お父さん片想い

いつも見る悪夢が今日はやけに鮮明だった。
だらり。と、重力に従って垂れ下がった腕に入る力はない。
貫かれた胸からは湧き出るように真赤な液体が溢れ、流れ落ちていく。
無力な体を支える両手も酷く鮮やかなそれに染まっていた。
温度を失った体に再び温もりを与えようともそれを成す術等なく、もう動く事は無い。


同じようなものを何度見ようと、それに怖いだとか恐怖心を感じたことなんて一度だってなかった。

ただ一つの事例を除いて。

その唯一の事例となり得た筈の光景を繰り返す悪夢。
それが今日は不思議と怖くはなかった。




【暗き跫音】




「PTSD?」

「ケキャッそうみたい〜」

全てが白に統一された病院の一室。
様々な医療器具の置かれた場所で会話を交わしているのは綾瀬とおんさんである。

「何、佳奈と会ったこと憶えてないの?」

「ていうかぁ〜ん。小杉とか言う手配犯?追いかけてぇ、倉庫に降りたとこから先がねぇん。思い出せないみたいなの〜」

PTSD−posttraumatic stress disordersの略であり、心的外傷後ストレス障害のことである。
天災、交通事故や犯罪被害体験、身体的虐待、近親者の死を目の当たりにする事等の著しく強いショックを受ける出来事により心が深い傷を追い、その状態が不安定になった人に対し診断される。その症状は過食や睡眠障害が起こる等様々で、トラウマに関する悪い夢を見る、記憶の途切れや欠落等がある。

「ふむ。現場には復帰できる?」

「ケヒヒどうだろぉん。かずりん次第〜」

綾瀬の問いに首を左へ傾けると、おんさんは床を蹴り回転式の椅子の部分をくるくる回して自身も回った。

「昨日の今日だもんね。じゃあ私は本部に行ってるから、任務に就けるなら来てって伝えといて」

「はあいまっかせて〜。おんさんちゃんと伝えるぅ〜」

「あは、よろしくねー。BYE-BYE」

後ろ手を振りスライド式のドアを閉めた綾瀬をおんさんはぶんぶんと手を振って見送った。
椅子は勢いは衰えたものの、依然としてくるくる回っている。

「いいのか?仮にも医者が、嘘なんざついて」

「いや〜んおんさんはぁ患者さんの味方なのぉキャッおめめくるくるぅ〜」

カーテンに仕切られた奥から声がかけられた丁度に、漸く椅子が止まった。が、おんさんは見事に目を回している。しかし気分は上々。ご機嫌である。

「よく言う。モノで釣られたくせに」

笑いを含みながら言い切ると、声の主はカーテンを開けた。対するおんさんは、

「だってぇ診断書は出さなくていいって言うしぃサーカス行きた〜い。ケキャンッかずりんてばセ〜クスィ〜」

声の主−和人を目にするとペチッと両手で目を覆う。人差し指と中指の間にとったすき間からチラチラ見ると言うお約束は勿論果たしている。
和人はというと、第四から第六ボタンまでした白のYシャツに濃い灰色のジーンズ姿。
和人に入れ込んでいる某情報課員や現在北海道に回されているぱっつん刑務官が見たらよもや大惨事は免れないだろう。
しかしそこはおんさん。
金にも興味がなければ色にも興味がない。楽しそうであるがまだまともな対応振りである。

「偽証の証拠は上がらないってか。まあ、どうでもいいけどな」

「そうそう流して流して〜。あ、そうだぁこれからどうするの〜?」

「どっちの意味で?」

「どっちもぉ」

「仕事には戻る。佳奈は…後で考えるさ。とりあえず、免疫つけろって話だな」

「ケヒッそだねぇん」

机の上に置かれた銀の腕時計を右手首に締め、和人はジャケットを着るとおんさんに二枚のチケットを渡した。

「キャァ〜ンありがとぉん。かずりん大好きぃっまたね〜ん」

そのまま、じゃあな。と診察室を後にした和人を綾瀬と同様におんさんが見送る。
手を降り終えると、おんさんは直ぐ様受け取ったチケットを白衣の内ポケットへしまい、

「明日はサーカスぅう〜キャッキャキャたぁのしぃみ〜ん」

ポケベルを掲げて再びくるくる椅子を回転させた。





一方、おんさんと診察室で別れた綾瀬は、

「どうだった?」

「あは、首に軽微の裂傷。後は佳奈に会った時の記憶が抜けてる以外は特に異常はないってさ」

医大の入り口で飛鳥と出会し、目線を上げてその顔を見た。

「そうか…。それで、お前はどうする?」

「和人のことだからね。別段問題なければ普通に来るだろうし、本部行って報告したら和人来るまで遊んでる。だっからさー暇なら本部まで送って送ってー」

「ああ、勿論いいとも」

「わーいっ飛鳥ちゃんありがとー」

抱きかかってきた綾瀬を受け止めると、飛鳥は優しくその頭を撫でた。
わざわざ飛鳥が医大まで出向いたのは和人の容態が気になっての事だ。それさえ確認できれば何の用もなくなる。況してや十五年間手塩にかけて育てた可愛い娘の願いを無下にする気などさらさらない。

「今日はァ。お邪魔どすか?」

「いや、構わない」

「あは、おにゃんこさんこんにちは」

出る機会を窺っていたのか、廃屋とは違い落ち着いた色合いの着物を着た猫が物陰から顔を出した。

「頼んどいたの見つかった?」

「ヘェ…せやけどあんなん調べてどないしはるん?」

頬に手を当て、首を傾げた猫に綾瀬はにこりと笑みを作る。

「取り返すんだよ。必要なモノみーんなね。あ、ジュース買ってくから先行くー」

「第一駐車場だぞ。迷わないようにな」

「はいはーい」

明るく返事を返すと、綾瀬はひらひらと後ろ手を振って駐車場へ向かった。


「あの兄妹はんらには、えろぅこだわはるんやなぁ」

離れていく綾瀬の背を眺めて呟かれた猫の言葉に、飛鳥はおかしそうに笑んだ。
それに気付いた猫はゆったりとした動作で振り向き、不思議そうに飛鳥と顔を合わせた。

「それだけの価値があるのさ。かずと佳奈には、な」

「長年一緒におりはるから?」

「…、いいや。仮に別の人間が同じ、若しくはそれ以上の月日を共に過ごしたとしてもあーやにとっては赤の他人。執着するに値するどころか、然して興味も沸かないだろうな。逆に、あの二人なら例え一日だろうと関係ない。存在そのものが特別なのさ」

「然して興味も…ほな、お父はんもやなあ。あん二人やあらしまへんもん」

「……、…いうな」

「ヘェ」

明らかに凹んだと看られる飛鳥の声に、猫は飛鳥の子煩悩が末期であることを悟った。

2007.10.10




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