偶然は突然に…
どーんと激しい音とともに痛みが走り、目の前に星がチカチカと飛んだような気がした。
突然のことで、何が起ったのかわからなかった。
数秒前の記憶を辿る。私は急いでいて、バッグを振り回し思いっきり走っていたのだった。
近道をしようとビルの角を右折して路地を抜けていく予定だった。
そうしたら、かなりショートカット!
スピードを落とさないまま、路地へ回り込んだ。
そこからさき、スローモーションのような記憶がよみがえった。
路地を曲がったところで、目の前に黒い物体が現れた。
あ…っと思った瞬間、避けることもできず黒い物体の胸元に私は顔面から衝突する。
「うわぁーーー」私のバッグと中身が宙を舞い、私も吹っ飛んだ・・・
宙を舞っているその時間は数十秒間のようにも思えた。
そして、次の瞬間バッグが宙から降ってきて、バッグの中身が散乱した。
痛いやら、恥ずかしいやら。早くこの場を立ち去りたい!!
「ごめんなさい…」
そういいながらも恥ずかしく顔が上げられなかった。
「おまん、まっこと大丈夫か?怪我はないか?」
優しく声をかけられ、恐る恐る見上げるとそこには人懐こい笑顔をした男の人が私の顔を覗き込んでいた。
黒いシャツに黒いパンツを履いた背が高い男の人。
「……あ、はい…」
赤面した顔を隠すように急いで荷物をかき集める。
お財布に、携帯に、お化粧ポーチに…、慌てて飛散った荷物を掻き集める。
手を伸ばしたところに、黒いシャツの彼の手が重なり、慌てて手を引っ込める。
「お、すまんの…。」
重なった手を引っ込めながら黒いシャツの彼がちょっとあやまる。
「…」
「…おまん、怪我しちゅうんじゃないがか? 手ぇ擦りむいてないがか?」
「いえ、これくらい大丈夫です!」
一刻も早くココを立ち去りたかった。
とにかく早く帰りたい。
「おまん、尻のとこ…」
黒いシャツに包まれた腕が私のお尻に手が伸びる。
痴漢?実は確信犯!?手の次は、お尻を触る気?
「大丈夫っていったら大丈夫です!?」
私はバッグを掻っ攫うようにその場を走りさった。
◇◇◇◇◇
「今日は、結構遅かったね。会社忙しかった?」
厨房のシェフから声を掛けられる。
実は、昼間は食品を取り扱う商社で働いている、所謂OL。
ワインだとかリキュールだとかそういった担当になったお陰で、少し詳しくなりちょっと自分でも勉強したくなって。
夜はこっそりここで勉強と称して、バイトをさせてもらっている。もちろん会社には内緒。
仕事が終り次第、ばたばたとBARへやってくる毎日。
シェフやオーナーの手伝いをしながら、いろいろなカクテルの造り方なんかを実習させてもらっているというわけ。
「おや、どうしたの?お尻のとこ…鏡見てごらん」
シェフから指摘され、スタッフルームでスーツを着替えながら唖然とする。
紺色のスーツのスカートに擦ったような白い汚れがついていた。
あ、ほんとに汚れてたんだ。あの人に悪いことをしちゃた。脳裏に人懐こい笑顔が浮かんだ。
◇◇◇◇◇
「ワシ、なんかわりぃことをしたろうか?怒らすことしたろうか?」
親切をして礼を言われることはあっても、怒らすことしてないがじゃ!
うんうん。と自分なりに納得をする。
あの大きな瞳で恥ずかしそうに見上げた顔、まっこと愛しかった。
もう一度どうにかしてあん子に会えないもんだろか?
連絡先も聞いちょらん、それどころか名前も聞いちょらん・・・
あー、何たる失態。
ふと地面を見ると、キラキラと光るものが落ちていた。
あん子が落としていったもんじゃろうが…
これは、香水をシュシュってするもの?
思わず、シュっと一押ししてみた。
甘酸っぱいさわやかな香りがした。
これはカシス?
カシスの香りとともにあん子の笑顔が見えるような気がした。
なんとかこれをあん子に渡せんもんかのぉ。
そしたらあの愛らしいあん子に会えるに。
◇◇◇
土曜の午後、私の大好きな時間。
会社はお休みで、昼過ぎからバーに入り浸る。
シェフの仕込みの手伝いをしたり、オーナーから直接教えてもらったりして開店前の時間をすごす。営業中とはまったく違ったのんびりした空気が流れる。
嵐の前の静けさというにはちょっと大げさだけど、とっても忙しくなる土曜の夜が始まる少し前のわずかなゆとりの時間。
カランとにドアにつけられたベルの音と共に赤い扉が開けられる。
この時間帯にやってくるのは、お酒とか食材とかの配達の人か、お花屋さん。
案の定、やってきたのはお酒のデリバリーの人だ。
「お前が自ら配達に来るほど、お前のとこは人手不足か?それともお前の人使いが荒くてみんな辞めたのか?」
入口付近でオーナーの声が響く。
「まったく、人聞きが悪いことを言うのぉ、高杉さんは…。配達は後から若いもんがもってくる。
たまにワシだってお得意様のところには顔出さんといかんじゃろ。
顔出さんかったら、出さんかったで業者を替えるとかおんし言いかねんからのぉ」
冗談ともほんとともつかないことを二人で笑いながら話している。
そんな二人を横目で見ながら、私はカウンターの中で開店の準備を着々とすすめる。
突然、入口から大きな声が近寄ってくる。
「おまん!あん時の!!!」
「……」
だ、誰!?どんどん入口から近づいてくる。
「おまん、なんちゃーなかったか?」
あ、この酷い訛と人懐こい笑顔。悪夢のような恥ずかしかった一瞬が蘇る。
「坂本!こいつと知り合いか?俺の女に手を出す気か?」
「え?」「は?」二人同時に感嘆の声をあげる。
「何を驚いている!俺の店で働いている女、つまり俺の女だろ。なんか文句あるか?」
「あ、そういことかい、高杉さん!」
そういうことも、どういうこともなく…。なんということをいうんだろ、オーナーって。
オーナーのわけのわからない無茶振りのお陰で恥ずかしかった、痛かった思い出がみんなにも知られる。
再び恥ずかしくて赤面しているのがわかった。
「おまん、この前これを落とさなかったなが?」
そういうと、ポケットからピンク色のアトマイザーを取り出す。
ほんのりカシスの香がするお気に入りのオードトワレを入れていた。
大きな掌に小さなアトマイザーが不似合いでちょっと微笑ましくなって、くすっと笑ってしまった。
「おまん、笑ったほうがかわいいのぉ」
そんなことを言われてさらに顔が赤くなる。
正面衝突したお詫びや、アトマイザーを拾ってくれたお礼をなにか…
そう考えているとオーナーが練習を兼ねてカクテルでも造ってやれよっと素敵な提案をしてくれた。
今日も、黒いシャツに黒いパンツをはいている彼。
私が作れるレパートリーの中で…
シェイカーも使わない簡単なものだけど、今日の彼にぴったりのものを思いついた。
「お待たせしました。」
カウンターで待つ彼の前にすっとグラスを出す。
「こりゃあーカクテルながか?ビールじゃーないがか?」
そういわれるのも無理はない。見た目にはジョッキに注がれたギネスビールにしか見えない。
「ギネス社の公認カクテルなんですよ」
ほんのりとカシスの香がするギネス・カシス。
日常にちょっとした非日常が顔をだすような雰囲気のカクテル。
日常の中で、偶然起った?ぶつかった?私たちみたい。
なんだかちょっと変化がありそうな予感がした。
◇◇◇◇◇
こんなことが起るじゃろか? 願えば叶うんじゃろか?
偶然が偶然が呼び・・・
会いたいとおもってた子がワシの目の前でカクテルを作ってくれている。
目の前でカクテルを作ってくれるこん子の真剣な顔に見惚れる。
恥ずかしげな顔もかわいいが、真剣な顔もかわいい。
にっこり笑った顔はさらにまっことかわいい。
ほろ苦いギネスビールに、さわやかなカシス。
ワシとこん子のが一緒におるみたいじゃ。
作ってもらったカクテルを飲み干しながらそんなことを思う。
この笑顔を守りたいと思う。
まだ外が明るいうちに飲むアルコールはいつもにまして美味い。
ほどよくアルコールが胃にしみる。
ハッピーアワーとはよく言ったものだ。
「坂本!俺の女に手をだすなよー。
あくまで今日は練習の味見だぞ!まだ営業時間前だからな。」
背後から、高杉さんの声が飛ぶ。
せっかくいい気分で酔えそうなところを邪魔をする。
ま、こんなにかわいい子じゃ高杉さんも気になるじゃろうが・・・
こん店にきたら、かわいい笑顔にいつでも会える。
それがわかっただけでも今日は満足・・・
あのかわいい笑顔に仕事の疲れも癒される。
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