- ナノ -




(10)業火に焼かれても君はまだそこにいてくれる


 壁が穴ぼこだらけになってしまったものの、楽観的だがまぁ崩落する程ではないだろう。
 上がった息を整えながら、額に浮かぶ玉の汗を拭いとる。全身砂だらけになってしまい口の中がじゃりじゃりするが、もう慣れたものだ。
 手持ちが全てひんしとなり抗う術を失くしたズオウが仰向けに天を仰いでいるのを、キバナは「…ははっ」と乾いた笑みでもって見据えた。

「…アンタの、完敗だな」
「……」
「うちで暴れた奴よか手応えがあって、潰し甲斐があったぜ」
「……っ、はっはは、ははは!あっはははは!」
「…おい、何笑ってやがる」
「余裕ぶちかましてっけどさぁ!お宅が今頃どうなってるかも知らないで呑気なジムリーダーだよねぇ!」
「何?」

 突然床をのたうち回りながら大声で笑い出したズオウに、キバナの眉がピクリと跳ねる。負けた余韻にしても口にしていることが聞き捨てならず、タガが外れたかのような男の姿を注視するしかない。

「今頃お宅のジム、ぶっ壊れてんじゃない?」
「は?おい、どういうことだ」
「どうもこうもさぁ、テメェが締め上げた幹部っての、ほんとは幹部でもなんでもないんだよ!正真正銘の幹部は今頃とっくに地下プラントまで辿り着いてんじゃないのぉ!?」
「なっ…!」

 顔だけ持ち上げ、キバナへ向けてげらげらと下品な笑い声を一頻りあげた後、満足したのか電池が切れた玩具のようにぱたりと動かなくなったズオウは、最後にこれ見よがしな盛大な溜息を吐いた。
 パタリと急に大人しくなってしまったズオウへ慌てて駆け寄り、襟首を掴み上げて問い質そうとするキバナだが、ズオウは瞼を伏せ、空気が抜けて萎んだ風船のようにだらりと力を抜いたままだった。

「おいっ!どういうことか説明しろよ!」
「あーもうウッセェな…疲れたんだから休ませろよ」
「ふっざけんな!…っくそ!」

 それ以上口を開かないズオウを見切り、スマホを取り出してジムへ連絡を取ろうとしたが、地下深くにいるのだ、電波が入るわけもない。散らすことができない焦燥ばかりがキバナを駆り立てていく。
 どうしたものか。当然ダンデとも連絡が取れないし、かといってダンデを置いたまま一人だけ地上へ戻るのか?

どうする。どう動くのが最善だ!

「いた!キバナ君!」

 頭を掻きむしりそうになったその時。
 背後から聞こえた呼び声と足音に、キバナがハッとして振り返る。天が味方したのか、今正にハンサムとその部下らしき人物が数人こちらへ走り寄ってくるところだった。

「ハンサムさん…!」
「君もダンデ君も!何故勝手に進んでしまうんだ!待っているように言ったのに!」
「ワリィ!それよりも、ナックルジムが!グレイ団が向かってるらしくて」
「落ち着いてくれ!大丈夫、そちらは大丈夫だから」
「は?どういうこと?」

 焦るキバナとは対照的に年上で人生の先輩らしく落ち着いた態度のハンサムに、焦燥感ばかり募る一方だったキバナは、ハンサムの言葉に冷や汗を垂らしながら疑問に首を傾げる。まるでグレイ団の動向を既に知っているような口ぶりだが、はたしてどういうことであろうか。

「万が一を想定し、私の仲間がそちらへあらかじめ向かってもらっていた。とっくに到着しているだろう。信用できる腕の持ち主だ。だから、大丈夫だ」

 静かなのに絶対的な信頼を寄せるような口調に、キバナはごくりと唾を呑み込む。
 キバナとハンサムは、つい数時間前に知り合ったばかりで、面識はその時が初めてだ。だから、お互い信用を築けるような要素はほとんどない。
 だけど、この真摯な瞳は信用を置いてもいいものだと、キバナには直感でわかった。

 何も言わなくなったキバナの肩に手を優しく置いてから、ハンサムは後ろに控える部下にズオウの捕獲を命じた。
 観念したのかズオウは一つも抵抗する様子もなく、あっさりと腕を縛られ拘束された。これでキバナの思い出の中の女の子を痛めつけた男は、自分の意志では立ち上がることすらできなくなったのだ。

「ダンデ君は?」
「…一人で進ませた。ボスに辿り着いてりゃいいけど」
「そちらはダンデ君に任せよう。わたし達は、先に人質の捜索を」


  ◇◇


 完全に油断していた。
 誇り高きナックルジムのトレーナーとしてはあるまじき怠慢で、お陰で隙を生んでしまい、再び襲ってきたグレイ団を名乗る集団に簡単にナックルジムは掌握されてしまった。
 総出で相手をしたが容易に手持ちのポケモン達をひんしや状態異常で動けなくされ、ジムの中に残っていた事務などジムトレーナー以外の銃後たる人間まで余すことなく縛られて転がされてしまい、全員の安全を約束する代わりにと、腕をきつく引っ張り上げられ地下プラントへ通すよう脅された。

 正直な話をすれば、諦めの二文字が頭を過ぎっていた。ジムリーダーたる絶対的な存在のキバナはここにはいない。総出で迎え撃っても多すぎる数に手も足も出なくなり、こうして失態を晒してしまった。
 申し訳ありませんキバナ様…!きつく目を閉じて地下プラントまでのパスを通そうとしたリョウタにとって、その後起こった展開は青天の霹靂と言えたかもしれない。

 目の前で手早くグレイ団を拘束し一か所に集めてしまった男の背中を、リョウタは唖然と見つめる。
 それは、草臥れた背中だった。丸まった背に灰色のジャケットとサンダル。やる気のなさそうな赤い瞳。しかし、その手腕には目を剥くものがあった。
 突如として現れ、瞬く間にあんなにも数多かったグレイ団のポケモンを倒して団員を締め上げたその男は、たっぷり時間をかけて小型の端末を何やらいじった後、拘束されたリョウタの同僚達の縛られた腕を解放している、見るからにイライラとしているもう一人の男へ顔をやった。その男もまた同じように突然現れ、あっという間にグレイ団員とポケモンを沈めてしまったのだった。

「ハンサムには連絡しといた。これで一件落着だな」
「面倒事に巻き込むなら先に言っとけや」
「だってそれ言ったらお前さん、絶対ついてこなかっただろ」
「無理矢理連れてきといてよく言うぜ!こんな遥々海まで超えてよ!」
「まぁまぁそんな力むなよ。ほら、あれ、おじさんが甘いもん買ってやっから。なんだっけ…あめざいく?」
「ふざけんな」
「嬢ちゃんにも土産買ってかないと文句言われっからなぁ…」

 特徴的な黒と白のツートンの髪色に、頭にはサングラス。こちらの男の腕もまた、一言で言えば苛烈だった。
 パートナーたるグソクムシャの猛烈ながら俊敏な攻撃と動き。グソクムシャはルリナのポケモンとして見たことがあるが、この男とグソクムシャの間を繋ぐ線は、それとはまた別のものに見えた。

「あの…」
「んあ?…ああ、ココのトレーナーか。あんちゃんは怪我ねぇな?」
「あ、はい!リョウタと申します!あの、助けていただいてありがとうございました!そちらの方も、本当に感謝しております!」
「あ?…別に、礼言われるようなモンじゃねぇよ」

 顔を顰めてそっぽを向かれてしまいリョウタの顔が強張るが、壮年の男の方がガシガシと男の白黒の髪を掻き乱して「ワルイな、照れ屋さんなのよ」とフォローしてくれるものの、男の歯が剥かれているのに気が付いていないのか、はたまた気が付いた上で気にならないのか…。
 とにもかくにも、この正体不明の二人のお陰で窮地は脱したのだ。改めてリョウタは頭を下げた。

「あの、お名前を教えていただきたいのですが…」
「名前?いいのいいの。そんな大した人間じゃないし、おじさん達も頼まれただけだし。それよりも、早く帰んないと。あー…土産は空港でいいか」
「え?帰る?」
「そう。無理言ってこっちまで来たからよ。早く帰んないとおっかない上司がへそ曲げちゃうかもしれねぇの」
「上司の方に?」

 リョウタの視界にきらりと煌いたものがあってそちらへ目を向ければ、その男の胸元に光るペンダントだった。下げられるトップの灰色の石は、奇妙な輝きを放っている。
 悪いがこの一見やる気を感じさせない男が装飾品に興味を持つようには見えなかったのだが、どうしてかリョウタの目はその石から逸らせなかった。

「そう。村のスーパーを容赦なくぶっ潰しちゃうような、おっかない上司にね」


  ◇◇


 戦況はダンデに傾いているように見えた。しかし、どうしてかストックは余裕の顔を崩さず、それが余計にダンデの心を掻き乱していた。
 無敗を貫くダンデは、例えダイマックスを用いないバトルであろうとその強さが陰ることはない。それなのにどうしてこんなにもじりじり肌を焼くような、それでいてずっと隠れて鋭い爪が向けられているかのような気味悪さを味わわねばならないのか。
 らしくもなく精彩を欠いているのは、恐らくストックの言葉に不本意ながら翻弄されていることも一因かもしれない。

「アレはもっと使えるかと思っていたんだ。そのために芸を仕込んだのに、結局君に心を傾けた」

 ストックの手持ちは残り一体。最初に出したストリンダ―を早々に戻して、最後に残ったのもまたローの姿のストリンダ―。ストックには命よりも大切な装置を守るバリアのお陰で遠慮することなくリザードンへ容赦ない攻撃を続けている。

「“キバナ君”に執心していたから予想外だったよ。随分と優しくしてくれたようだね?」
「リザードン、エアスラッシュ!」
「避けろストリンダ―。アレは自己肯定感が著しく低いタイプだ。自尊心もないに等しい。否定せず優しさを与え続ければそうなるだろうが、君がアレにそれ程心を砕いてくれるとは思っていなかった。どうやら君も打算の上だったようだが」

 つらつらと一向に口を閉じようとしない喧しい男だとダンデは正面から睨みつけるが、ストックは意に介した様子もなくどこ吹く風であった。

「この計画を進める上で君が一番邪魔だと思ったんだ。だから排除しようとしたのに、やはり知能の低い女は使い物にならない。私も浮かれていたとはいえ、とんだ誤算だ」
「異世界に飛んだとして、その後はどうする!またこちらに戻れる保証はあるのか!?」
「別に帰ってこれずともいいさ。どこであろうと、私は妻をもう一度迎えられればそれでいい」

 リザードンの羽ばたく音が空気をビリビリと振動させ、一気にストリンダ―へ肉薄する。ストリンダ―はかろうじて避けるが、擦れ違いざまにリザードンの尾に力強く打たれてしまい、床を派手な音を立てながら勢いよく滑らされた。それを目の当たりにしても、ストックは表情を変えない。

「どこにいるかも知れない人間を、あてどもなく探すというのか!」
「アレに居場所を教えてもらっているんだ。私には読めない文字でも、向こうにさえ行ければいくらでも探す手立てはある」
「アネモネはどうする!?共に行くつもりは!元は彼女の世界だ!」
「君には使い古したおもちゃを、思い出がつまっているからといつまでも大切にする趣味が?先程から意外の連続だよ。やっぱりアレはロクに情報収集ができていなかったようだ」

 いちいち癇に障る男だった。煽って神経を逆撫でし、わざとらしく小馬鹿にするようなことばかり口にする奸賊。
 スポンサーや顔合わせさせられた権力者の中にもこういった類の人間もいたのはいたが、それはダンデがこれまで深くは関わりたくないと思ってきたタイプの人間で、ここまで憤りを昂らせる人間もそうそういないだろう。ダンデを言葉で翻弄してペースを乱す魂胆かもしれないが、その言葉の中身が腹立たしいくらいにいただけなかった。

 攻防を続けているリザードンが空中に止まり、すぐさまストリンダ―が次の動作に素早く移れるよう身を低くし、一度動きを止めて双方睨み合う。
 お互いにダメージを与えあったが、さすがはリザードンと言うべきか、空中を味方につける分削られた体力は少ない。タイプ相性の分、攻撃を食らえば大きく削られてしまうのだが。

「ストリンダー、ばくおんぱ」
「旋回してかわせ!」

 指示通り爆音の渦を避けようとリザードンが大きく旋回するが、全てをかわしきることはできなかった。途中で巨大な音の渦に捕まり、その勢いで質量のある体を飛ばされてストックに近い壁へと激突する。勢いよく叩きつけられた衝撃により僅かに壁へ亀裂を入れ、衝撃により生まれた風が一瞬一面に吹き、地面が揺れ、そのせいでストックの体が大きくよろめいた。
 その隙をダンデは見送らなかった。雄々しくもすぐさま態勢を立て直したリザードンにだいもんじを命じ、トレーナーの指示が止まり次の一手を打てなかったストリンダーに直撃させた。

 ダンデの王者の証たる赤いマントが、吹いた風に翻る。

 目を閉じて床に倒れ伏したのはストリンダー。
 勝利を収めたのは咆哮をあげたリザードンで、ダンデだ。

「貴方の負けだ」
「ふむ。負けてしまったな」

 しかし淡々と敗北を認めるストックの顔に、悔しさは一欠片もない。まるで、それを見越していたかのようにさえ見えてしまい、ダンデの中身が見えない焦燥を再び掻き立てた。

「なに、君に勝てるとは最初から思っていなかったよ。ただ君達トレーナーの流儀に付き合っただけだ。君達トレーナーは、どんな局面であろうとポケモンバトルで解決しようとするきらいがある。まぁポケモンがこの世界の全てだからね、それが当然と思っているのだろうが」
「何が言いたいんだ」
「何のために君達をこんな地下深くへ招いたと思うんだ?こうして自慢の地下施設をお披露目するためではない。…ああ、そろそろ頃合いかな」

 懐からアンティークな懐中時計を取り出して文字盤を確認し、わざとらしくも敢えて穏やかに微笑むストックに、ダンデの心の内が理由もわかからぬのに少しずつ焦慮を加速させていく。
 バトルでは勝った。それはつまり、ストックの計画を阻止したことに直結するはず。バトルで負けた以上抗う術はない筈なのに。

 それなのに何故、こんなにも今、胸がざわめいてしまうのか。

「ムゲンダイナの目覚めに成功した頃合いかな」
「――!?どういうことだ!」
「本当に終わったと思っているのならば早計だと言っただろう?第二班がね、ナックルジムを制圧したはずだ」
「まさか…!」
「そうだ。最初にナックルジムを襲ったのは単なる斥候。フェイクだ。一度終息させたのだから、もうこれ以上はないと思っていただろう?残念ながら、主力は別さ。ねがいぼしを持たせた、ね」
「ただの時間稼ぎだったというのか…今のバトルは!?」
「ご名答。ジムリーダーをここまで連れてきてくれてありがとう。お陰で簡単な作業になった」

 一度襲撃を退ければ、大抵の人間はそこで事は終わったと思う。幹部を名乗る人物まで紛れていたのだ、とっくに警察へ引き渡しは済んでいるだろうし、あそこに残るのは僅かなジムトレーナーと、非戦闘員のみ。最主力たるキバナは、別フロアだがダンデと同じ敵地に今いるのだ。

「最初の倍は数を用意した。平和な世の中であることが想像力を邪魔したね。遥か昔のような大戦下であれば、もう少し賢い選択ができただろうに」

 くつくつと喉で笑うストックは、明らかに動揺するダンデに大いに満足していた。

 先の言葉のように、バトルで勝てるなどとは端から考えていなかった。無敗のチャンピオンに勝てる程の実力がないことなど重々承知で、とにかくこの場で足止めをさせれば、それが即ち勝ちに繋がる。バトルの勝敗とはまた別種の、勝利に。
 ポケモントレーナーはなんでもバトルありきで考える人種で、それがとても不愉快で愉快だった。
 音に聞いたロケット団やフレア団など多くの組織が、かつて年端もいかない子供にポケモンバトルで屈し、完遂の一歩手前というところで計画を頓挫させられたらしい。全くもって馬鹿な奴等だと、嘲笑が込み上げてくる。何故子供そのものをどうにかしようと考えが及ばないのか。
 些細なことから大事なことまで、バトルでしか片を付けられない哀れな存在。だからこそ、こんな世界戻って来られなくなってもかまわないのだ。

 だが、次の瞬間に余裕な顔でダンデをせせら笑うストックにうっすらと青筋を浮かび上がらせたのは、突如として乱入してきた第三者の声がゆえんだった。


「残念だが、そちらは既に解決済みだ」

 耳に飛び込んだ、ダンデがここ数ヶ月の間に聞き馴染んだ声音にハッとし、背後を振り返った。
 そこにいるのは、茶色いロングコートに真剣な瞳で、奥のストックを静かに見据える男。

「ハンサムさん!」
「遅くなって申し訳ないダンデ君!…いや、待て?わたしが遅れたと謝る場面ではない気が…?そもそも言いつけを破ったのはダンデ君だったな…?」
「今はいいだろそんなん!」
「キバナも!無事だったんだな!」
「あったりまえだろ」

 ハンサムを筆頭にダンデへピースを向けるキバナ、その後ろには数人のハンサムの部下達。ダンデの目が焦燥をようやく散らして安堵で輝いた。

「…解決済、とは?」
「あまり国際警察を舐めてもらっては困るぞ。念には念をと、ナックルジムには仲間に向かってもらった。襲ってきた第二班とやらを全てとっちめたと連絡も入っている。貴方の思惑通りにはならなかったようだな」
「……」

 懐からスマホに似た端末を取り出し、皆が警戒心を露わにして注視する中、気にする素振りもなくそれへ目を通した後、小さく舌打ちをしてからゴミのように床へ放った。
 あんなにも軽かった笑みが、どんどんそれを消して重くなっていく。喜怒哀楽を消した表情は、ダンデが見てきた中で最も、感情の見えない顔だった。

「地上にも部下を配置している。この地下にいる貴方の部下達も順次お縄につけている。ここは出口のない地下空間。逃げ場は、もうないぞ。ストック、グレイ団ボスよ」
「……本当に、使えない女だったな。もっとうまく働いてくれさえすれば、私は悲願を達成できたというのに。私の裁量が甘かったのか」

 ストックは天を仰ぎ、ゆっくりと腕を伸ばし、音もなく瞼を閉じた。
 まるで厳かにも、雲の遥か向こうの聖なるものへ、何かを伝えるかのように。



 ハンサムに取り押さえられ、出入り口へ足を進めるストックのジャケットから何かが落ちた。ひらひらと宙を漂い、それはダンデの足元まで滑ってくる。
 少し色褪せて細かな線がついたそれを拾い上げれば、ダンデと同年代らしき女性の顔写真だった。その人物にはどことなくアネモネを彷彿させる面影がうっすらとあり、裏には見覚えのない文字らしきものが羅列してあったが、一文字も読めない。ダンデにはこれが誰の写真なのか、すぐにわかった。

「ああ、拾ってくれてありがとう」

 立ち止まったストックを、ハンサムは咎めなかった。
 無言で手渡そうとすると、胸元のポケットに入れてくれと頼まれる。私は今手が塞がっているからね、とストックは手錠を掛けられた手首を僅かに持ち上げて振って見せた。

「最後に撮った妻だ。美しいだろう?」
「…後ろの、文字は」
「アレに書かせた、アレの世界の妻の居場所だよ。私には読めずとも、それさえあれば、向こうに行けばいくらでも探せたのになぁ」

 さも残念そうに笑ったまま、ストックがハンサムに促されて再び歩き出そうとした時。ダンデがその男の名を呼び止め、数秒置いてから、この場で真実を聞かされてからずっと知りたかったことを尋ねる為に口を開いた。きっとこれが、この男と言葉を交わす最後の機会になるだろう。

「アネモネの、本当の名は」

 いじらしい程ゆっくりと首を傾かせ、顔だけでダンデを振り返るストックは、器用に眉だけを片方のみ上げて、最後に穏やかにも笑った。

「さぁ、忘れてしまったよ」

 今度こそ連行されハンサムに引かれていくストックに、ダンデは拳をきつく握り締めた。キバナは、声も出さずにその肩に手を置いてやることしかできなかった。

「…あ、そうだ!ソニア達は」
「ハンサムさんと見つけた。もう地上で休んでる」
「そうか…!よかった…」
「俺達も、戻ろう。もうこれ以上ここでやれることはないよ」
「…もうちょっと、付き合ってくれ」
「は?どこに?」
「…ここの、隣の部屋に」


  ◇◇


 光の届かなかった地下空間から地上に戻ったダンデとキバナを出迎えたのは、薄い毛布を巻かれ温かなカップに口を付けていたソニアとマグノリア博士だった。

「わあああ!もう!めっちゃ怖かったんだよぉ!」
「無事で良かったぜソニア!博士もご無事で何よりです!」
「うっわ二人共砂とほこりまみれ!ぺっ!」
「ひどいぜ研究者のねえちゃん」

 ダンデの胸板をポカスカと殴っていたソニアは、二人の汚さにさっと体を引いた。ソニアも埃塗れだったが、それとこれとは話が別なのだろう。

「でも助けに来てくれてありがとううう!」
「見つけたのは俺じゃなかったけどな」
「それでも!」

 安心感に包まれる三人だったが、それまで座ったまま黙して様子を見ていたマグノリア博士がのそりと腰を上げてダンデに近付いたことで、和やかな空気が一変した。
 ダンデの前まで歩み寄った博士が、あまりに真剣な顔をしていたからだ。皺を刻んだ顔は真っ直ぐにダンデへ向けられ、ソニアは祖母のそんな姿に目を丸くした。

「ダンデ、アネモネは」
「……」
「おばあさま、アネモネは…その…聞いたでしょ?」
「もちろんわかっています。でもソニア、貴女もわかっているのでしょう?あの子が私達を傷つけるつもりが一切なかったことを」
「それは、そうだけど…」

 俯いて斜め下を向くソニアだが、アネモネに自分達を害するような意志がなかったことなど、理解している。数えられる日数しか話はしなかったが、アネモネの人となりはそれだけで多くわかった。
 あの子は、同い年なのに大人びているのか子供じみているのか良くも悪くもイマイチ曖昧だったあの子は、何かにずっと怯えて震えていたあの子は――こんな進んで人を騙して攻撃できる子じゃない。

 だけど、いくら本人の意志がどうであったとしても、事実は覆し得ない。自覚がなかろうとアネモネはグレイ団に加担し、多くの人間に傷を与えた。嘘を吐いて、騙して、こうして祖母と自分を巻き込むことにもなってしまった。アネモネ自身がグレイ団に利用されていたとしても、それが辛くとも現実だ。

 けれどマグノリアは、だとしても、と首を振り続ける。

「あの子は、弱い子です。成熟した見た目に騙されがちですが、その中身は小さな子供と大差ありません。自分を自分で大事にできず、そのせいで他者の影響を受けやすい。きっと心だけが大人になりそこねてしまった。そこにつけこまれたのです。あの子は、確かに私達に、貴方に嘘を吐いていました。ですが、あの日あの子は、笑っていましたよ」
「…博士、」
「あの子に貴方達がゆくゆくでも、面と向かう相手を愛おしむ日が来るよう願っていると伝えました。すぐに目を逸らして俯いてしまったけれど、私は確かに見ました。あの子は、笑っていたのです。恥ずかしそうに、照れくさそうに。嬉しそうに、微かでも、穏やかに笑っていました。あの子は、貴方を想って、笑っていましたよ」

 ダンデの唇が、わなないた。すぐに固く閉じて奥歯を噛んでしまったが、小刻みに唇が震えたままだった。ソニアもまたきゅっと唇を引き結び、たまらず泣きそうな顔になる。
 こらえるように唇を震わすダンデを、キバナは見ていられずに顔を背けた。

「ダンデ、どうかお願いです…あの子に少しでも憎からない気持ちがあるのならば、どうかあの子の元へ行ってあげてください」
「…でも、もうとっくに逃げたんじゃ」

 キバナの呟く声に、ダンデはまだ小刻みに震えている唇を叱咤して「…いや」と否定を紡いだ。


 ダンデにも、思い返せるアネモネの顔は、たくさんある。

 能面じみた感情を消した顔。泣きそうな顔で縋ってきた顔。
 料理を褒められて恥ずかしそうな顔。無邪気に甘えて擦り寄ってきた顔。男を惑わす蠱惑な顔。

 だけどその実、誰よりも小さな子供のように、無邪気そうに笑った。


「アネモネがこの世界にいられる場所なんて、一つしかない」