恋のはじまり
ガラスのテーブルには高価そうな珈琲カップが二つ。
注がれた珈琲はいかにも苦そうなブラック。
大きくとられた窓からは強い西日が差し込み、テーブルを境に向き合うようにして座す三村和人と原恵を濃い橙の光が容赦なく照らしていた。
「原」
ひんやりとした声に、恵は思わず縋るように和人を見つめて、直ぐ様俯いた。
涼しげな瞳が、微かに笑いを湛えて見返していたのだ。
普段ならば憧れの対象であるあの部隊長・和人と二人きりという類稀なるこの状況に心踊らせるところである。
が、しかし。
その二人きりになるまでの経緯が、恵にとってとにかく不味い。不味すぎた。
「言ったよな。標的は人質の安全を確保した後捕獲するか、殺れって」
「……、はい」
「なのに、なんでまた人質病院送りにしてんだ?」
「そ…、それは…その…」
やばい、涙がでそう。
今回部隊長直々の呼び出しの理由。
それは任務の際不運にも生じてしまった人質の負傷についてだった。
しかも、負傷の原因が原因なだけに始末が悪い。
あまりの悪さに、大人にもなって今にも涙が溢れだしそうな気持ちを、恵はぐっと噛み締めた。
しかし、そんな恵を気遣う事無く和人はテーブルに置いた資料の束を二、三度指で叩き、
「お前が」
止めを刺した。
人質の怪我は恵が任務を急ぎ、標的を攻撃した際うっかり人質に武器を掠めてしまったことが原因なのだ。
それも、今回が初めてと言うわけではない。
軽傷であれ過去に数回の前科があり、
その度に浹から和人へ。
和人から恵に注意を促されていた。
「…っす、すみませんすみません!!二度ならず三度までも「いや、七度目」このような失態ばかり…!これではお目を掛けて下さった浹部長に会わせる顔がありません…!もう死んでお詫びするしか!!」
勢い良く立ち上がり盛大に頭を下げたのち、恵はくるりと回って開けた窓へ駆け出した。
「ぎゃふ…っ!」
しかしいざ窓枠へ手を伸ばし掛けようとした瞬間。まるで床へ吸い付けられるように倒れこみ、あっさり失敗。
和人が自身の能力を発動し、恵に過度の重力をかけたのだ。
おかげで恵は立ち上がることは疎か全身が重くてうまく動くことすらできない。
「てめぇ、何勝手に人生強制終了しようとしてんだ」
「おぶっ」
ゆっくりとした動作で立ち上がり、和人が容赦なく恵の頭を踏み付ける。
なまじ顔が綺麗なだけに、真顔で見下す様はやけに恐ろしく威圧感が半端ない。
といっても、前のめりに倒れ頭を踏まれている恵には特に何の効果もないのだが。
「別に死にたいなら死んでも構わねぇ。けどな、今お前が死んだら替わりに俺が遺族へ謝罪しに行かなきゃならなくなんだよ。どうせ死ぬなら最後まで処理を終えてからにしろ」
※人質は死んでいません。
平然と浴びせられた辛辣な言葉に、堪らず恵から涙が零れ床を濡らす。
はた目からすると虐待や、いじめの類いに見えなくもないこの状況。
たまたま部屋の前を通り掛かった同僚たちが目を逸らし、そそくさと去って行くのは当然の摂理だった。
「まあ、まだやる気があんなら明日の任務。特別に現場指導をつけてやる。ねぇんならとっとと辞表出して二度とその面見せんな」
「は、はい…!」
倒れたままの恵をそのままに、能力の発現を止め和人は依然冷めた口調で続けて扉へ向かう。
その言葉に、まだ見限られてはいないのだ。と、希望を見いだして涙を拭った恵に明るく覇気が戻った。
「随分と甘くでたね」
部屋を出た和人は小さくため息を落とした。
扉のすぐ横に綾瀬がにこにこと口元に笑みを浮かべ立っていたのだ。
「標的の処理だけみれば今のところ失敗はなし。人質についてはまだ改善の余地が十分にある。大体、ただでさえ人手不足なんだ。使わない手はねぇだろ」
「まあね。射撃はともかく体術は久保ちゃんにも勝るし。で、明日の現場指導。私は何をしてればいいの?」
刑務官は常に二人一組で行動しなければならない。
綾瀬の質問はごく自然なものだ。
「…、…」
「…和人?」
予想外にも黙り込んだ和人を綾瀬は不思議そうに見つめる。
「悪い。お前のことすっかり忘れてた」
「馬鹿ぁあっ!!」
翌日の早朝。
過去に恵と健が担当した任務の資料及び報告書を読み漁り、和人は不可解な点を見付け疑問符を浮かべた。
「あのぱっつん。何で一度も現場で能力使ってねぇんだ?」
「聞いてみれば?」
問題消化は迅速に。
「行ってこい、久保」
「イエッサ」
下された恵連行の指令に、健は即座に更衣室とへ向かった。
そんなわけで。
出勤早々、健に拉致られた恵に早速疑問点をぶつけてみるも。
「え、だって、無闇に使ってオーバーロードでもしたら危ないじゃないですか」
ごく当たり前とばかりに言って返された。
「お前、クビ」
「えぇっ!?ななななんでですか!?」
「能力者が能力使わねぇでどうすんだよ。しかもお前、霧使いだろ。濃霧発現して標的の不意を突くなんて朝飯前じゃねぇか」
「それに、オーバーロードなんてちょっと能力使ったくらいじゃならないよ」
刑務官部隊最強兼能力者としても優れた逸材である和人と綾瀬の言葉に、恵はそうなんですか。と目を丸める。
能力について特に勉強をしていなかった恵の怠慢がバレた瞬間だった。
同時に、和人が恵を本格的に見捨てたくなった瞬間でもあった。
「…大体、何のために久保がいると思ってんだ」
「情報提供」
ごもっとも。
確かにその通りだ。
間違ってはいない。
しかし真顔ですんなり答えられると何か腹が立つ。
「あだっ!な、何で叩くんですか!?」
「悪い、何となく」
叩かれた個所を撫でる恵に和人が謝る。棒読みなところから真意ではない事は明白だ。
「あははははは。久保ちゃんはね、浹部長が備えた保険みたいなもんなんだよ」
「保険?」
「うん。久保ちゃんの能力は水に対して有効的な属性だし威力もあるから、もし原ちゃんがオーバーロードしてもちゃんと止められるってわけ」
これで血が平気ならねーと和人と恵のやり取りを見ていた綾瀬は視点を変えて健を眺めた。
健の能力者としての有能さは理解しているのか、どうやら恵は納得したらしい。
果てしなく今更な事柄なだけに、綾瀬の説明に頷く恵を見て和人は溜息を吐いた。
そして直ぐ様、先程から出入口近く。和人と綾瀬の後ろで黙々とパソコンと格闘している健を呼ぶ。
「綾瀬、お前今日一日原と任務について能力を実戦に活かせるように指導してやれ。同じ属性な分、俺がするより要領がいいだろ」
「はいはーい。よろしくね、原ちゃん」
「は、はいっよろしくお願いします!」
にこにこ人懐っこく笑いかける綾瀬に、恵も笑顔で応え頭を下げる。
「あれ、それじゃあ…」
「お前は俺と任務。不満なら後でぴりあと替われ」
「いえっ!不満なんてとんでもない…!よろしくお願いします!」
咄嗟に返した言葉に、和人は軽く笑んで応え広げた資料を揃え始めた。
「やっと終わったー」
資料の片付けが終わり、綾瀬が大きく伸びをする。
「そろそろ各課の人達も出勤してくる時間っすね」
「浹は出勤済みだろうし、任務でも仰ぎに行くか」
かたんと和人が立ち上がり、その場にいた他の三人も動きを見せる。
「あ、和人隊長!その、一つお願いしたいことがあるんですが、」
「何だよ」
振り返った和人をしばし見つめ、意を決し放たれた恵の願いは和人、綾瀬そして健を驚愕させた。
「今年度、全ての任務を完遂することができたら私とお付き合いして下さい!!」
THE 絶句。
和人に至ってはクールな美貌はそのままに、目を見開いて静止している。
「じじ実は昨日、和人隊長に踏みつけられてからその、踏みつけられた時の衝撃やあの靴の冷たい感触、香水の香りに低い声色とかがずっと頭から離れなくて、」
固まったままの三人を知ってか知らずかはたまた見えてすらいないのか、恵は赤らめた両頬にそっと両手を添る。
そして、うつむきながら恥ずかしそうに続けた。
「気付いたら息子が大きくなって、目覚めました」
何に。
別に分かりたくもないが、とりあえず三人は揃ってツッコんだ。
あくまでも心の中でだけ。
「だから、その…、わ、私をいけないこぶたちゃんと蔑んで下さいっ!!」
正に人体の奇跡。
CGでも使っているのかと目を疑うほどに、恵から盛大に鼻血が噴き出す。
それはもう本部にて鼻血の代名詞となりつつある須藤真由とタイマンを張れる位の飛沫をあげて。
そして噴き出した鼻血は依然として硬直状態にある三人と恵の間に真っ赤な大河を作り上げた。
それなりにモテるというのは自負しているし、告白の経験はないもののされたことなら何度もある。
しかし、面と向かってこれほど凄惨かつ強烈な告白をされたことなど産まれてこのかた、一度もない。
しかも男。さらに変態に。
停止しかけた思考を何とか巡らせ、和人はとりあえず気になった事柄を聞いてみた。
「昨日泣いてたのは、何でだ?」
「情けなさと申し訳なさが二割によがり泣きが八割です」
多いな。
心の中でツッコミをかましながらどう対処すべきか考えた末、
和人は恵を無言で殴り飛ばす強行にでた。
そして、倒れ行く恵を確認すると掃除しとけよ。と、置き台詞を吐いてその場をあとにする。
そんな、動揺はすれど冷静な和人の対応に綾瀬と健は感心を示して恵に合掌。
恵をあっさり放置し和人を追った。
かくして、恵の薔薇の蕾、もとい恋心は見事な大輪の華を咲かせこの日を境に、恵の和人への熱烈なアタックに当時からそりが合わず不仲であった真由との
仁義なき戦いが始まったのであった。
2007.2.5