- ナノ -




夜明けに一等輝く


 ダンデ、今日は帰ってこないらしい。夕方になって連絡をもらったが、酷く落胆した。
 今夜は、ダンデが、帰ってこない。この家に、私一人。
 別に初めてのことではない。一人で過ごすことは、割とある。ダンデはこのガラルのチャンピオンなのだ、多忙を極めているのだから外泊くらい普通に有り得る。
 それでもなるべく帰ってきてくれようとしていることも知っている。だから、大人しく、いいこで、夜を明かさないといけない。

 一人の夜なんて、今までいくらでもあった。それこそ小さい頃から、ずっと。母親とも父親とも、一緒に寝た記憶なんてない。私の記憶の始まりは私を蔑む母の二つの目だ。
 冷たいベッドの中で、自分を抱えるようにして小さくなる。寒い。別に真冬でもないのに、とても。おかしな話なのが、ダンデがいる時はそんなことないことだ。同じベッドにいなくても同じ屋根の下にダンデがいるとわかっているだけで、感じる温度は大きく変わってしまう。

 ダンデ。今何してるの。ご飯食べたかな。ホテルのご飯はきっと美味しいだろうけれど、バランスよく食べたかな。注意しないと栄養を気にせず好き勝手に食べるし、ろくに噛まないから心配だ。体が資本なのだから、そういうことも念頭に入れて生活してほしい。

 だなんて、何を考えているのだろう、私は。
 私は、ダンデを貶めるため、此処に居るのに。

 つい先日国際警察と遭遇したことは運が良かった。遠回しにあの男に報告することができて、珍しく機嫌が良さそうな返答があった。いつもろくな話をしないと言われ、顔など分からない筈なのにこちらを見下す顔を想像できてしまうから、いつも怖い。機嫌を損ねればあの家の中では、思い出したくないことばかりされた。
 わかっている。命令されていることは忘れていない。

 でも、それでも、どうしても今、心細い。

 眠れなくて、時間ばかり歯がゆい程にゆっくりと過ぎていく。ダンデがいない夜はいつも途轍もなく長い。
 前に耐えきれなくてダンデのベッドに一人で潜り込んだこともあるが、余計に寂しくなるだけだったから、もう二度としないと誓った。いつもダンデのベッドで抱かれるからその記憶も相乗し、その際に包まれる熱いくらいの体温を思い出して、だめだった。

 こわい。さむい。はやくあいたい。

 ダンデが側にいなければ、この世界で私は、本当に一人ぼっちだった。



 翌朝、日が昇って程なくしてからダンデは帰ってきた。鍵が開く音を耳が拾って、すぐにベッドから飛び起きて駆け出す。玄関までまっすぐに向かってダンデの姿を認めた瞬間、ぐっと心臓を鷲掴みされた気がした。

「おかえり」
「ただいまアネモネ。早いな、もう起きたのか?」
「うん。朝ご飯食べた?」
「食べてこなかった。君と食べようと思って」
「すぐ支度するね」
「そんなに慌てなくていい。顔洗っておいで。俺も着替えて来るから」
「うん」

 気が逸っていることが見抜かれたのか、苦笑気味に促されてしまった。なんでもかまわない。早くダンデとご飯が食べたい。
 朝食を二人で食べて、昼からローズタワーで開かれる会議に向かうというダンデに洗濯物ちゃんと出しておいてねとお願いする。わかったよ、と元気いい返事をもらったが、半分しか信じられない。ダンデの生活能力が低いことはとっくにわかっているので、あとでもう一度お願いしよう。

「スーツいる?」
「いや、いつも通りユニフォームだ」
「替えのユニフォーム、ダンデ君の部屋に掛けてあるからね」
「ありがとう」

 むずっと、足先が痒くなる。手の指先も、じんじんする。
 ありがとうなんて、言われたことそんなに多くはないから、まだ恥ずかしい。
 いいのかな、こんなにありがとうなんて言われて。ダンデは、よくありがとうって言う。こんなの当然じゃないかな。いつもただご飯作って、洗濯して、掃除してるだけなのに。

「…洗うから、お皿ちょうだい」
「ん、ありがとう」

 また。胸の奥が締まって、体を駆け巡る得体の知れない何かが、はっきりと正体が掴めなくてもどかしい。

 食器を洗っている間、ダンデはソファにどっかりと座って新聞を読んでいる。
 初めてそれを見た時、意外だなと目を丸くした。考えるより先に動いているイメージのダンデが、ゆっくりと文字を読む姿が似つかわしくないと思ったのだ。実は活字を読むのが苦ではないとのことだが、その大半はポケモンに関するものだった。なるほど、興味があることにしか全力になれない、その一端か。
 それにしても、真剣な顔で読んでいる。ポケモン関係の記事なのだろうか。

 本当に、新聞から少しも目がぶれない。

「……」

 蛇口を止めて手を拭いてからソファへ向かう。近寄っても、隣に座っても、変わらず新聞と睨めっこしている。
 あと数時間もすれば、またダンデは出ていってしまう。話をするには、些細な時間を有効活用するしかない。あの男が欲しい情報は漠然としていたが、なんとなくわかる。弱みとか、後ろ暗いこと。だけど、一向にダンデからその気配を感じる事はない。方向音痴なのは周知の事実だ、当て嵌まらない。

 もっと、話をしなくてはならない。取るに足らない話でも、何があの男に引っかかるものなのか私にはわからないから。

「…どうした?」
「ううん…、なんでもない」

 ダンデの横顔を見つめていたら、いつの間にかダンデの肩に頭を乗せて、二の腕に抱き着いていた。ようやくダンデは目を新聞から外したが、私が自分に向けられる目に合わせることはない。
 落ち着かなくて、額をぐりぐりと擦りつけた。抱き着く腕は、そこだけでは少しひんやりとしている。

 さむかった。ダンデいなくて、ずっと、一人で。

 ダンデの熱を覚えてしまったのは、誤算だった。もう忘れるなんて、できっこない。
 黙ったまま擦り寄っている私の頭に、ダンデの手がやんわりと添えられた。新聞いいのかな、とは思ったが、やっぱり顔は上げられない。そのまま、頭の天辺から後ろにかけて、撫でられる。胸がずくっと、した。

「今日は、できるだけ早く帰るよ。夕飯、楽しみにしてる」
「……ん」

 理由はわからないけど、どうしようもなく泣きそうだった。