月に帰らないでね | ナノ






「そう、いい感じ!そのまま!」


次の日も、その次も、私は土手へ通い続けた。通うといってもフラッと立ち寄る程度の気楽さだったけど、来るたび必ず自転車の彼はいて、期待通り姿を見つけると嬉しくなった。初めは邪険にされていたけど少しずつ、こういう態度がデフォルトなんだなとわかってからは気にならなくなって、なんの取り柄もない私が人助けをしてるみたいでやり甲斐もあった。自転車の練習は日々ちょっとずつ進んでいた。「どうして自転車に乗りたいの?」私が今日ここへ来て12回目の落車を見た時、聞いてみた。「…移動手段として楽だからだ」「けど、今まで乗って来なかったんでしょ?へんなの」彼は一体、どんなところで暮らしていたんだろう。こんな時間に、制服も着ないで河原にいるし、今だってどんな生活をしているのかは謎だらけだ。「…そーだ、一回感覚を試してみない?」私は彼の手から自転車を借りて跨った。

「後ろ、乗ってみて」
「まさか、俺を乗せて走るつもりじゃないだろうな」
「そうだよ」
「出来るわけがない。体格差を考えろ」


だめだ無理だときっぱり言うイケメンをいいからいいからと引っ張って、私はペダルに足をかけた。「てきとうに捕まってね」と言って漕いだら、スイと自転車は進んだ。後ろに座った彼は一瞬バランスを取ろうと揺れて、その後は私の肩に手を置く事にしたようだ。大きな手のひらが両肩に乗せられた感覚は、不慣れで少しドキドキした。「…このままちょっと走ろっか」返事はなかったから、私は二人乗りの自転車を漕いで河原を出て、慣れ親しんだ街を走った。自転車には久しぶりに乗るし、後ろにはイケメンが乗っているし、まだ少し涼しい春の空気を体が受けるたび私の心臓は新鮮な感覚がして、大きくときめいた。


「ねえ、名前なんていうの?」


学校の側を通りながら、私は後ろの彼に向かって聞いた。「最初の交換条件がまだ成立していないだろう」「いいじゃん、名前は教えてよ。私も教えるから」たった一言、名前を教えるだけでもそんな事を言うのがブレない彼っぽくてちょっと可笑しい。空は、夕陽によってオレンジがかってきていた。


「…ヒュース」


それだけ呟いて、彼はまた黙った。ヒュースって、言うんだ。教えてもらった名前を真似して口にすると、彼にピッタリだと思った。「すご、名前までかっこいいんだね」ペダルを漕ぎながらそう言ったら、「名前まで?」と聞き返された。やば、墓穴を掘った。私がカッコいいなって思っていたこと、バレちゃったかもしれない。恥ずかしくなって後ろをチラ見したら、ヒュースは特になんとも思って無さそうないつもと同じ表情をしていた。


「今通っているのは、お前のよく通る道なのか」


「そうだよ」と答えたら、ヒュースは何にも言わなかった。なんならこのルート上に私の住んでるマンションだって入っていた。ヒュースはいつも、私と別れた後何処に帰っているんだろう。「ヒュースは家、近いの?」あと少しで最初の河原に着く頃、私は聞いた。ヒュースはまた何にも言ってくれなくて、私は交換条件の事を思い出した。いちいち条件がないと素性を知ることができないなんて、ちょっと面倒くさい。もっと簡単に彼のことを知りたいのに。


「…私達、もっと色々話したら仲良くなれると思うよ」
「なら、お前の秘密を先に話してもらう。見つかったのか?」


だから、何にもないんだってば。土手に戻ってきて私は、ギュッと軽く握るだけでブレーキのかかる新しい自転車を止めた。ヒュースは私の肩から手を下ろして立ち上がり、私が返した自転車を見た。「…不思議だな」そう言ってサドルや車輪を確かめるように観察するから、本当にこの人、自転車を知らないのだなと私は思った。自転車がなくて、変わった名前で、怪我をしてもすぐ治ってしまう。ヒュースはもしかして、本物の宇宙人なのかもしれない。そんな事を考えながらオリーブ色の切長の目を横から眺めていたら、目があって、時が止まったような感じがした。スローモーションでヒュースの手が私の髪に近づいてきて、触れる。


「ついていた」


私から離れていくヒュースの手には小さな葉っぱがあった。今の一瞬が、やけにスローに見えたのは彼の動作のせいではなくて、多分私の見え方のせいだ。この日、私は、ヒュースに言えない秘密ができた。謎めいていて、どこか放って置けない彼のこと、好きになってしまったのだ。




月に帰らないでね 2






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