ君の肩に預けた。
 二人で進む外灯と月の光しか頼るものがなくて誰もいない深夜の街は、世界に遠慮するような空気がそこら中にはびこっている。
 ここまではリザードンに乗って飛んできたらしいが、同じ方法で帰る気はないらしい。さすがにそれは怖いから、こうして歩いてくれてよかった。迷うかもしれなくても、それはそれで別に構わなかった。正解だけが正しいわけじゃない。
 ダンデ君は静かな夜をゆっくり歩いた。ぽつぽつと言葉を交わしながら、一人で暮らしているらしい家へと向かう。私がいなくなった後に包丁も洗濯も掃除も上手になったというから、嘘だぁと信じられなくて笑うと、これから嫌でもわかる、と楽しそうな笑みと共に返ってきた。

「あそこにいるって、よくわかったね」
「あそこしかないと思ったんだ」
「ワイルドエリアって考えなかった?」
「考えなかったなぁ」

 そっか、とまた笑うと、ほんの少しだけ口の端をあげて小さく笑い返された。

「…その笑い方、すき」
「俺はあいしてる」
「いじわる」

 まだあいしてるはへたくそだから目を瞑って欲しいのに、いじわるばかりされるものだから頬を膨らませた。

「…これから、どうしよう」
「アネモネのデータは消えているんだ。君のことを知っているのは限られた人間しかいない。外には出してやれないが、俺が側にいるから」
「うん…。でもソニアとか、博士とか、キバナ君とか」
「だめだ」
「まだ何も言ってないよ?」
「だめだ。少なくとも、しばらくは」

 頑なな態度を切り崩せそうにはなかった。誰も怒ってないとは言っていたが、謝りたいのにそれもだめなのか。

「特にキバナはだめだ」
「えぇ?なんで?」
「許さない」

 ずっと側にいてくれ、と額と鼻に優しくキスをされてしまい、それ以上何も言えなくなった。
 キバナ君は、特別だ。それはきっと、永劫に変わらない。
 だけどそれは、愛じゃない。あるのは似て非なる感情で、決してそれ以上発展はしない。多分それをダンデ君もわかっている筈なのに、絶対と言わんばかりに首を縦にしなかった。

「…一緒に、いる」
「ああ」
「私には、ダンデ君だけだから」
「ああ」
「ああ以外も言って欲しいよ」
「早くキスがしたい」
「今したじゃん」
「口にだ」
「外だから我慢してるの?」
「じゃないと歯止めがきかなくなる」
「ふふ、帰ったらたくさんしてね」

 首に軽く口付けたら、弱々しく窘められた。怒られないのをいいことに体を支える腕をさすっても、やっぱりやんわりと目を細めているだけだった。

 本当に、ダンデ君しか、いないのだ。
 アネモネのデータが既にないのならば、今の私は完全に孤立した存在である。生きてきた証拠が皆無なのだから、文字通り、どこにも居場所はない。何もかもを捨てたこの身一つしかないから、ダンデ君の隣にしか居てもいい場所がない。
 本当はもっと、たくさん、考えないといけないことがある。山程あって、本来ならすぐにでも突き詰めないといけない問題は数えることすら億劫。
 だけど、今はどうでもいい。今はとにかく、体にくっついている温度にだけ浸っていられれば、それでいい。

 前触れなくこの世界にやってきて、前触れなく戻され、こうして再びここへやって来た私は、またいつか消えるのかもしれない。
 それでも優しい温度のすぐ近くに、いつまでもいたい。凍えそうな体を溶かしてくれた、寂しい夜から助けてくれた、心地いい熱のそばに。

 視界に違和感があってそちらにつられて目を向けると、建物と建物の隙間から見える地平線がうっすらと滲むように色を変えていた。夜の闇を塗り替えるために、境界線をあやふやにして。


 もうじき、夜の隙間を超えて、朝がやって来る。