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「寂しいよ、明日でいよいよお別れなんて」


訓練の帰り、これまで一緒に戦ってきたチームメイトである彼女はそう言った。彼女の言葉通り、私は明日、この基地から存在を消す。進学の為、ボーダーを辞める事にしたのだ。あと一ヶ月、あと二週間とカウントダウンしていた月日はあっという間に過ぎていき、なんだか自分では実感が湧かない。隊室から引き上げてきた私物の入った紙袋を片手に基地の廊下を歩いていたら、ちょうど曲がり角から背の高い人影が現れた。「お、今帰りか」「東さん、お疲れ様です」この人は、私がここへ来て直ぐにお世話になった同じポジションの先輩であり、在籍していた二年間で、私の心を丸ごと奪っていった人。挨拶しただけで上がってしまう体温がその証拠。東さんは、私のそんな気持ちなんて知る由もなく、今日も後輩の一人として私に話しかけてくれる。


「そういえば、お前の除隊日、明日だったか?」


なんだかあっという間だったな、と東さんは優しい目で笑った。覚えていてくれたのかと、面倒見の良い人柄に好きだなぁという想いがまた積もる。「私も、まだ実感がありません」明日で東さんとお別れするということ。非番の日でも欠かさずランク戦を観に行って、解説も聴きに行って、訓練の度、近くの射撃台をさりげなくキープしていた日々が終わってしまうのが、いまだに信じられないでいた。


「明日の訓練が最後か?」
「はい」
「なら、そこでお別れか。寂しくなるな」


東さんは、挨拶代わりに片手を上げて私の横を通り過ぎて行った。私は小さく頭を下げてお辞儀をした。寂しくなるな、なんて、東さんにとってはなんでもない言葉だったと思うけど、私にとっては今後も思い出して浸りたいご褒美だった。だけど、悲しい事にそれすら敵わない。まだ噂でしか聞いたことがないのだけど、どうやらボーダーを辞める隊員は基地を出る前、機密保持のため記憶を消されてしまうらしいのだ。



* * *



私の記憶が消されてしまうまであと、30分。最後のスナイパー合同訓練を終え、沢山の人と話をした。みんなが別れを惜しんでくれた。時間が経つと、一人また一人と帰路につく人達が増えていって、とうとう訓練所には私と東さんの二人きり。「せっかくだ、少し話そう」東さんの誘いに頷き、私たちは広い訓練所の中央にあるベンチに座った。手の中には先程奢ってもらった冷たいスポーツドリンクのペットボトル。しんとした静寂の広がる訓練室には東さんの落ち着いた声が響いた。


「進学先は県外なんだろ?自宅から通うのか?」
「いえ、通い出したら出ようと思っています」
「そうなのか。まあその方が便利だよ、せっかく時間が出来るんだから、通学に時間をかけてたら勿体無い」
「そうですよね、」


これまでは任務に関することとか、スナイパーとしての技術のこととかしか喋った事のない東さんと私の進路の話をするのは初めてだった。東さんは自分で買った缶コーヒーを時々飲みながら、いつものように穏やかな目線を私にくれた。時計を見たら、あと15分で除隊手続きの約束の時間。いつも、人に囲まれて、慕われている東さんが、私だけの話し相手になってくれているこの夢のような今を、忘れてしまうだなんて考えただけでも悲しかった。「そろそろ行く時間か?」東さんも同じように壁にかけてある大きな時計を見上げた。気が付かないでいてくれたらよかったと、思った。ついに、この恋は終わってしまう。終わってしまう、なら。「…あの、」東さんが軽くなったコーヒーの缶を自分の体の横に置いた時、私は勇気を出して言った。


「今から言う事、私は忘れてしまうので、どうか東さんもそうして欲しいんです」


私の切り出し方に、東さんは少し体をこちらに向けて座り直し、「何?」と言った。斜め横から顔を覗き込まれて、私は震える手をぎゅっと結ぶ。


「好きでした ずっと。届かないと思っていたので、言えませんでした」


肺が潰れたように息が吸いにくくなって、言い切ってから肩に力を入れて深呼吸をした。東さんは驚いたように私の事を見ていて、目が合って見つめ合ってるみたいになった。もし記憶を消されなかったら、この彼の表情を思い出に去りたいと思った。


「わかってるので、返事はいいです。さっき言った通り、私はこの事は忘れてしまうので、東さんも忘れてください」
「……ちょっと、待ってくれ」


お辞儀をして立ち去ろうとしたら、右手首を掴まれ止められた。骨張った大きな手の感触に私の心臓は跳ねた。言い逃げは卑怯だとわかってるけど、きちんと決着をつけないでほしくて、私は振り向けなかった。「忘れるって、何か勘違いしてるんじゃないか」東さんは手首を掴む力を少し緩めた。勘違い、というのが気になって、ゆっくり振り向いてみると、困ったように眉を寄せて私を見ている東さんがいた。「お前が言ってる忘れるって言うのは、もしかして記憶消去措置のことか?」私は東さんの問いにゆっくり頷く。ピンと張り詰めた空気を破ったのは、東さんの小さな笑い声だった。私の好きな、柔らかい雰囲気の笑顔にはドキドキしてしまうし、何故東さんは笑っているのかわからないし、私は何も言えずに瞬きを繰り返した。


「あれは全員やる訳じゃない。お前には、適応されないと聞いてるよ」


「え、あの、うそ」口から溢れるのは慌てた私の言葉にならない声達。記憶、無くされないんだ。東さんの事、忘れないでいられるんだ。嬉しいけど、じゃあこの状況はどう収集つけたら良いのだ。真っ赤になって慌てる私と、それを見てくすくすと笑う余裕そうな東さん。こんな年上の人に、勢いでドラマチックな言い回しで好きだって言ってしまった。恥ずかしくて死にたい。この記憶だけは消してほしい。「や、やっぱり…忘れてください」汗の滲む手のひらをぎゅっと握り、私は小さな小さな声で頼んだ。東さんはそんな私の事を座ったまま見上げていたけど、横に置いていた缶コーヒーを手に持つと立ち上がり、私の横にスッと並んだ。急に目線が高くなり、今度は私が見上げる形になった。


「悪いけど、それは出来ないな」


優しくて、親切な東さんなら、きっと『わかった』と言ってくれると思っていた。ところが、予想に反した言葉を放って、東さんはまるで機嫌がいいみたいに口角を上げていたから、私にはどうしてそうなっているのか想像も出来なくて、困ってしまった。「あ、あの…」どうしたら忘れてくれますか?そう聞こうと思っていたのに、東さんは訓練室の出口の方までどんどん足を進めていく。


「出口で待ってるよ。除隊手続きが終わったら送ってく。その時また、さっきの続きを話そう」


それって、もしかして、期待してもいいですか?
今日でピリオドを打つと思っていた恋には、どうやら続きが待っているらしい。何年もいるから行き方だって知ってるのに、東さんは訓練室を出てからもわざわざ幹部会議室前の廊下まで私を見送ってくれた。「じゃあ、後でな」『先輩』からの最後の言葉は、まるで秘密の恋人にかけるもののよう。曲がり角で小さく手を振ったほっぺの赤い私を、どうか彼が愛しいと思ってくれていますように。




はなむけの歌





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