- ナノ -




(11)卵の中の君


 その女を何故覚えていたのかといえば、その淀んだ眼差しが最たる原因だった。

 PCモニターに表示される、ガラルのトレーナーデータベースに誰も登録した覚えがないというそのトレーナーの画像は、一見何の不自然さもなくこの目に映った。女の顔の良し悪しは正直興味がないが、一般論でくくれば整っていると言えるのだろう。
 しかしその女の瞳には、一片どころではない濁りが混じっていた。登録用の顔写真を撮影するのに緊張していた、という可能性を考慮しても、生気が全く感じられない。しっかりと瞼が開かれてその下に吸い込まれそうなくらいの黒い瞳が覗いているというのに、その人間の意志とでもいうべきものか、それが一切感じられなかった。
 チェックした張本人が結局何も不備はないから、とその場はお開きになったが、どうしてもその暗い瞳が、頭のフィルムに焼き付いたように離れなかった。

 だから、バウタウンから帰る途中偶然身を投げようとしていた人間の顔を見た時、とてもよく驚いたものだ。だって、件のデータベースのトレーナーその人だったから。
 彼女は、暗がりなのを差し引いても、やはり暗闇の色をした瞳をもっていた。単なる表面的な色の話ではなく、その奥にあるものの話だ。悪い言い方をすれば、陰鬱な色だった。
 直感と言えたかもしれない。彼女は、何かがある。そう思い、引き止めるために結婚してくれなどと突飛な申し出を受け入れてしまったのだ。
 彼女は、なんだか気配が薄っぺらかった。しっかりと二本の足で立って女性らしい丸みを帯びた体つきをしているというのに、あまりにまとうオーラが弱々しくて。瞬きしている間にそよ風にも攫われて行ってしまいそうにも思え、きっと彼女は自分で逃げるということをしなかっただろうが、引いて進む手を放せなかった。

 咄嗟に思いついたのはソニアの家で、ソニアと博士には悪いが研究者という一般人の立ち位置とは別の世界にいたし、ソニアはかつて腕の立ったトレーナーだ。そう簡単に危害を受けることもないだろうと考えたのだ。実家は論外だった。得体の知れない人間を、家族の側におくことには抵抗が勝った。
 アネモネと名乗った女をソニアが風呂場へ案内しにいっている間に、博士には仔細を伝えた。険しい顔ながらもそこには優しい年配の人間らしく心配の色があって、泊めることをすぐ了承してくれてありがたい。

「ソニア、彼女からできるだけ目を離さないでくれ」
「え?あ、うん」

 恐らくソニアには言葉の意味がきちんと伝わらなかったようだが、こちらも急いでいたのでそれ以上の話はよした。
 アネモネを預け、場所を変えてから委員長にこれまでのことを連絡する。話を聞いた上で返ってきた委員長の声音は、わかってはいたが咎めを含んでいた。

『ダンデ君、それは悪手ですよ。簡単に結婚の話に頷いてしまったことも、博士のお宅に預けてしまったことも』
「すいません、わかってはいるんですが…咄嗟にそれ以上思いつかなくて」
『らしくもない。けれど、終わってしまった行動をとやかく言っても致し方ありません。過ぎたことよりも、今後のことを考えましょう』
「はい」

 ほとんど帰ることはない実家だが、今後そこへ置いておくには不安があったから、委員長の膝元であるシュートシティに居を構えることになった。家は委員長が朝までに用意してくれるとのことで、急な話で手を煩わせてしまい申し訳なかった。
 明日は彼女のせいで潰れるのかと思うと、嘆息してしまう。休みの前日は早めにホテルに戻り、時間をたっぷり設けてポケモンの為に使うのが常なのだが、暫くはそうして好きに時間を使えなくなってしまうのか。

 アネモネと本当に結婚する気は、なかった。素性の知れない、それもデータベースの件で猜疑心を抱いている人間だ。言葉では受け入れたが、実際にそんなことができるわけがないだろう。それに繰り返すが曖昧ながらも、直感があったのだ。彼女には、何かがある、と。


 アネモネを泳がせるために二人で同じ家に暮らす準備をした日は、正直心身ともに疲労困憊だった。バトルで味わう高揚の末の疲労とは大違い。彼女と出会ってさえいなければ自分の時間はバトルの戦略を考えたりポケモン達のケアをするために使うのに、それが一つもできないのだ。気心知れない人間に時間を割くなら、余った時間はポケモンの為に全て費やしたい。
 食事の準備をするというから手伝いを申し出たのも、素性がわからない人間が用意する食事に何が入れられるかわかったものではないからだ。委員長から気にするよう注意されてもいたし、テキパキと食事を用意する彼女についていたのだが、ろくに包丁も握ったことがないためにすぐに邪魔だとつまみ出されてしまう。仕方なく離れた場所から見張っていたが怪しい素振りは一切なく、湯気の立つ温かな料理が出されてしまった。何やらニュースに釘付けだった場面もあったが、問いかけても表情が変わらず、何があっても淡々と話をする人間だった。

 翌日早速委員長と引き合わせた。委員長とあらかじめ決めていたことだ。
 途中予定のない意地悪な質問をされたが、アネモネは終始大人しく座っており、特に気になるような素振りは見受けられなかった。それは委員長も同じの筈だったが、帰り際に一人呼び止められて指示されたことには、本心から気が引ける思いだった。

「これは?」
「監視というか…平たく言ってしまえば盗聴アプリですね。あとGPS機能もついています。それ、彼女のスマホに入れてください」
「とっ…!?」

 自分のスマホに移されたアプリは、ホーム画面にアイコンが映らない。それはアネモネのスマホに移しても、同じなのだろう。
 いつもと変わらぬ表情。言葉の温度。委員長は、平然としていた。

「一見何も害はなさそうですが…データベースのこともありますし念の為です」
「そこまでせずとも…」
「重ねますが念の為ですよ。あと、なるべく早めに彼女のご実家からの反応も見せてもらって欲しいですねぇ。すいませんね、嫌な役回りを」
「……はい」
「引き続き用意される食事にも気を配ってください。…ああ、あと」

 頃合いを見て、寝床を共にしてしまいなさい。その方が懐柔しやすい。
 労うように肩を叩かれても、気が進まないのが本音だった。いくらなんでも、そんな外道のようなことまで。


 アネモネは、ごく普通の女性に見えた。表情が乏しいだけの、一般的な人間。
 ただ暴力の被害を受けていたせいか、スマホを起動して画面を見た途端に気が動転したことにはさすがに驚いた。画面を見た瞬間彼女の瞳がゾッとする程暗くなり、纏う空気が重くなった。俺の声も届かず気を戻すために抱き締めると、もどかしい速度で体の力が抜けていき、やがてぐったりと体を預けてくる。気を失ったようだった。もたれかかる体に重みはあまり感じられず、これまでの彼女の悲惨な日々を想像するだけで、心が痛んだのは確か。
 意識をなくした腕の中のアネモネは、消え入りそうな声で確かに譫言を言った。たすけて、と。
 少しだけ、自分の直感を疑う。本当に、彼女は怪しむべき人間なのだろうか。こんな、今にも空気のように消えてしまいそうなのに。

 アネモネを寝室へ運んでから、テーブル上の二台のスマホと睨み合う。申し訳ないと思いつつ彼女のスマホの中を見たのだが、周囲とはさほどの交流をもっていないようだった。断トツでやりとりが多いのは父親と“ズオウ”と表示される人物で、内容を見る限りこの男が例の恋人なのだろう。メッセージの文章は柔らかい言葉遣いなのに嫌に高圧的で、眉を顰めてしまったのは言うまでもない。
 問題は、委員長から受け取ったアプリだ。これを入れてしまえば、もう引き戻ることはできない。ここまで、しなくてはならないのか。でも、あの思慮深い委員長の事。きっと、心配から来ていることなのだ。

 アネモネが起きてきて、自分のスマホを操作している間も言葉上では普段通りの抑揚のなさだったが、やはり顔色は悪いままだ。彼女が錯乱した様子が、フラッシュバックする。
 やはり、アプリを使った方が、いいのかもしれない。こちらの思惑も少なからずあるのはあるが、アネモネの今後の安全の為だ。逃げてきたという彼女がいつどこで恋人と鉢合わせするかわからない。だから、呵責は残っていたが彼女のスマホに自分の連絡先を入れる際に、アプリを入れてしまった。


 しばらくはそのアプリを起動することを躊躇った。そのまま時間だけが無為に過ぎていき、相変わらず怪しげな素振りを見せないアネモネに疑念を向ける自分がなんだか受け入れ難くなり、心配する必要がない外で食事をとっていたが、いい加減家で食べねばこちらも怪しまれるかもしれないと、アネモネに家で食べることを連絡した日。

「おかえりなさい」

 予想外なことに後ろから掛けられた声には、ビックリした。振り向けばいつも通りのアネモネが立っており、彼女にこうして出迎えられることは初めてで、それだけで途轍もなく驚いていた。
 席に着いた食卓には、湯気の立つ作り立ての料理。それを見つめると胸の内をやわく擽られるようで、すぐに手が動かすことができずにしばしの間眺めてしまった。アネモネの不審そうな視線を感じて尚、むずむずするような感覚がどうしても消えない。

「家に帰って“おかえり”と出迎えられるのも…、温かな料理が用意されているのも久しぶりで…なんだか、嬉しいな」

 するっと出てきた最後の言葉に、口にしてから自分でもやっと気が付いた。
 かつて幼い頃は当たり前だったものが、今こうして目の前に広がっている。食事よりも何よりも、ポケモンを優先してきた俺が背中を向けて置き去りにしてきたもの。この時ばかりはなんとも都合がいいことに、アネモネに疑いを抱いていたことも何もかもを忘れて、温かな料理を頬張った。


  ◇◇


 結果から言えば、その後しばらく盗聴は一つもその役割を果たさなかった。何故なら、アネモネは通話を一切しなかったのだ。別に通話だけでなく周囲の様子を音で拾うものなのだが、奇妙なものは一切なく、生活音しか聞こえてこなかった。ただ、GPS機能だけは、幸か不幸か唯一役立つこととなった。

 アネモネと暮らしだしてから数日経った頃。国際警察を自称する人物に出会った。
 ハンサムと名乗ったその人は名もまだ判明していない犯罪組織を追ってガラルまでやって来たらしく、その協力の要請を受けたのだ。悪の組織を討つために協力は惜しまないが、個人で動くべきではないと考えすぐさま委員長への取次ぎをし、ハンサムさんに全面的に協力することになった。ハンサムさんの話は驚愕に値することばかりだったが、万が一このガラルでもよその地方のように大事件が起こっては困る。それを解決するためならば、いくらでもこの身を役立ててほしい。

 だから後日アネモネと食事に外へ出た折、ハンサムさんから連絡が来てそちらを優先してしまった。捕らえた組織の人間と思わしき男の聴取が終わった報告で、正式な構成員でなかったことなど長々と話をしてしまい、別れた場所へ戻るとそこに彼女の姿はなかった。
 彼女が、俺の許可なく一人で何かの行動をとれる人間とは思えなかった。家の中で探るような目を向けられることも多く、顔色を窺うような挙動も多い。すぐに何かあったのではないかと予感が働き、躊躇していたアプリのGPS機能を思い切って起動してそれを頼りに居場所を辿ると、おかしなことにここより離れた路地と路地の間にいたのだ。
 予感は二つあった。一つは、例の恋人に見つかってしまったのではないか。もう一つは、やはり何かしらの目論見があり、その遂行のために移動したか。最初にハンサムさんがもたらした情報を耳にした際、頭に真っ先に浮かんだのは、残念なことにアネモネの顔だったからだ。

 当たった予感は前者の方で、涙を流したまま自失した様子のアネモネのスカートの中をまさぐっている男の姿に、一瞬で血が昇った。この時この身を突き動かしたのは、純粋に強烈な正義感だ。抵抗すらできずに不貞が働かれるのを、俺は黙ったまま見ていられるような心無い人間ではない。
 一歩間違えれば相手の男に口では言い難い仕打ちを施しかけていたが、どうにか昂るものを抑え込んで大事には至らずに済んだ。それよりも、俺が気に掛けるべきは俺を見つめているアネモネである。

 彼女は、今までの態度がまるで幻のように、俺を見上げる表情にたくさんの色を浮かばせていた。この時初めて、彼女は生きている顔を見せたのだ。丸くなっている目は、キラキラと眩しい。涙のせいだけでは、多分なかった。抱き締めてやれば大粒の涙をボロボロと零しだし、体を震わせながら縋りつくように服を掴んできた。余程怖かったのだろう。
 あの日、スマホを前にして取り乱したアネモネを思い出す。暴力に怯えて、一人で心細くて、ずっと誰かに助けてほしかったに違いない。この時の彼女の体はなんだかいつもより大分小さく見えてしまい、まるで昔小さかったホップを慰めるためにあやしてやった時のようで、そう、幼い子供のようですらあった。

 なのに家に戻った彼女の行動は、子供とはかけ離れていたものだから。急に唇を重ねられて、想像もしていなかった事態に息を呑んでしまった。一週間以上アネモネと過ごしたが、こうした肉体的な接触は、これが初めてだったのだ。
 その後もアネモネには戸惑いばかりが続いた。急に俺の好物を気にしだしたり、大量の料理に呆ける俺に不安そうな顔をして、何か勘違いして下げようとするものだから慌てて否定してやると、一転、体の力がみるみると抜けていき、自信なさげだった頬の筋肉が緩んだ。僅かに伏せられた睫毛に、ほんの少し上がった口角。頬の色は赤色に薄く染まっていて、その姿を見た途端、解せないことにぴしりと体が固まった。

 君は、そんな顔が、できたのか。

 食事が終わった後もいきなり柔和になった表情に驚かされてばかりいたし、俺の髪を乾かしたいなどと言い出した時も一体どうしたものかと、脱衣所に戻ってから頭を抱えた。あまりの豹変ぶりに、まだ頭の処理が追い付かない。結婚してくれと自分から言い出したくせに、今まであんなにも俺に興味なさそうだったのに。

 寝室までやって来た時は、一番困った。まだアネモネを抱こうとは思っていなかったし、お互いに気持ちもないのにそこまでしたくはなかったから。だけど腕の中で泣きじゃくっていた姿と一変して妖艶に誘う女の顔と、直後のあられもない言葉に、情けなくも理性が揺れてしまった。

「ダンデ君なら、好きにしていいよ」

 ベッドの上で剥いたアネモネの体は、酷く目に毒だった。薄闇に浮かぶ魔的な肌の白さに、眩暈がした。殴られた痣がまだ消え切っていなくてあまり負担はかけさせたくなかったが、自分の下の痴態に容易く、疑心も制御心も掻き消されてしまった。
 翌朝目が覚め、アネモネに喉元の急所を触られていると自覚した時には、少し肝が冷えた。遊んでいたと目元を下げて笑う姿に嘘ではないとわかったが、嬉しそうに昨夜のことにお礼を言われてしまい、深い溜息を抑えられなかった。こんな予定じゃなかったのに。


 それから、アネモネには外出を控えるよう言いつけた。ズオウとのこともあったし、何よりハンサムさんとの捜査が進展して、例の組織がグレイ団と名乗っていることを丁度突き止めた頃で、怪しい人物としてアネモネのことは一応伝えたが、本当にそうであった場合外にさえ出さなければ外部から接触されにくいし、本人も満足に行動を起こせないだろうという算段だったのだ。
 相変わらず通話はしていないようだったが、メッセージアプリのやり取りも見れば俺のことばかり父親に伝えており、アネモネの生活を鑑みれば当然俺の話題しかないのは仕方なくとも、あまりに細かな内容だった。生活スタイルや、会話の内容など。日常話にも見えたそれが、なんだか妙に頭に残った。

 言いつけを破って外に出てしまったアネモネとハンサムさんがはち合わせしてしまった時でも、彼女に動揺は見られなかった。揺さぶるためにハンサムさんはアネモネにグレイ団の話をしたようだが、緊張で鼓動が速まる俺をよそに、アネモネは目を逸らすこともなく平常通り淡々としていた。しかし、あまりに平然とし過ぎていた。

 ただ、家の中にいるアネモネは、明らかに穏やかとなった。害のなさそうな無邪気な顔で俺に近寄ることも増えて、少しずつ角が取れていった。
 なんだか後ろめたさが抜けずに「退屈じゃないか?」と訊ねてみたこともあったが、あっけらかんと「ぜんぜん」と答えられてしまう。実際本当にそのようで、軟禁のような生活に特には不満が見られなかった。それもまた、本来は奇妙なことなのだろう。普通に生きてきた人間がそんな環境になれば少なからず思うところが出て来るだろうに、彼女にはそれがない。まるで、この生活を望んでいるかのようで。

 その頃だろう。アネモネからの誘いが増えていった。スイッチが入るのか、平和的な日常を過ごしていたというにそれまでの振る舞いを忘れたかのような、彼女の姿が一瞬でコケティッシュなものに変わる。ごくりと生唾を呑み込んだのは、はたして何回になるだろう。毎夜とはいかないが、彼女の唇が紡ぎ出す魅惑的な言葉が、耳から入り込んで幾度と脳を焼いた。
 そうと思えばそんな淫らな素振りを一切見せず、寝室に突撃してきてはごろんと子供がベッドにダイブするように転がって、ボンボンと隣を叩いて隣に寝転がれと言う。こういう時は決まってどこかわくわくとしたものが顔に透けていて、ただ隣り合って寝たいだけの合図だ。
 向かい合って、アネモネの頭と背中を抱き込んで、すうすうと健やかな寝息を立てるあどけない寝顔に、庇護欲とも呼べるような感情をいつしか抱くようになったのは、自分でも戸惑って悩ましいことで。


  ◇◇


 アネモネは、大きく変わった。いつの間にか、随分と喋るようになったし、笑うようになったし、無邪気な振る舞いがどんどん増えていった。俺もまた不思議なことに、彼女の行動をチェックすることを、意識しないことが増えた。
 けれど、出会った当初の抑揚のない言動はすっかり消え失せ、普段は大人しく聞き分けがいい女の子の顔をしていたかと思えば、急に大人の女に変わってしまう。多分、夜の上手な越し方を知らないのかもしれない。一人きりの夜を怖がった彼女は、まるで誤魔化すように抱いて欲しいと飽きることなくせがんでばかりいた。
 抱いた後も、抱かなかった後も、アネモネの寝顔は、とても愛らしかった。離さないとでもいいたげに握られた片手は、どうしてか、ただの一度も振りほどけなかった。

 アネモネは、自分の価値は体にしかないと考えている。実際本人もそう言葉にしていたし、それしか他者とのコミュニケーションの取り方を知らないように見られた。
 だからある夜、いつものように唇を食んできたアネモネに首を横に振ると、大きな瞳を見開いて、こちらが驚くほどに驚いていた。

「どうして?」
「どうしてって…その…昨夜もしただろ」
「男の人って毎日でもしたいんじゃないの?私には触りたくない?私の体じゃ満足しない?」
「っそんなことは!………ないが」
「じゃあなんで…?みんなそうしてたのに」

 反射的に眉間に皺を刻んでしまった。いつもそうだ。今までの“誰か”達を引き合いに出して、比べる。みんな体に触れたがった。みんな、みんな。そう言って、まるで傷ついたような顔をする。自分の価値はこれだけなのに、と。
 泣き出す一歩手前の鼻にキスをしてから、頭を抱えてそのままベッドに二人で寝転んだ。アネモネはまたビックリして、大きな目をまん丸にしている。

「いいんだ。俺は別に、君の体だけに触れたいわけじゃない」
「…?」
「まだ、わからないか」

 心底不思議そうにしているアネモネは、自分でも自分を大事にできていない。何故こんな人間性になってしまったのかはわからないが、あまりに悲しいことだ。俺もまぁ、ポケモンのことばかりで他の事をないがしろにしてきたが、それにしても、だ。
 頭を撫でて、胸に顔を引き寄せて背中を一定間隔で軽く叩いてやると、段々とアネモネの瞼は重そうになり、やがてすやすやと眠ってくれた。こういう時は、彼女が小さな女の子のように見える。
 俺も不思議だよ。君のことをこんなにも考えて、心配するようになるなんて。


 アネモネは、二人で暮らす家がいたくお気に入りのようで、この先もここでの暮らしを望んでいた。レンタルの家なのだから、結婚したらちゃんとした家を用意するのに。その瞬間、口にもしていないのに口元を覆った。今、何を考えていた。
 そうして、アネモネとのぬるま湯のような生活に浸っていた矢先。現実に容赦なくも、バシンと盛大に叩かれてしまった。

「これ、目を通しておいてくださいね」

 委員長に手渡された茶封筒の中身は、アネモネに関する報告書である。夢から醒めたように、頭が白く染まる。口の中に苦みが急速に広がっていく。自分でも戸惑うくらい、長々と連なった文章を読むことを、はっきりと意識は拒否していた。

「…委員長」
「何もなければそれに越したことはないんですよ。安心材料になれば、それで」

 渡されてしまったそれは、数枚の軽い紙なのに、鉛のように重たかった。


 仕事部屋に放置したまま、それには目を通せずにいた。見てしまえば、自分の中に残るアネモネへの疑いを確固たるものにしてしまう。虫の良い話だ、疑いから始めた関係なのに。
 五日間アネモネを一人しなくてはならない時は、本心から彼女の事だけが酷く気掛かりだった。本人は外に出る気はなさそうだったが、いつ彼女の存在がよそに露見するかもしれないし、万が一グレイ団となんらかの関りがあるのならば俺が側にいない隙に接触する可能性だってある。ハンサムさんとそのグレイ団の調査の為に家を空けるのだが、それに何より、アネモネは一人の夜をこの上なく嫌うのだ。
 本人は自覚がまだない様子だが、俺が帰れなくて他で夜を明かした次の日、アネモネは俺にひっついてばかりいたし、必ずベッドに潜り込んでくる。言葉はないのに、寂しかったと、甘えられている気がしていた。
 だから面識もあり理解もあるマグノリア邸へ預けようとしたのに、アネモネは静かに泣き出してしまった。寂しいと、その時になってはっきりと自覚したようで、涙が止まらない彼女を抱き締めても、それは止むことがなかった。それはまるで置いて行かないでと、懇願されているようにも思えてしまって。

 君は、どうしてそんなに怖がってしまうのだろう。


 苦い物を抱える一方で、アネモネと過ごす時間が増えていった。以前は共に過ごすことに僅かなりと抵抗があったが、自分でも驚きだが最近はほとんどそれがない。彼女が俺に危害を加えないともうわかっていた。だから、日の高い昼下がりに、ソファの上で寝こけてしまったこともある。

 ふと意識が持ち上がり、霞む視界が晴れる前に、足元に違和感があることが先にわかった。滲むような視界が正常に戻ると、太腿の上にアネモネの頭が乗っていることに気が付く。肩が規則的に揺れていて、彼女も寝入っていたのだ。まるで赤ん坊が握った母親の指を離さないように、俺の服を握り込んだまま。
 胸の辺りに、羽でくすぐられるようなこそばゆさがあった。それに泣いてしまいたい、変てこな気持ち。こんな不安定な男の硬い太腿の上では決して寝心地も良くないだろうに、こんな無防備にも、アネモネは眠っている。ホップも昔こうして無垢な寝顔を見せていたことを思い出した。でもこれは、ホップにも、ポケモンにも、感じる気持ちとは、何か違う。
 カーテンから透ける光を受ける髪を梳いて、丸い後頭部を撫でてやる。身動ぎはしない。落ちている前髪を払ってやる。前に、スマホの画面を見て取り乱して気を失った後は苦しそうにずっと眉を寄せていたが、最近は眠る間それもない。愛らしい、生まれたての子供のような寝顔だった。
 離れがたくてそのまま頭を撫でていると、とうとうアネモネが目を覚ました。覚醒したてでボンヤリしていたが、すぐに俺の手に気が付いたようで、掠れた声で囁くように口を開いた。

「…何してるの」
「遊んでた」

 ふふって笑ったアネモネは、初めが嘘のようにとても穏やかで可愛い。
 俺の喉仏に触れていた時も、君はこんな気持ちだったのだろうか。


 アネモネの報告書には、その後目を通した。潔白を信じたかったからだ。そこに目を引くような記述がなければ、彼女はただの暴力の被害者で、偶然あの夜の日に俺が命を救っただけの人間になる。事実報告書には何もおかしな点はなかったのだが、ホッと胸を撫で下ろせる筈なのに、どうしてか手放しで安堵できなかった。何の変哲もない、怪しいところはない経歴なのに、どうして。彼女に、目立つ不審な点は見つけられなかったのに。

 だからかもしれない、アネモネを試してしまったのは。目立つように机の上に封筒を置いて、入らないよう言いつけた部屋の鍵を閉めないまま家を出た。盗聴アプリをこんなことに使いたくなかったが、お陰でアネモネの行動はよくわかった。スマホはリビングに放置していたようだが、微かな音でも拾ってしまうそれは大変優秀で。そして彼女は、あの部屋に入った。
 戻って部屋の入口までやって来ても、アネモネは背後の俺に気付きもしない。白い紙に黒々と印字された紙の束を握り込んで、固まっている。

 なぁ、どうして、君は。


  ◇◇


 実家に来てほしいと言われて、とうとうか、と気が引き締まる思いだった。アネモネの素性は文字と本人からの申告でわかっても、本当に真実かはわからない。ハンサムさんに更なる内偵を依頼して、こうして疑いを持つアネモネの家に潜り込めたことは、非常に都合が良かった。

 奇怪なことにアネモネは、とても家の中に疎かった。終始震えていて、実の父親たる人間相手に、全身に恐怖の色を滲ませていた。自分の部屋にも関わらず中のことを把握していないのか、ハサミ一つ探すのにも手間取った。仮に久しぶりに訪れたからだとか、使用人達がいつもと違う場所にしまってしまったとか、いくらでも言い訳はきくものだろうが、それにしてはどこに移動するにも初手の動きに躊躇があった。この部屋は恐らく、アネモネの部屋では、ない。下手をすればこの家自体、そうかもしれない。
 帰り際の応接室でのこともそうだ。血の繋がった父親に取るような態度ではない。最初は父親からの虐待も考慮したが、どうやらそうとも言い切れなさそうだった。

 家を出た後に歩きたいと言ったアネモネに合わせて進む。いつもは前を歩くが、この時ばかりはそうしなかった。彼女の瞳は海を前にしていた時のように虚ろで、そこには何の意志も感じられない。だから、隣で彼女の手を握って放せなかった。潜入と言えば聞こえは悪いが、そんなことをした後でも、勝手だが彼女の様子はずっと気掛かりだった。

 一番動揺したのは、キバナと出くわした時だ。所在なさげだったアネモネの瞳が、今日のことなど忘れたかのようにパッと光り輝いたのだ。今まで俺の前では欠片も見せなかった、あまりに綺麗な輝きで。
 それからアネモネは、まるで俺のことなど忘れてしまったかのようだった。小さな手は俺の中に変わらずあるのに、その掌の熱は、彼女にはきっと伝わっていない。今この瞬間キバナだけが彼女の世界には唯一のものなのだと、顔を見れば最悪なことに一目瞭然だった。

 どうして。君はキバナを知っているのか。何故そんな、世界で一番愛しい人を見るような瞳で、キバナを見ているんだ。
 君の隣にいるのは、君の小さな手を握っているのは、俺なのに。

 我に返った頃には、アネモネに乱暴するように体に触れた後だった。赤い痕と噛み痕だらけの体とすぐに仕出かしたことの大きさに血の気が引き、だけどもう起こしてしまったことはどうしようもなくて、ひたすら謝ることしかなかった。ただくったりとする心あらずな彼女の体を、抱き締めるしかない。
 悲嘆なことに、アネモネの口から吐き出された何度も交し合った“結婚”という言葉は、今までで最も空々しい響きを纏っていた。



 アネモネを傷つけてしまった。自分には体しか価値がないと思い込んでいる張りぼての心を、ずたずたに引き裂いた。ずっと罪悪感が尾を引いて、その後のアネモネの明け透けな言動を強く咎められなくなり、少しずつ泥濘にハマっていく日々。
 それでも、もう良かったのかもしれない。キバナに向けていた瞳を、俺の手で塞いでしまえるなら。

 けれど、現実は得てして残酷だった。ハンサムさんからの調査報告を受けて、アネモネへの嫌疑がほとんど確かなものになってしまったのだ。ハンサムさんにはストック氏のことは話せないままずるずると来てしまい、それは最後の抵抗だったのに、悲惨なことに虚しい足掻きとなってしまった。
 直後にソニアと博士の拉致を知り、一瞬で怒りが自分を支配して、アネモネへの糾弾が抑えきれなかった。思えばあの時とびきりの笑顔で出迎えてくれたが、理由もわからず終いである。

 アネモネは、責められることを極端に恐れる。そういった空気を察知するのに長けていて、最初に防御の姿勢を取る。体でなく、心のだ。怒られることに慣れ過ぎている。だから、あんな衝動的な責め方は、本来ならすべきではなかったのに。
 最後はしゃがんで丸まり顔を伏せてしまったから表情は確かめられなかったが、全てを知った今ならば想像に難くない。置いて行かれた子供のような泣き顔を、していたのだろう。
 名前を呼んでも何も返してくれなかったのは、それが君の名前ではなかったからなんだな。



「ダンデ、どうかお願いです…あの子に少しでも憎からない気持ちがあるのならば、どうかあの子の元へ行ってあげてください」

 初めは、疑いからだった。他人と暮らすことは何もかもが面倒で、億劫だったし、本音を言えば辟易した。
 だけど君が笑ってくれるようになって、少しずつ甘えてくれるようになって、喜びを覚えたのは、本当なんだ。

「…でも、もうとっくに逃げたんじゃ」

 退屈じゃないかと問えば、そんなことないって、何でもないように君は言った。あんな暗くて寒い部屋の中にずっといたなら、そう思えてしまうのだろう。君が俺を傷つけなかったように、俺も君を傷つけようとは思わなかったから。

 君の隣は、カーテン越しの陽だまりのような温度だった。
 冷たかった体に温かさをいつしか宿して、手ずから用意してくれる温かい料理は、とても美味しくて満たされた。
 褒められると決まって恥ずかしそうに目を逸らして、睫毛を半分だけ伏せて、指先を擦り合わせて、もごもごと唇を動かして、眉をキュッと寄せて。今考えれば褒められることにも慣れていなかったのかもしれない。

 それを、不器用で誰よりも子供らしい笑顔を浮かべた君を心の底で愛しく思っていたことは、これまで口が裂けても言ってはいけなかったんだ。

「アネモネがこの世界にいられる場所なんて、一つしかない」

 君が安心して息ができる場所を、俺はただの一つしか知らない。