- ナノ -




(12)エンドロールに名前はない


 キバナ君が世界で一番大切だった。地獄の中で唯一光を見せてくれた、私だけの、夢の中の特別な男の子。
 だけど、私は都合よくキバナ君を忘れたフリを、一度してしまった。自分を優先して、堪えられないからと、上から蓋をした。
 この世界に来てからもそうだ。キバナ君の存在を教えられるまで、彼の顔を思い浮かべることはなかった。なのに大人になったキバナ君がこの世界にいると知ってからは、ずっと彼のことばかり考えた。助けてキバナ君、と。そんな時だけ、都合よく。
 私は、私が助かりたかっただけだった、きっと。キバナ君を理由に、助かりたかった。死にたいと思ったくせに、結局。
 馬鹿で頭が足らないから、キバナ君に否定されるまで、それに気付けないままいた。


 グラタンが焼きあがるまでにスープの味付けをしなくては。この家で自由な時間はいくらでもあったからたくさん勉強したし、レシピは昔と比べて大分増えた。
 料理は、まぁできるほうだと思う。料理ができるとアピールして振る舞えば、男が喜んだから。料理を食べさせた後の方が、抱き方が格段に優しかったから。料理は、手段の一つだった。
 料理を振る舞った男は、みんな美味しいねと言ってくれた。だけど、その後のシチュエーション妄想に忙しいようで、褒める言葉もそこそこに私に触れたがった。誰も、次も食べたいとは言ってくれなかった。感想をねだっても全部美味しかったとしか言わず、感想を求められること自体本当は鬱陶しかっただろう。

 だけどダンデは、今まで見てきた中で一番喜んで、食べてくれた。一番、褒めてくれた。歯を見せてにっかりと笑う、眩しくて大きな笑い顔。
 ダンデにもっと喜んでもらいたくて、どうせならできたての一番美味しいタイミングで食べてほしくて、ダンデの為に料理を更に勉強した。グラタンが気に入ったようだったから、それに最も力を入れた。
 ふと、オーブンの中の様子を確かめて首を傾げてしまった。器が二つ、並んでる。なんで二つ作っちゃったんだろう。
 スープを一口。鍋の中の量がこれも一人分とは程遠くて、疑問に思いながらも味を確かめると、とても塩辛くて咽てしまった。どうしてだろう、いつも通りの分量の筈なのに。これ以上調味料を混ぜると味が変わってしまうから、もうここで失敗に決まりだった。
 ごめんねダンデ君、スープはおじゃんです。食べ物を粗末にしてごめんなさい。
 それにしてもキッチン周りが水浸しだ。こんなになるくらい水を飛ばしただろうか。料理をしている間ずっと視界がぼやけていたし、記憶があまりなくて、よく思い出せない。

 咽たせいか鼻が垂れてきて、慌ててテーブルの上のティッシュまで走った。だけど、かんでもかんでも鼻水が止まらなくて、凄く焦った。ポイッとゴミ箱に使い終えたティッシュを捨てていくが、気付けば溢れそうなくらい山になっていた。
 おかしいのは、涙も一緒に止まらないことだった。ぐずって、おえってえずいて、馬鹿みたいに涙が止まらない。鼻水よりも先にそっちに気付いてティッシュで拭ってはいたが、一向に止まらない。いつからこんなに全部垂れ流しだったんだろう。
 仕方なくソファに座ってティッシュと仲良しこよしするが、そろそろ一箱使い切りそうだった。なんでだろう、胡椒かぶったっけ。料理の最中ずっとボンヤリしていたから、ほとんど覚えていない。

 それよりもティッシュ。ティッシュ持ってこなきゃ。ダンデは使い切っても新しいのを持ってきてくれないから、補充はいつも私の役割だ。今は私が使い切ったけれど、私が置いておいてあげないとダンデが後で困ってしまう。
 ティッシュだけじゃない、トイレットペーパーだって補充してくれないし、便座も上げたままが多かった。もうまた!って小さく文句を言っても「すまん!」と笑ってばかりで、全然改善しなかった。途中から私が諦めたが、二人で暮らしていたのだからもうちょっと気にしてほしかった。
 それにしても、本当に涙も鼻水も止まらない。一箱じゃなくていくつか持ってきた方がいいかもしれない。部屋の中は熱いくらいだし、花粉症の季節でもないのに、不思議なことだ。
 だけど、ソファの上はひんやりとして、お尻が冷たい。そのせいかもしれない。一人で座るソファは大きくて、隣に誰もいないから余計に冷たく感じる。
 途中から疲れて横になっても、ぬくもりがないそこは体の熱を奪うだけだった。でも火照った体には丁度いいだろう。
 とうとうティッシュは使い切ったが、一度横になってしまったからか、もう起き上がれそうになかった。
 でもいいだろう、もう一人きりなのだから。ティッシュを用意しなくても、もう私が心配することじゃない。

 このソファ、好きだった。レンタルの家の備え付けなのにふかふかして、二人で座っても狭くなくて、でも隙間があるのがもったいなくてよくダンデに寄り添った。
 最初は心だけでなく物理的な距離を互いに保っていたのに、いつの間にかそうすることが当然になった。
 ダンデ、あったかかった。寄り掛かると頭を撫でてくれた。本当は泣きたいくらい嬉しかった。私の頭なんて優しく撫でてくれる人、ほとんどいなかったから。ベッドの中でならパフォーマンスで撫でてくれる人もいたけど、ダンデはベッドの中じゃなくても頻繁にしてくれた。
 そういえば、抱かせるつもりでアピールしたのに抱かなかった日もあったな。体だけに触りたいわけじゃないって。やっぱり心底おかしい人だと思った。私の価値を最大限に生かせるのはそれだけなのに、要らないって言うの。ショックだったけど、そのまま横にされて抱き締められて、背中をとんとん叩いてくれて、少しずつ体のこわばりが解けていき、いつの間にか寝てしまった。
 目が覚めてもダンデは私を抱き締めたままいて、先に起きていたダンデは変わらずに私の頭や頬を撫でていた。とても、心地よかった。


 ダンデ。
 嘘を吐いて取り入ろうとした人。私を助けてくれた人。この世界で、たくさんの悪いモノから守ってくれた人。ぬくもりを分けてくれた人。体だけあげればいいって、思っていた人。
 キバナ君が好きだった。その筈だった。キバナ君を愛してた。初めて、私を認めてくれた子。
 だけど、それは、愛じゃなかった。愛になったかもしれないのに、私がとっくに潰してしまっていた。狂おしい熱の正体は、愛ではなかったのだろう。

 大切なのは本当。キバナ君は特別。

 だけど、今頭の中にいるのは、キバナ君じゃない。

 とても、優しかった。あまりに、優しすぎた。嘘で固めた自分が苦しくなるくらい、欲しかったものを全部くれた。
 でも、ダンデも、私と同じだった。男に媚びるために料理を覚えたように、ダンデも私を篭絡するために、優しさを与えただけだった。
 私が一番悪いのに、私が一番断罪されるべきなのに、裏切られたなんてお門違いな考え、何よりも罪深い。

 どうしてこんな風に出会ってしまったんだろう。始まりさえ違っていれば…いや、そうとも言い切れない。別の世界から来た人間なんてそんな薄気味悪い存在、どうしたら受け入れてもらえるというのだ。
 でも、本当にこの家の中は、居心地が良かったの。嘘で彩った毎日でも、ダンデが側にずっといてくれたから。生きていくことが恐ろしかった私が、ここにずっと居たいと思えた。
 全部ダンデがいてくれたから。ダンデに側に居てほしいと願うようになったから。
 だから、こうして全て失敗してしまったのだけど。
 それでも体だけじゃなくていいって、言ってくれた。心配して気に掛けてくれた。優しい時間をくれた。
 太腿の上で寝ちゃったときも、慈しむように撫でてくれた。まるで愛しいって、言われている気がしても、それは妄想だってわかっていたから、絶対に自分を許さなかった。だってそんなこと、あるわけないもの。


 風が吹いたような気がして、ソファに押し付けていた涙でぐしゃぐしゃの顔を持ち上げると、そこにはこの世界で私に地獄を見せたきっかけが、穴を空けていた。




「アネモネ!」

 誰かに呼ばれた気がしたが、うまく聞こえない。そもそもそれは私の名前じゃないもの、返事する必要ないよね。

「アネモネ!」

 今度はすぐ近くから聞こえた。うっすらと目を開けると、滲むように視界がぼやけたままで上手に見られない。
 なんだか、体がとても苦しい。圧迫感がある。なんとなく、わかる気がする。この世界で、何度も、こういう感覚があった。そう、だきしめてくれた。これは、だきしめられる感覚。

「ダメだアネモネ!ダメだ…!」

 この世界でこんなに名前を呼んでだきしめてくれる人を、たったの一人しか知らない。

「…だんでくん?」
「そうだ!しっかりしてくれ!俺の手を離すな!」
「…?」

 少しだけ視界が晴れて、目の前にダンデの顔があってちょっとびっくりした。
 私の体を抱き締めて、ギュウと力強く右手を握り締めて、必死な様子なのになんだか今にも泣きそうな顔をしていた。変なの、ダンデのそんな顔、初めて見た。

「いかないでくれ!」

 言葉も変なの。いかないでなんて、そんなおかしなこと。
 ダンデの向こうに、黒い光が見えた。さっき現れた、光。
 やっぱり変なの。どの道私はもう、ここにはいられないのに。

「…だんで、君、ごめんなさい…ごめんね…ごめんね…嘘ついてごめんなさい…怒らせてごめんなさい…」
「もういいから!俺も嘘を吐いた!ずっと嘘を吐いて!君を傷つけた!」
「ソニアと博士のことも…ごめんなさい…あんなに優しくしてくれたのに…私がちゃんとうまくできなかったから」
「二人は無事だった!君を怒ってなんかいない!」

 黒い光から吹く風が強くなって、私の体が一瞬とても軽くなった。飛んじゃいそう、って薄く思っていると、ダンデに抱き締められる力がまた強くなる。苦しいのに、苦しいって言えない。なんだか動くことも考えることも酷く億劫だった。
 こんなにビュウビュウ風が吹いて私の髪をバサバサと乱れさせているのに、ダンデの髪は一本も揺れていなかった。
 そもそも部屋の中にこんなのがあること自体おかしなことだし、しかも家具は一つも揺れていない。テーブルに放置したままのティッシュも、微動だにしていなかった。よくよく考えてみれば、これは吹いているのではなく、吸い込もうとしているようだった。

「あとね、スープ失敗しちゃったの…ごめんなさい…塩辛いから飲まないでね…あ、グラタンそのままだ…冷めちゃったかもだから温めて食べてね…」
「アネモネ…っ俺の手を握るんだ!」
「あとそうティッシュ使い切っちゃった…ダンデ君ちゃんと持ってきてね…いっつも持ってこないんだから…しまってある場所は覚えてるよね…?」
「そんなの今いいから!」
「よくないよ…脱いだ服もその辺におきっぱだし…お洗濯大変だったんだから…。いつも変な柄のTシャツ買ってくるし…ご飯忘れそうによくなるし…きちんと三食食べてね…ちゃんと一人でやってね…」
「ああやる!ちゃんとやるから…!」

 信用できないなぁ。本当に大丈夫かな。一人暮らししたことないくせに、簡単に言ってくれちゃって。
 それにしても、風強いな。どんどん体が引き寄せられる感じ。あ、もしかして、本当にそうなのかもしれない。私の体だけ、あれに引き寄せられてる。なんで今度はそんなにゆっくりなの。
 あの時は、一瞬だったのに。

「…あ、そうだ、いつも烏の行水すぎるからちゃんと温まってね…風邪ひいても看病できないんだから…。髪も乾かしてね…もう乾かしてあげられないよ」

 楽しかったなぁ。ずっと監禁されていたからじゃなくて、こんなに安心できた生活、初めてだった。怒鳴られることもなくて、叩かれることもなくて、嘲笑われることもなくて。本心じゃなくても、優しい言葉と、たくさんの温かい物を貰った。その全てが、この身には過ぎたるものだったけれど。

 ふわっと体が突然浮いて、そのまま黒い光に強く引き寄せられる。ダンデがあんなにきつく抱き締めていたのに、まるでするっと擦り抜けたようだった。だけど一度離れた手は、手首だけを掴み直して私をその場に留めた。
 ふわふわと体が浮いて宙に揺れたままの私を、ダンデは懸命に引っ張ろうとしている。不思議だけど、掴まれる手首、全然痛くない。

「俺は…君と話がしたいんだ!もっと、たくさんのっことッ!俺ももっと自分のことを話す!だから君も話してくれ!小さい頃のことも、嬉しかったことも悲しかったことも辛かったことも、全部!俺の家にも行こう!弟がいるんだ!ホップっていう弟がッ!」
「…知ってる。ダンデ君によく似た弟でしょ。写真見せられた」
「まだ君に話してないことが山程あるんだ…っ!君の事だってもっと知りたい!だからっ!」
「ありがとう、最後まで優しくしてくれて…もういいのに」
「よくないっ!本当なんだ!いつも君の事が心配でたまらなかった!君の料理が好きだ!隣で安心しきって眠っていた君の寝顔が好きだ!君の笑った顔が好きだ…!まだッ、君と一緒にいたい!」
「……へへっ、照れちゃうや」

 必死なダンデの姿と最後まで貫こうとする優しさがなんだか目に染みて、また涙が出てきた。そんなこと言われたことないから、どう反応していいのかわからないなぁ。
 一瞬気が緩んだせいだろうか、グイッと後ろから引っ張られたような気がして、またするっと手首がダンデの手から抜けてしまった。動かせない手が、ダンデに伸びたまま後ろに体を持っていかれてしまう。

「アネモネ!…ちがうっ、そうじゃない!君の本当の名前は!?」

 もう全部知っちゃったんだ。そりゃそうだよね。あの男の所に行ったんだもんね。どうせあの男のことだ、意地悪く教えなかったか、とっくに私の名前なんて忘れてしまったんだろう。
 でも、ごめんね。虫がいいけど嬉しい。私のこと、そんなに気にしてくれて。
 ダンデが、私に駆け寄ってきている。もう一度私の手を捕まえようとしているみたいだけど、どうしても触れることができない。よく見たら、指の先から透けていた。
 もう、全部終わるのだ。


「――だんでくん、大好きだったの…、ごめんねっ」

 びゅ!と風が一際大きく吹いて、蚊の鳴くような声でどうにか言い切れた直後、目の前が真っ暗になった。


  ◇◇


 家に飛び込むと、中は明らかに異常事態だった。
 リビングのど真ん中に、黒い光がポッカリと穴を空けていたのだ。それはソファに横たわるアネモネだけを吸いこもうとしているようで、奇妙なことに他の家具などは微動だにしていない。
 正しく、アネモネだけを取り込もうとしていた。

「アネモネ!」

 今にも吸い込まれそうになっているアネモネを閉じ込めるように抱き寄せて呼びかけても、瞼を閉じたまま彼女は起きない。くったりとしていて、その顔には涙の跡が残っていた。

「アネモネ!」

 アネモネの体が、少しずつ軽くなっていく。確かに今この腕に抱いていて、見た目に変化はないのに、その質量がどんどんなくなっていく。無駄な直感で、あの光の正体がなんなのか、わかっていた。

「ダメだアネモネ!ダメだ…!」

 駄目だ、ダメだ、だめだ。まだ行かないでくれ、まだ消えないでくれ。せっかく君がこの家に残ってくれていたのに、こんな突然なこと、俺はまだ許さない。

「…だんでくん?」
「そうだ!しっかりしてくれ!俺の手を離すな!」
「…?」
「いかないでくれ!」

 ようやく目を覚ましたアネモネの目は虚ろで、生気がない。データベースで見た時よりも、ずっと。今すぐにでも空気に溶けてなくなってしまいそうで、たまらなく恐ろしい。
 少しでも力を緩めればそのまま本当にいなくなりそうで、彼女を抱き締める力も、手を握り込む力も強まっていく。こんなに握り込んでは痛いだろうが、少しだけ我慢してくれ。

「…だんで、君、ごめんなさい…ごめんね…ごめんね…嘘ついてごめんなさい…怒らせてごめんなさい…」
「もういいから!俺も嘘を吐いた!ずっと嘘を吐いて!君を傷つけた!」
「ソニアと博士のことも…ごめんなさい…あんなに優しくしてくれたのに…私がちゃんとうまくできなかったから」
「二人は無事だった!君を怒ってなんかいない!」

 俺は君を怒ってなんかいない。俺だって君を騙したんだ、全部お相子にしよう。ソニアも博士も許してくれる。いや、博士は最初から怒ってすらいない。大丈夫だ、みんな君を待ってる。
 しかし、黒い光から発生する風が一気に強くなる。その分、アネモネの体が、軽くなる。慌てて抱き直しても、おかしなことに、彼女に触れている感覚が少しずつ、なくなっている。

「あとね、スープ失敗しちゃったの…ごめんなさい…塩辛いから飲まないでね…あ、グラタンそのままだ…冷めちゃったかもだから温めて食べてね…」
「アネモネ…っ俺の手を握るんだ!」
「あとそうティッシュ使い切っちゃった…ダンデ君ちゃんと持ってきてね…いっつも持ってこないんだから…しまってある場所は覚えてるよね…?」
「そんなの今いいから!」
「よくないよ…脱いだ服もその辺におきっぱだし…お洗濯大変だったんだから…。よく変な柄のTシャツ買ってくるし…ご飯忘れそうによくなるし…きちんと三食食べてね…ちゃんと一人でやってね…」
「ああやる!ちゃんとやるから…!」

 ごめん何度も君を困らせて。ずっと一人だったからすぐには習慣にならなくて、君はちょっとだけ不満そうに頬を膨らませて軽く文句を言っていたな。
 だけど、絶対に俺に怒らなかった。誰かに怒るだけの熱量も持ち併せていないし、誰かを怒ることが、怖かったんだよな。

「…あ、そうだ、いつも烏の行水すぎるからちゃんと温まってね…風邪ひいても看病できないんだから…。髪もきちんと乾かしてね…もう乾かしてあげられないよ」

 風呂の時間だって惜しかった。元々その分ポケモンのことに時間を使いたかったし、何より、風邪ひくよって言ってくれる君の顔が、ほんのちょこっとだけ心配を滲ませるその顔が、可愛かったんだ。髪だって君に乾かしてもらう方が気持ち良くて好きだった。だから、そんな悲しいことばかり言わないでくれ。
 ふわっとアネモネの体が突然浮いて、そのまま黒い光に引き寄せられる。あんなにきつく抱き締めていたのに、まるでするっと擦り抜けたようだった。
 なんとか手首だけ掴んで引き留めることに成功しても、もうほとんど彼女に触れている感覚がない。だから、力任せに握っていないと、離したとしてもわからないから渾身の力で握り締めた。

「俺は…君と話がしたいんだ!もっと、たくさんのっことッ!俺ももっと自分のことを話す!だから君も話してくれ!小さい頃のことも、嬉しかったことも悲しかったことも辛かったことも、全部!俺の家にも行こう!弟がいるんだ!ホップっていう弟がッ!」
「…知ってる。ダンデ君によく似た弟でしょ。写真見せられた」
「まだ君に話してないことが山程あるんだ…っ!君の事だってもっと知りたい!だからっ!」
「ありがとう、最後まで優しくしてくれて…もういいのに」

 違う、わざとじゃない。全部本心だ。今まで押し込んで認められなかった、俺の本当の言葉。
 優しくしたのだって、優しくしたかったからだ。君に優しくありたかった。君が恐怖を少しでも忘れられるように、安心できるように、打算でもなく、俺がそうしたかったから。

「よくないっ!本当なんだ!いつも君の事が心配でたまらなかった!君の料理が好きだ!隣で安心しきって眠っていた君の寝顔が好きだ!君の笑った顔が好きだ…!まだッ、君と一緒にいたい!」

 いつの間にか君のことばかり考えるようになった。離れていても、君だけが心配だった。
 疑っていたとかそんなこととっくに関係なく、君が笑える時間を守りたかった。子供みたいに笑ってくれるようになった君が、本当は、愛しかった。

「……へへっ、照れちゃうや」

 それなのに、信じられないと突っぱねないでくれ。

 ポロッと彼女の黒い瞳から零れた涙は、瞬く間に風に攫われて消えてしまった。彼女まで、こんな何の心構えもできていないまま、いなくなってほしくはない。
 俺は全く風に吹かれている冷たさを感じないのに、彼女だけが引きずり込まれようとしている。どれだけ必死に繋ぎ留めようとしても、だらりと空中に揺れるだけの彼女は、俺の手を掴み返してはくれない。

「アネモネ!…ちがうっ、そうじゃない!君の本当の名前は!?」

 ほんの一瞬だけ、彼女の目が見開いた。すぐに元に戻ってしまったが、その顔にほんの一握だけでも、喜びが浮かんだことを、俺は見逃さなかった。
 彼女の手首が、音もなく抜けていった。反動で体が傾き倒れ込みそうになるがなんとか踏ん張り、もう一度彼女の手を掴む為に勢いよく伸ばす。
 こちらに伸びたままの手の先に指先が掠めたように思えたのに、そこには何の温もりも感触もなかった。もう彼女の指先が、透けだしていた。

「――だんでくん、大好きだったの…、ごめんねっ」

 彼女が唇を動かし、びゅ!と風が一際大きく吹いて、その小さな唇が音をか細く落とした直後に、彼女の姿は完全に黒い光と共に消えてしまい、目の前はカーテンから差し込む夕陽の色で、橙色に染まった。

 何事もなかったかのように、リビングは静寂に包まれていた。指先は壁に向けて伸ばされたままで、そこには無機質な壁紙しかない。
 カーテンは少しも翻る様子がなく、テーブルに置かれたままのくしゃくしゃのティッシュも、揺れることもない。

 一瞬で、消えてしまった。

「……あ、…」

 何も掴めなかった掌を見つめて、愕然とした。こんなにも呆気なく、いなくなってしまうなんて。まだ一番大事なことを、言っていなかったのに。どうして君も、最後がごめんなんだ。どうして、大好きだったって、過去形なんだ。
 アネモネ、そう口にしかけて、噤んだ。俺は君のことをどう呼べばいいのか、さっぱりわからない。
 立っていられなくてソファに後ろから倒れるように座り込むと、そこにはまだ温もりが残っていた。彼女が残した、頼りなくて、じきに消えて冷たくなってしまう、ここにいた証。


 どれくらいそのままでいただろうか。もうすっかり部屋の中が暗くなっており、一人分の熱しかソファになくなってしまった頃。
 そうだ、と思い出してキッチンへ向かった。オーブンレンジに入れられたままのグラタンを温め直すためにタイマーのボタンを設定して、スープを火にかける。冷蔵庫にはサラダが入っていて、あとは買い溜めていた、しばらく保存がききそうな食材がつまっている。ああそうだ、ティッシュ、持ってこなくては。どこにしまったっけ。

 テーブルに彼女が残した料理を並べて、何とも言えなくなった。二人分のそれは、彼女も一緒にここで食べるつもりだったのだろうか。願わくは、そうであってほしい。
 飲むなと言われたスープを飲んでみると、確かに塩辛かった。だけど、一滴も残したくなくて、鍋ごと持ってきてしまった。もう食器によそえと咎める人間がいないから、横着した。
 サラダからまずは食べるようにもいつも言われていたが、グラタンが食べたかったからサラダは後回しにする。彼女は結構、色々と細かいことにこだわりを持っていた。

 彼女が作ってくれるグラタンは、日に日にレベルアップしていったな。経験値を積んだんだな!と褒めると、なんでもポケモンに例えないでと、ほんの少し不満そうに返されてしまった。
 最初に彼女が心を開いてくれたあの日に食べたグラタンがやはり記憶には強く残っているが、絶品と言ったことをようく彼女は覚えていて、何度も作ってくれた。好物なんてなかったが、今なら、はっきりと答えられるよ。
 だけど、今日はこれも一口目からずっとしょっぱいぞ。どうしてしまったんだ。もう一度スープを飲むと、何故かついさっき飲んだ時よりも塩辛く感じた。
 ドレッシングをかけていないままのサラダもほんのりしょっぱくて、喉がつっかえていると突然スマホが鳴り響いた。キバナからの着信で、フォークを持ったままそれをゆっくりと耳に当てた。
 そういえば床に彼女のスマホが転がっていたな。あとで拾わないと。

「どうした」
『いやどうしたって…アネモネ、見つけたか?その様子じゃ見つけたんだろうけど』
「ああ、見つけた。見つけて、消えてしまった」
『は?』
「もう、とっくに、消えて、いなくなってしまった」
『……もしかして、泣いてる?』
「泣いてない」
『いや泣いてるって…て、待て、どういうことだよ』
「明日話す。今は彼女が作って残してくれた料理を食べているんだ。邪魔するな」
『…俺も食べに行っていい?』
「ふざけるな。全部俺のだ」

 わざとおどけるようなキバナとの通話を切ってスマホを置き、食べる毎にしょっぱさを増していく料理を、一度も手を止めずにかきこんだ。誰ももっとよく噛んで食べろと言わないから、俺は止まらない。

 あ、と途中で思い出してもごもごと咀嚼したまま、スマホをいじる。これも、行儀が悪いと怒られることはない。
 彼女とのメッセージのやり取り。こっそり取った写真と動画。どれも寝ている姿ばかりだった。あどけない寝顔が、俺の隣で安心しきって寝入る彼女が、とても無防備で可愛くて。
 あとは、隠し撮りみたいなものばかりだ。あまりスマホで思い出を残す習慣がなかったし、カメラを向けると嫌がってばかりいたから、起きている姿はほとんどない。
 動画も、寝ている彼女の頭を撫でているものばかりだ。もっと、声が聞きたいのに。こんなことなら、意地でも撮らせてもらえば良かった。人は、声から忘れる生き物なのに。
 突然、スマホの画面に水滴が落ちた。そのまま滴が滑って、画面に触れている俺の指まで濡らしていく。
 だめだ、このまま濡らし続けると壊れてしまう。彼女が、消えてしまう。名前も知らない、俺の、可愛い――。


 止めていた手を動かして、器の隅々まで掬ってグラタンを口へ運ぶ。

 君が最後に作ってくれた料理は、どれもこれも本当にしょっぱいな。