- ナノ -




(9)例え業火に焼かれても、欲しいものがあったの


 父親にも、母親にも、似ていない子供だった。

 父も母も特別美丈夫という訳ではなかったが、比較的整った顔立ちをしていて、二人の遺伝子をしっかり受け継いだ筈なのに、私の顔は、そのどちらにも似なかった。
 くしゃくしゃだった赤ん坊の頃はそうではなかったようだが、成長するにつれて、二人の眼差しはどんどん変わっていった。

 早くに亡くなった母方の祖母は「私の小さい頃にそっくり」なんて笑って頭を撫でてくれたが、両親は決してそうはならなかった。短慮にも父は母の浮気を疑い、潔白を訴えても父は聞く耳を持たなかった。
 どちらかに似た愛らしい子供を期待していたのに、蓋を開けて見ればどちらにも似ない顔でガッカリしたのだ。それも、決して可愛いとは言えない顔立ち。
 母はそんな私を、毛嫌いした。
 ヒステリックな女性ではなかった筈なのに、常にイライラして、私に当たり散らした。小さな子供にはおよそよろしくないきつい物言いの連続。その内手が飛んでくるようになって、初めは私の頬を打った手を見つめてそんな自身に驚いていたが、すぐにそれは日常的なものになった。恥ずかしいから外に出るなときつく言いつけられ、両親と何処かへ出かけた記憶はほとんどない。

 少しずつ父と母に会話がなくなっていった。父は、私を見るとよく嫌そうに顔を背けた。
 全部お前が悪い。全部お前がいけない。醜いお前が生まれてしまったから。母は毎日のように、かたきでも見るかのように私へ目を吊り上げて怒鳴った。
 お陰で内向的な性格ができあがり、かろうじて小学校など教育機関へは入れてくれたものの、当然のように友達などできやしなかった。幼稚園にも通わせてもらえずいきなり同じ年の子供の巣窟に放り込まれた私に、友達を作るようなスキルが持てていた訳もない。

 低学年の頃はまだマシだった。幼いが故にストレートな言葉に傷つくこともあったが、先生の「みんなで仲良くね」を素直にきける頭だったから、机で俯いていても手を引いてくれる子がいたのだ。
 学年が上がるにつれて、少しでも横一列からはみ出る人間は排除、という同調圧力が生まれるようになってからは酷く辛かった。いつも俯いておどおどし、暗い雰囲気の私がはみ出たのは言うまでもない。
 顔でからかわれ始めたのはその頃だったろう。ほとんど授業参観には来なかった両親だが、本当にごくたまには観に来た。パフォーマンスの一貫だ。その時だけはにこにこと笑い合ってクラスメイトの保護者と談笑する姿は、まるで家の中の様子とは大違いで、恐ろしかった。そして、ある子に言われたのだ。お父さんにもお母さんにも似てないね、と。

 子供というのは、些細なことを大袈裟に捉える生き物だ。だから、次の日から教室の中に私がいないものとして扱われるのは、必然だった。言葉は“似てない”から段々とブスに変わっていき、特に女の子達は遠巻きにするくせに顔へ難癖をつけるのだから、学校に行きたくないと思うのは当然だった。
 登校したくないと言えば母に怒鳴られ、休むことは許されなかった。お前にはこんなに金をかけているのだからと、きぃきぃ鳴いていた。担任は私の空気扱いに気付いてくれたようで相談に乗ってくれたりしたが、結局何をしても解決には至らなかった。

 ある日、隣の席の子よりもテストで高い点数を取ってしまうと、すぐさまそれがクラス中に行き渡り、教室の隅から確かにこんな声が聞こえた。

「カンニングしたんだよ」

 それから私のテストの点数はふるわなくなり、母にはいつも点数の低さを咎められた。こんなにみにくいのにばかなんてしんじられない。そう言って薄っぺらい紙はぐしゃぐしゃにされてポイッと床へ放られる。一層のこと、許されるなら私もそうされてしまいたかった。



 キバナ君と夢の中で会ったのは、十歳の時だった。
 真っ暗で、何もない空間に、私だけが浮いていた。
 夢だとわかる夢とわからない夢があるが、それはどちらともいえない奇妙な感覚だった。今日までのことが全て頭の記憶にある状態で、何もない真っ暗闇の空間にぽつねんと取り残されている私は、誰もいないのを良いことに涙を次第に零し始め、蹲って泣き喚いた。家の中では煩いと怒鳴られるためこんなに大きな声では泣けないから、今ここでしか泣けないと思ったのだ。

 わんわん泣いていると、気配もなかったのに突然男の子が目の前に現れて、ビックリして尻もちをついてしまった。
 その子は目を丸くして私を見下ろしていて、咄嗟に頭を覆った。鈍臭いと怒られてはたかれると思ったからだ。なのにその子は「大丈夫か?」と優しく話しかけてくれて、それどころか掌を見せてきたのだ。今度は私が目を丸くする番だった。掌の意味がわからなくてまじまじと見つめていると、やがて痺れを切らしたのか、掌は引っ込んでいった。その代わりというべきか、その子は私の隣に座り込んだのだ。当然仰天した。だって誰も私の近くには今まで寄ってこなかったから。

「おれキバナ。お前は?」
「…?」
「名前!」
「…えっと、×××」
「そっか!×××な!」

 キバナと名乗ったその子は、暗い闇の中でも私と同じように輪郭がはっきりとしていて、私とは違う肌の色をしていた。何より目を引いたのは、この果てのない墨のように真っ黒な空間に鮮やかに光り輝く、二つのターコイズの瞳だった。宝石みたい、と見惚れてしまい、キバナ君に掌を目の前でひらひらとされるまで、口を半開きの間抜け顔でいた。

「なぁ、ここどこだと思う?おれはゆめだと思うんだけど」
「…わたしも、そうだと思ってた。だって、ベッドにちゃんと入ったきおく、あるから」
「おれも」

 不思議な夢の中だからだろうか、キバナ君とは話が普通にできた。どもったり言葉をつっかえたりはしたが、同じクラスの子とは全く違う態度に警戒心が少なからず解けていたのかもしれない。
 何より、キバナ君が私を見て、最初からずっと嫌悪感を露わにしないことが大きかった。

 それからキバナ君が色々と一方的に話を始めた。多分、自尊心が強いタイプなのだろう。明るく陽気な性格のようで、私の聞いているのか聞いていないのかわからない、つまらない態度にも気分を損ねることもなかった。キバナ君の話のほとんどは意味がわからなかったが、笑顔で話し掛けられる、並んで座るこの時間は、なんだかこそばゆかった。

「…なぁ、さっきなんで泣いてたの?」

 無遠慮なところはまだ子供である証拠か。急に涙の理由を聞かれて、癖で俯く。うじうじ鬱陶しいと母に怒られても、顔を見せればまた鬼のような顔で睨むのだから、そうするしかなくて自然とそうすることが当たり前になっていた。
 どうしよう、話てもいいのかな。でもお母さんに怒鳴られたりたたかれたりなんて、言ってもいいことなのだろうか。母には絶対に家の中のことを他人に漏らすなと命令されているから、どうしよう。だけど、キバナ君なら、ちゃんと聞いてくれるだろうか。
 なんて、馬鹿な悩みだ。ここは所詮夢の中なのだから、何も気にすることはなかったのだった。

 それからキバナ君に、ずっと誰にも内緒にしてきた話をした。途中からしゃくり上げてみすぼらしい姿を晒してしまったが、一度言葉にしてみると洪水のように溢れて止まらなくなってしまい、家のことや学校のこと、全てを話してしまった。
 キバナ君は、黙って話を聞いてくれた。時折小さな相槌を打って、私が途中で続きを躊躇うと「で?」と先を促してくれる。今思えば、キバナ君はとても優しい男の子だったのだと、“優しい”ということを知った後に思い返した。
 長くてとても人様には聞かせてはならない話をキバナ君にすると、彼は怒りだした。私にではない、私以外のことにだ。父と母に対して。クラスの子に対して。キバナ君は、感情をむき出しにして怒った。怒って、くれたのだ。それにまたわんわんと泣いてしまい、急に慌てふためくキバナ君は、私の背中をとんとんと叩いてくれた。とても、弱い力加減だった。とても、優しい手だった。

「こんなカオ、もうやだ」

 ぐすぐすしていると、キバナ君の手が私の額に伸びた。俯いて目にかかっている前髪を上へ持ち上げたのだ。あ、とビックリする私の顔を覗き込んで、次の瞬間、キバナ君は歯を見せて笑った。

「なんだよ!ぜんぜんみにくくなんてないじゃん!」

 パチン、と何処からか音が聞こえた。何かが弾けるような音が次第に大きくなる。
 私にだけ、聴こえる音のようだった。

「人間てのはな、ダイジなのは見た目より心だ!生きざまとか、そういうやつの方がダイジなんだ!父さんもそう言ってた!」

 パチン、パチン。いつも耳にする母に頬をぶたれる乾いた音じゃない。もっと軽やかで、湿っぽい音。

「×××の顔、おれは好きだ!そのまんまでいいんだよ!」

 胸の中から私の耳にだけ届く、音。
 キバナ君の口から覗く歯から、ポロッと光が落ちた。今度は瞳から。頬から。肩から。キバナ君から、光の粒がどんどん生まれていく。にっかりと笑うキバナ君が、とても綺麗な光を宙に飛ばしている。それがあまりに綺麗で、キバナ君の笑顔が嬉しくて、私は涙を溜めながら笑った。



 目が覚めたら、自分のベッドの上だった。果てのない暗闇ではない、見慣れた自分の部屋。右を見て、左を見ても、どこにもキバナ君がいない。あのまばゆい光は、もうない。
 瞬きをすると瞼が重たくて、目元をこするとざらざらとした感触があった。目ヤニもついていて、どう考えても涙の跡だった。
 なんだか、奇妙な夢を見た。でも起きてもまだ、私を何もかもから隠してしまいこむような暗闇の中のことを、よく覚えている。

 キバナ君。キバナ君。
 キバナ君の声も手の感触も温もりも、全部鮮明に残っている。無邪気な笑顔も、目に焼き付いて離れない光の粒も。私だけに届いた、パチンって音も。

 ベッドから抜けるその先にはいつも地獄が口を開けているが、なんだかとても体が軽かった。


  ◇◇


 高学年になると、私の体に変化が起きた。多分誰よりも早く生理が始まり、クラスの仲で一番体の凹凸が顕著だった。
 ブラジャーが欲しいとおどおどしながらも勇気を出して母に頼むと、そんな顔で色気づいてと吐き捨てられてしまい、クラスの子に指差されても我慢するしかなかった。そうやって卒業まで、ずっとずっと何もかもを我慢し続けた。我慢ができたのだ。だっていつでも、キバナ君のことが頭にあったから。夢の中の話だってかまわなかった。初めて私のことを認めてくれたあの子のことを、私は何より大切にした。

 中学時代は、あまり思い出したくない。小学校の時から進歩しない扱いのくせに男の子からの視線が気持ち悪かった。その頃から、父がほとんど家に帰ってこなくなり、母のヒステリックが加速したようだった。でも大丈夫。キバナ君がそのままでいいよって言ってくれたんだから。


 高校も酷かったけど、忘れられない人に出会った時間でもあった。

 一つ。母に良い顔をされなくても無理に始めたアルバイト先の先輩の優しい言葉に騙されて、彼の家で体を暴かれた。顔にタオルを被せられ、取り去ろうとすれば抵抗できないようにされて取ることを許されなかった。体だけが欲しかったらしい。初めてのあの痛みは、忘れたくても忘れられない。みんな、私の体だけが好きなようだった。

 一つ。高校二年生の時担任になった先生が、私にとびきり優しくしてくれた。二十代半ばのその女の先生はどうやら素で天然のようで、「あらあら」なんてことを本当に言う人だった。おっとりしていて、ワンテンポ遅れて反応するような人。造詣の整った綺麗な顔に上品な物腰の、京都出身の人。薬指には指輪を光らせて、いつも私の事を気にしていた。
 最初はつっけんどんな態度を取っていたが、戸惑うくらい先生が私をかまったし、あまりに優しい言葉をくれたし、誰よりも優しい笑みを向けてくれた。
 その内色々と相談に乗ってもらうようになって、初めて現実の世界で家の事を他人に話した。先生はぷんすか一頻り怒って、やがて少しずつ落ち着いていき、私を労わるように抱き締めて背中をポンポン叩いて、頭を撫でてくれた。馬鹿みたいに泣いたのは言うまでもない。母と話をしようかと言ってくれたが、首を振って断った。優しい人を、あの母と争わせたくなかった。

 それから、先生の側に居る時だけ呼吸が楽になった。先生の教科待機室でたくさん話をして、お菓子をこっそりもらったり。多分、心のどこかで、理想のお母さん像を被せていたのかもしれない。人生の中で最も、安らげた期間だった。

 だけど、まどろみの時間は終わるのも早かった。先生が懐妊し、大事をとって早めの産休に入ることになったのだ。
 先生は最後まで私のことを心配してくれて、直接連絡を取れる番号を教えてくれた。いつでも連絡してね、先生貴女の事だけが心残りなの。そう言って、先生は学校を去り、次の日には新しい担任がやって来た。髪の毛に白が目立つ、昔かたぎな老齢の男性教諭だ。当然私はその先生とは相いれず、でも出産を控える先生に気軽に連絡はできないと、一度もしなかった。

 クラスの中で私は、まぁ、いない人間だった。カーストは最下位。いつも一人。だけど体だけ立派で、げらげらと下品に笑われながらからかわれ続けた。
 先生がいてくれた間はそこだけが安息の場所だったけど、先生がいなくなってしまった狭い空間は地獄に逆戻りで、結局どこもかしこも地獄でしかなかった。女子には容姿をけなされ、男子には体だけを持て囃され、家では母の癇癪をぶつけられ、少しずつ頭がボンヤリすることが増えていった。
 何もやる気が出ない。毎日耳鳴りだけ酷くて、体が酷く重かった。高校生になってから母がお金を私にほとんど使わなくなったからアルバイトを続けていたにしても、体の疲弊が凄まじかった。


 ある日テレビで人気のアイドルが整形していたというゴシップ誌が世間をにぎわせ、そこでようやく顔を捨てる手を思いついた。プチ整形だったが世間はそのアイドルに掌を返してしまい、ゴシップ誌が出る前までは人気絶頂だったのに。可愛い可愛いとそのアイドルの顔をみんなが評価していたのに。

 キバナ君のことは、頭に残っていた。だけど、あれは夢の中のことだったのだ。
 小さな頃はファンタジーなことを信じていたこともあったが、幼い私が見た夢だ、きっとキバナ君なんて現実にいない、イマジナリーフレンドのようなものなのだろうと本当はとっくに気付いていた。それでも妙にリアリティを持っていたそれを忘れることはできなかったが、先生もいなくなってしまった今、毎日毎日この顔と体のせいで苦しくてたまらなかった。

 思いっ切り顔を変えれば、どうなるだろう。顔を変えて、私のことなど誰も知らない場所へ行けば、私は変えた顔で生きていける。想像してみたら、ちょっぴり心が軽くなった。これしかないとすぐに整形のことばかりが頭を占め、志望校を県外の偏差値も学費も高くない所へ変え、受験日ギリギリまでアルバイトは続けた。普通にアルバイトをするだけでは到底足らなかったが、体だけ立派で処女でもないのだ、お金を稼げる手段なんてそこら中に転がっていた。

 そしてようやく考えていたプランの金額が溜まり、もうあとはカウンセリングを受けるだけという時。さすがに伝えなくてはと母に整形したいと話した。ずっと母は私の顔を疎んでいたのだから、顔が変われば少しは母も変わってくれるのではないかと、甘い期待があったのだ。
 だけど、飛んできたのは母の掌で、渾身のそれに立っていられず倒れた勢いのまま床に転がってしまった。
 呆然とする私に、母は、鬼のような顔で吐き捨てた。

「せっかく私が産んでやったのに整形したいなんて、なんて親不孝なの!」

 は?


  ◇◇


 同意書は自分で勝手に埋めて、整形を終えて顔の腫れや痛みがおさまる頃。自分の作り物の顔に、いたく感動した。
 パッチリとした二重瞼。ぷるんとした厚みのいい塩梅の唇。筋の通った高い鼻。顔周りもすっきりとして、鏡の中には別人がいた。少しだけ、先生を意識した。そっくりそのままとはいかなかったが、私にとって世界で一番綺麗な人が、先生だったのだ。

 これが私。今日からこれが私。

 ああ、アア、ああ!



 家を出て県外の大学へ近いアパートに住みだしてからは、解放感に満ち満ちていた。だけど長年染みついていたマイナス思考が邪魔をし、大学でせっかく声を掛けてくれた女の子達と仲良くなることができなかった。顔に自信がついても性格はそうそうに変えられない。
 そのせいか派手な男にばかり声を掛けられるようになり、ますます同性は遠のいていった。容姿を褒められて優しくされることに愉悦と安堵を覚えて男達とばかり一緒にいたから、余計に拍車をかけただろう。それでも私は、私に優しくしてくれる人間に甘かった。もちろん対価を前提とした関係、だが。

 大学に入っても同性からの目は変わらなかったが、少なくとも私に優しくしてくれる人がいる。それだけで、安心した。時々頭の中のキバナ君が笑い掛けてくれるが、目を瞑って水面を散らすように掻き消した。ごめんなさい、ごめんなさい。でも許して、みんながキバナ君みたいな人じゃないの。

 先生へは、引っ越したことだけメッセージで連絡した。すぐに電話がかかってきて、連絡をくれて嬉しいとか、元気な女の子を産んだとか、私は住所変わってないからいつでも遊びにきてねとか、優しい言葉をくれた。整形のことは、話さなかった。だから、私の家へ様子を見に行きたいと言ってくれても、絶対に頷けなかった。

 就職しても何も変わらなかった。男は私を舌なめずりしながら求め、女は私を毛嫌いして厄介者扱いする。
 だけど、知っていた。女は整った私の顔に少なからず嫉妬していたことも。きっと目敏い人間には整形が見抜かれていたかもしれないが、噂として流されても結局男は私を求め続けた。

 ほんと、全部、顔。


  ◇◇


 それは、本当に予想だにしていないことだった。
 私の社用PCのシステムトラブルを解決してくれた先輩に誘われて相手をしてから、家に帰ろうと道を歩いていた夜。泊っていきなよと熱っぽく囁かれたが、翌日だって仕事があるのだし、お礼は十分にしたのだからとキスで黙らせた帰り道。

 突然、黒い光に飲み込まれた。

 自分でも一体何を言っているのかわからないが、文字通りだ。目の前で、ポッカリと穴が空いたような黒色。だけど、光であった。黒いのに、光の渦。驚いて立ち止まった瞬間にそれは私を呑み込んだ。



 目が覚めるとふかふかのベッドに寝かされていて、真っ白い淡い光が部屋の中を支配していた。カーテンから入る陽の光が白い壁紙に反射してそう見えているらしい。
 ゆっくりと体を起こすと、特に痛みもなく、ただ頭が重いくらいだった。
 ボンヤリしていると部屋の扉が開き、クラシカルなメイド服に身を包んだ年若い女性が私の顔を見て驚いた後、すぐに部屋を出て行った。まだ頭がボンヤリしてそのまま虚空を見つめていると、また扉が開かれる。顔を見せたのは先程の女性と、壮年の男だった。

 そこからもまた、あまり思い返したくないことだ。
 ワイルドエリアなる場所で行き倒れていたところを男に助けられたらしいのだが、男の話の半分も理解できなかった。ワイルドエリアってどこだろう。ナックルシティってどこだろう。男も女性も顔立ちが日本人とは思えなくて、一体ここはどこなのかと疑問ばかり募った。私は夜中に家までの帰り道を歩いていた筈なのに。
 そして、ここでチェストの上に写真が飾られていたことに気が付き、驚いてしまった。だってそこには、先生が映っていたのだから。

「先生…?」

 思わず呟いてしまうと、ストックと名乗った男の目の色が明らかに変わったのがわかった。

「妻を知っているのか?」
「妻?え、貴方が先生の旦那さん…?でも昔先生に見せもらった家族写真と違う気が…」

 男に請われ、先生のことを話してしまった。高校の時の担任だったこと。産休に入って以来一度も会っていないこと。女の子に恵まれていること。男の薄い笑みの裏に、欠片も気が付かないまま。

「彼女は私の妻で、ジョウトの出身だ」
「ジョウト?京都じゃなくて?」

 そして、ようやく諸々と話の食い違いに気が付いた男がイエッサンと呼びかけ、扉の向こうから顔を出したそれを見て、それまで靄がかっていたような頭が一瞬で冴えた。

 黒い体毛に白が混じり、角が生えた、二足歩行の生き物。

 くりくりとした瞳をして優しい笑みを浮かべているが、私が知る動物とは、違う生き物。

「ヒイッ…!」

 ベッドの中で後ずさり、それが一歩ずつ私へ近づいてくる度にまた下がる。これ以上下がれなくなると、今度は体がコンクリートで固められたように動かなくなった。

「本当にポケモンを…知らないのか?」
「っし…知らっない…!なんなの…!なんなのなんなのなんなの!!」

 男が「ふむ」と呟いた後、ベルトの辺りから小さなボールを取り出し、それのボタンを押した瞬間光と共に姿を現したその生き物に、息がほとんどできなくなり、いつの間にか過呼吸になっていた。

「ストリンダーだ」

 視界が滲んでもう前を見られなかった。



 それからは、忘れていた地獄を再び味わった。
 温かくて柔らかなベッドと広い部屋から一転。地下深くの狭くて光が全く届かない暗い部屋に理由もわからないまま閉じ込められ、ずっと膝を抱えていた。
 食事は与えられたが喉を通る訳もなかった。陽が昇るのも落ちるのもわからない部屋の中で何日も過ごし、転じない状況に恐怖に支配されて段々と思考が鈍り、体の力が日に日に抜けていった。気紛れに渡された小説は、一文字も読めなくてテーブルに放置したままだ。

 私は、一体、どうしてしまったのだろうか。ただ一日一日を悪戯に消費していただけだったのに。悪い夢でも見ているのだろうか。こんな、リアルな夢を。

「アンタがボスが拾ってきたって女?」

 ズオウがやって来たのは一日のカウントが全くできなくなってどれくらい経った頃だろうか。
 一番初めに抱いた印象は、温厚そうな男だった。柔和な笑顔に柔らかい物腰。だから、油断した。
 気付いた頃には馬乗りになられていて、簡単に暴かれた。何度も、何度も。抵抗すると殴られ、暴言を吐かれ、延々と涙が溢れた。
 一番恐ろしかったのは、顔に手を出されることだった。だから、恥ずかしげもなく懇願したものだ。顔だけは、どうかやめてくださいと。作った顔がどう崩れるものか想像もつかなかった。そんな私にニタリと、ズオウは飽きることなく笑った。

 ズオウを皮切りに男達が部屋を訪れるようになった。大抵はズオウと一緒だったが、ズオウと一緒なのが一番最悪だった。何がなんて言いたくもない。顔を引き合いに出されれば指一本歯向かうことなどできやしなかった。
 あの陰鬱な部屋の様子を他の人間も聞き及んでいたようで、食事を運ぶ女に暴言を吐かれた回数も数知れない。
 
 この売女。
 ズオウ様はお前で遊んでるだけだから。
 ちょっと優しくされたくらいで図に乗るな。

 ほんと、良い耳をお持ちなようで。


 あの男に遊ばれる日も最低だった。わざわざ拾われた時に寝かされていた部屋に移動させられて、されるがまま、言われるがままだった。
 なんとなく、訪れる人間達の様子から、あの男が一番偉いのだとわかっていた。
 そして、何やら大掛かりな計画をしているらしいとも。
 だから、誰にも逆らえなかった。自分が今どこにいるのかもわからず、何のために閉じ込められているかもわからず、少しでも抵抗すれば暴力が振るわれる。
 食事だって粗末なものばかりで、時々わざとらしく目の前でひっくり返されることもあった。食事に何かが混入されることもあったし、このままいつ殺されても可笑しくはないと思うのは、自然なことじゃないだろうか。




 とある日。ズオウにいつも通り言いたくもない遊ばれ方をした後。ふと視界に違和感を感じて目を動かせば、なんと、入口の扉の隙間が、僅かに開いていて光を部屋の中に差し入れていた。痛みとだるさが酷い体だったが、瞬時に起き上がれた。バクバクと、心臓が喧しくなる。

 あいてる。ドア、あいてる。

 外側からしか鍵がかけられないこの部屋は、出ていく人間がきっちりと鍵を閉めなければならない。私が手をだせないあの扉が、開いている。ズオウが閉め忘れたのだ。

 バクバク、バクバク。心臓が静まることはない。期待と、一抹の不安が胸に広がっていく。
 確認するだけ、と言い訳のようなことを思いながらゆっくりと扉に近付く。隙間に人影はないし、気配もない。少しずつ、少しずつと慎重にそれを押していくと、この部屋よりも明らかに灯りの量が違う廊下があった。顔を恐る恐る覗かせて、右を、左を見る。誰も、いない。
 馬鹿みたいに高揚した。今しかないとすぐに思った。汚い体のままだったが、息を殺しながらその部屋を出る。出られて、しまった。

 一直線にエレベーターに乗り込み、一番上のボタンを押す。鈍い音を立ててリフトが上昇し、歓喜にぶるりと足先から頭の天辺まで震えた。ハッ、ハッと息が乱れ、嗚咽が漏れる。まだ誰かに見つかるかもしれないリスクが逃げられるかもしれないという期待よりも勝っているにも関わらず、全身を余すことなく駆け巡っていたのは喜びだった。

 やがてリフトが一番上の階に辿り着いて扉の先を見せて、その先にいた物に驚いて「ヒッ!」と悲鳴を上げて腰を抜かしてしまった。
 黒と白の体毛に角の生えた生き物。あの日あの男が呼びつけたポケモンと呼ばれる生き物。首輪を巻かれ、それは茶色のあいくるしい瞳で私を見つめていた。
 心臓が早鐘を打つ。他に誰も姿もなかったが、得体の知れない生き物にここで見つかってしまった。でも、尻もちをついたまま微動だにしない私へ、それは寄っては来なかった。数秒の間見つめ合ったが、一向にである。
 汗が止まらなかったが、床這いになってちょっとずつ距離を詰めても、それは動かない。相変わらずにこにこと私を見ているだけである。そのまま横をすり抜けても、それは変わらない。立ち上がり完全に追い越すと、なんとついてきた。ギョッとして立ち止まると、それは立ち止まる。歩き出せばそれは歩き出す。どうやら、後ろからついてくるつもりらしい。怖さは消えなかったが、かといって近付くこともできないし、一定の距離を置いているそれに危害を加えられることがないならばと、無視して進むことにした。

 ゆっくりと警戒しながら進んだが、誰の姿もそこにはなかった。ほとんどの人間が昼間は地下を空けて別の場所にいることが多いらしいと奴等の口振りから知っていたから、今はそういう時間帯なのかもしれない。少し迷いながらも歩いて行けば、階段を見つけた。上へと続く、階段である。

 一段ずつしっかり踏みしめて、上がっていく。上がるにつれて暗くなっていくが、ここまでくれば恐怖よりも解放感の方が強かった。突き当りに当たってしまったが、左の壁にスイッチがあり、それを押すと開く筈である。もうここまで来たのだからと意を決してそれを押すと、ゴゴゴと音を立てて突き当りだと思っていた壁が動き出したのだ。動くにつれて、その向こうの光を暗い階段に広げてくれる。


 外だ、外!やっと外に、ここから抜けられる!


 いつもあの男のために出される時、その向こうは応接室らしい内装の部屋だった。そこには庭へ続く大きな窓があったし、部屋に出れさえすれば外へ出るのは容易だろう。逃げた後のことは何も考えていなかったが、とにかくここから抜け出せればそれでいい。
 興奮が最高潮に達し、明るい光の向こうの全貌が見えるという時。

 外への一歩を踏み出そうとした時。

「はぁいゴール。お疲れ様ぁ」
「……え」

 光の向こうから現れたのは、ズオウだった。

 凍り付く私をさも愉快そうに笑い、悪魔のようなその男は、私の肩を人差し指でとんと押した。軽い力だったのに、私の体は簡単に後ろへ倒れ込んでしまい、数段分転がった。段差の部分で倒れ込んだまま、起き上がることができない。私の後ろにはずっと黙ってついてきていたポケモンがいたが、それはそんな私を無害そうな瞳で見下ろしたままでいる。体を動かす力なんて、もうなかった。
 無様に倒れ伏す私に、ズオウが近付いてくる。一段ずつゆっくりと、もどかしいスピード。そのまま指が、壁のスイッチに触れる。

「お散歩、楽しかったでしょぉ?」

 無情な音を立てて、ズオウの後ろの壁が、しまっていく。薄暗い空間が、再びできあがった。

「よしよしイエッサン、きちんと見張ってたねぇ」
「え…?」
「この子のコレ、カメラだから」

 ズオウが指でつつくのは、イエッサンと呼ばれた生き物の首輪の飾りで、指の動きに合わせてゆらゆらと揺れている。

「まぁコレがなくても、俺はあそこで待ってたけどね」

 ――ただ、遊ばれただけだった。
 わざと希望をチラつかせて、ビクビクしながらも光に向かって進む私を遠くから眺めて、腹の底から嘲っていただけだった。

「この子、ボスの言いつけでずっとこのフロアに置かれてるからさぁ。また逃げ出そうとしても、無駄だからね」

 転がったままの私をズオウが担いで、歩き出す。イエッサンはちょこちょことその後ろをついてくる。子供のような愛らしい瞳で、私を見ている。それは、それ以上、何もしない。

 もうしんでしまいたい。




 あの男がやって来る時は直ぐにわかる。体を綺麗にしろとあらかじめ言われるからだ。
 しかしその日いつものようにベッドに力なく横たわっていると、あの男が唐突にやって来たのだ。そして身を小さくする私に、事も無げに言った。自分の為に働けと、そんな漠然としたことを。

 そこからもまた、地獄だった。
 拒否の言葉を吐くことも許されず来る日も来る日も――時間の流れなんてとっくにわからなくなっていたが――とにかく勉強させられた。記号にしか見えない文字の読み書き。この世界の一般常識。ポケモンの基本知識。
 あの男は私が別の世界から来たとふざけたことを言っていたが、最初こそ信じられないと思える理性が残っていたものの、満足な栄養も取れず恐怖とストレスに苛まれ続けたことと、こうして私の知識とはかけ離れたものを見せつけられれば、信じるしかなかった。

 そしてここでようやく、私の息が吹き返した出来事があった。教材として見せられたポケモンバトルという映像に、記憶に残る面影を残す顔があったからだ。

 褐色の肌にターコイズの瞳。オレンジのバンダナに黒い髪。すらっとした均衡のとれた体。鋭い犬歯を覗かせる笑い方。屈託ない笑顔から生まれた、まばゆい光の粒。

「…キバナ、くん?」

 私が彼の名を呟いた瞬間、男の私を見る目が、再び変わった。




「計画を少し変更しよう。ダンデに取り入って情報を全て私に送れ」
「……」
「設定も台本もこちらで用意した。全部完璧に覚えるんだ」

 渡された紙を見ると、とんでもないことばかり書き連ねてあり、脳が震えた。
 ダンデという男と、結婚しろと書かれている。ダンデとは、誰だろう。だけど余計な口を開けば手が飛んでくるから、震えたまま紙を見つめていることしかできなかった。

「ダンデさえいなくなれば、君の大好きな“キバナ君”がチャンピオンになれる」
「…?」
「キバナはダンデからチャンピオンの座を奪おうと、諦めることなく挑み続けている男だ。うん、彼は凄いね。他の誰もがダンデに挑むことを諦める中、彼だけは違う。獰猛に、その牙を向け続けている。そんな“キバナ君”の力になれるんだよ、君は」
「わたし、が、きばなくん、の」
「そうだ。ダンデさえいなくなれば、“キバナ君”がこのガラルで一番だ。彼はよその地方であればチャンピオンになれるだろうと称賛される程の実力者だ。彼は、特別なんだよ。ダンデさえいなくなれば、名実共に彼がナンバーワンだ。それが、彼の望みでもある」

 じわりじわりと、角砂糖に紅茶が染み込むように、私の頭に男の言葉が染み渡っていく。地獄の中で唯一笑い掛けてくれたキバナ君の顔が、淡くも眩しい光が、鮮明に蘇ってくる。


 私が、キバナ君の願いを、叶える。


「君の美しく無償の愛が、見返りも求めない崇高な愛が、叶えられるんだよ。他の男と結婚してまで、例え愛が報われずとも、これから為す君の働きによって、君の愛の全てが、彼の為になる」

 私の愛が、キバナ君の為に、なる。
 他の男の持ち物になれば、それがキバナ君の為になる。
 私が、キバナ君を、チャンピオンにする。
 耳の奥から、パチンという、久しい音が聴こえた。

 それからは、勉強にも力が入った。子供向けの教材ばかりでも、ズオウに殴られて凌辱されても、あの男に遊ばれても、全部我慢した。我慢できた。だっていつでも、キバナ君のことが頭にあったから。キバナ君が見せてくれたかけがえのない光が、胸の中にあったから。

 何度もシミュレーションさせられ、いよいよ薄暗くて寒い部屋から出される日。恋人からDVを受けている設定だからと最後にズオウが馬乗りになって数度殴り、踏みつけられ、痣を作られた。そんなことされなくてもとっくに気持ち悪いくらいの痣が残っているというのに。
 今後はここが私の家だからと、一通り家の中を見せられた。一回きりのそれに頭が悪い私はよく覚えられなかったが、もう一度確認したいとはおよそ言えなかった。

 鞄を渡され、あの男に髪を撫でられる。まるで、父が娘に慈しみを与えるかのように。

「この家を出たら、もう君は君ではなくなる」

 私の名前はこの地方では馴染みがないからと、新しい名前を与えられた。私にはまったく耳馴染みがない名前である。

「“アネモネ”、私の娘。“うまく”やるんだよ。なぁに君ならできるさ。そのためにこれまで準備をしてきたのだから。私は君に、期待しているよ」

 玄関を恐る恐る抜けて、庭を横目に、門扉を出る。外の光景は、ありとあらゆるものが見たこともないものばかりだった。それに覚えさせられるまで全くわからなかった文字。今ではすっかりと、読めるようになってしまった。
 このまま列車に乗ってバウタウンへ向かい、その時を待たねばならない。立てられている案内板とスマホの地図アプリを頼りに、震える足を叱咤しながら歩いた。

 あんなに焦がれていた外で久しぶりに吸う空気は、なんだかとても冷たくて肺に痛い程刺さった。



 そうして私は、アネモネになったのだ。


  ◇◇


 明らかに顔色を変えたダンデに、ストックは満足そうに微笑んだ。
 アネモネを使えないと判断したのは、ひとえにこのチャンピオンのせいであったのだ。この男が思っていた以上に、アネモネに情を抱いたようだったから。
 怪しまれることなど想定の範囲内で、そのために布石をいくつも打った。それでもこの男は、どうやらストックが考えていたよりもヒトであったらしい。

「…そ、れが、本当だとして。異世界にいる妻と似た女性が、貴方の妻その人であるわけでもないだろ」

 動揺しながらも話の続きを促せるとは、流石の精神力だと称賛に価することだ。ストックは内心ほくそ笑みながらも、汗の止まらない様子のダンデに目を細める。

「そうだな。私の妻は死んだ。異世界にいるその人は、私の知る妻ではない。だからどうした?私の中には、妻との思い出が数えきれない程にある。ならば、それを懇切丁寧に教えてやればいいだけだ。その人をもう一度私の妻として構成し直せばいい。現に、私は“アネモネ”という人間を上書きして作り上げたんだ」
「本人の意志すら捻じ曲げて、そんなことを!」
「アレの話をきいて確信した。異世界のいるその人は、私の妻と同じ存在だ。よく言うだろう?パラレルワールドの数だけ同じ人間がいると。それだよ。それならば、私の妻としてもう一度迎えられる。私が、そうする」
「それを、彼女に教えたのか?それだけではない、この計画のことも、全部」
「…君は枕元のぬいぐるみに今日の出来事を語り掛けるタイプなのかな?」

 ダンデの体がぶるりと大きく震えた。噴き出しそうでなんとか抑え込んだ、怒りの影響だ。

 アネモネは、そんなことの為に担任の話をしたわけではないだろう。もし自分のせいでこんなことになったと知れば、きっと自責の念に駆られて泣き喚くかもしれない。想像するだけでダンデの胸が痛んだ。ありありと、顔を覆って小さな子供みたいに泣きじゃくる姿が思い描けた。

 この頭のネジが外れた男のせいだ。何もかも全て、この強かな男のせいで。

「…あなたの、お前のせいでアネモネは!数えきれない傷を心身ともに付けられて!堪えがたい屈辱を味わわされた!彼女は何も関係がない、この世界の人間でもない、ただの迷子だったのに!」
「そうだな。アレは迷子だった。私が先に見つけた、ね。まったく縁とは不思議なものだな。私ではなく君や“キバナ君”が先にアレを見つけていれば、こんなことにはならなかったろうに」

 爆発しそうな感情を抑え込むのは、進化をして理性を持った人間でも難しい。
 全くもって解せぬことに本当にストックの言った通りだと、ダンデも思った。
 どうして先に見つけてやれなかったのだろう。何故、先にその手を握ってその華奢な体を抱き締めてやれなかったのだろう。どうして。そうすれば、こんな悲しいことにはならなかったのに。

「…全部、食い止める。貴方を止める。貴方の思惑は、俺が潰す」
「私に構ってばかりでいいのかな?」
「…なんだと?」
「聞いているだろう?あのジムリーダーに。ナックルジムを襲った私の部下達を捕らえて安心しているようだが、本当に終わったと思っているのならば早計だよ」

 癖なのだろう、とうとうと話す口振りはダンデの神経を逆撫でしてばかりいた。
 今も、蒸し返されたのは終わった筈の出来事なのに、足裏を延々と撫でられるような不愉快がつきまとっている。有体に言えば、嫌な予感とも言い表せるのだろう。

「あそこにはエネルギーの塊がある。ムゲンダイナ、というね。マクロコスモスに部下を潜り込ませたお陰で知り得て歓喜に沸いたよ。ムゲンダイナからとれるエネルギーは、地道にも集めたこの大量の∞エナジーの何倍に相当するだろうか」
「…っ」
「おっと、勝手な動きはよしてくれたまえ」

 瞬時にカプセルへ体を向かわせようとしたダンデを見咎め、ストックはジャケットの下から素早くボールを取り出して宙に放る。眩い光と共にストリンダ―がその場に姿を現し、ダンデへ真っ直ぐ突き進んでいった。すぐさまリザードンをボールから放ちダンデも応戦する。ストリンダ―はどくづきでリザードンに迫るが、鍛えられてきたリザードンはそれを軽々と避けていった。

「リザードン、カプセルに体当たりして壊すんだ!」

 散々馬鹿にしていたくせに自分だって、とダンデは即座に標的を変えて指示を飛ばす。こんな地下空間の一室でバトルに持ち込むなどとは、一体何を考えているのだろうか。何より、目論見の要たる機械や装置を壊してしまえば、計画の遂行は不可能になるのに。
 しかし、リザードンが速度を上げて体当たりしようとしたその瞬間。リザードンはカプセルに当たるかという直前にバン!と何かに弾かれて、反動で床にズザアアと音を立てて速度をつけたまま床に落ちて滑り、細かな埃が視認出来る程に形を成して宙に舞う。

「リザードン!?」

 リザードンが弾かれたそこをよく見てみると一面透明な壁のようなものがあり、光に反射して不気味な色味を出している。今の今までそんなもの張られていなかった筈だが、まさかこの一瞬の間に張り巡らせたというのか。

「君達がスタジアムでバトルする際、客席とフィールドの間に張るバリアだよ。何も策を弄さずしてこんな場所でバトルをしようなどと、愚かにもするわけがないだろう」

 よくよく目を凝らせばストックの後ろの巨大装置の間とストックの間にも同じものが張られており、見せつけるようにリモコンを振ってみせるストックに、ダンデは歯噛みする。いくら血が昇ってばかりいたとはいえ、少し冷静さに欠いていたかもしれない。

「ムゲンダイナのエネルギーと集めた∞エナジーを使い、私は異世界へ渡り妻を取り戻す!さぁバトルしようかチャンピオン!ガラル粒子が十分ではないここではお得意のダイマックスは使えない!せいぜい時間だけ浪費していくがいい!」