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自分を守れるのは自分自身だと、俺は親父にそう教わった。その教えは本当にそうで、俺の生きてきた世界ではずっとそれが当たり前だったし、味方になるかならないかはその先に待つ結果次第。美味しいと思えば加勢する、そうでなければ放っておく。そういう風に思っていた。ところがそれが、この国に来てから、狂いだした。何の見返りもなく、ただ無性に他人に手を貸したくなる瞬間が、時折訪れるのだ。けどそれは無差別に誰にでもというわけではなくて、

「あ、」

カシャンと音を立てて、隣の席のあの子のシャーペンは床に落ちた。気付いて腕を伸ばそうとするその前に、俺はそれをさっと拾って机に乗せてやる。「ほい、落ちたぞ」授業中だから小さな声でそう言うと、隣の席の子はニコリと笑って「ありがとう」と言った。それからそのシャーペンを再び握り、ノートに向かい始める様子を見届けてからも、俺はまたあの子が何か落とすのではないかと、授業中ずっと気になってしまった。こんな気になり事が、ちょっと前からずっと続いている。



席替えをした一ヶ月前、隣のあの子は教室に忘れ物をしたまま帰ってしまった。気付いて、急いで追っかけて、玄関で捕まえた。その次の日は、隣のあの子はプリントを机の下に落とした。丁度俺の机の方に滑り込んできたから拾ってやった。その次も、その次も、毎日あの子はうっかり何かを忘れたり、落としたり。それを助けてやるのはいつも俺だ。最初のきっかけは『気付いてしまったから』だったけど、こうも毎日続くといい加減うんざりしてくる。俺はとうとうある日、あの子を見捨ててみた。寒いのに上着を家に忘れて、寒そうにしているあの子をほっといた。視界の隅に映るあの子は小さく震えていて、見捨てる筈だったのになんだか気になる。ストーブの遠い後ろの窓側の席は外の冷気ですっかり冷え込んでいて、あの子ははぁと小さく息を吐いてなんとか暖をとろうとしていた。


「………こんな寒い日に上着、忘れたのか?」


見捨てようと思ったのに、その日はあんまりにも寒かったから。結局俺は、あの子に自分の着ていた上着を貸した。俺は寒くもなんともないので平気だ。「ごめんね、ありがとう」鼻を赤くして上着を返して来たあの子の困った笑い顔が、目の奥に焼きついた。返ってきた上着からはお菓子みたいな甘い香りがして、その日から俺は、あの子を助けてやらなきゃならない呪いにかかってしまった。


* * *


「空閑くんって、後ろにも横にも目がついているみたい」


俺の拾ったシャーペンを使いながらあの子は呑気に言う。「いつも助けてくれるね、私を」それはあの子の勘違いで、俺の目は普通の人間と同じように二つしかない。困っているのに気がつくのは、俺があの子が困る事はないだろうかと、ずっと気にしているからだ。落ちたものは全て拾ってあげたいし、道に迷わないよう手だって引いてやる。他の人なら何とも思わないのに、なぜかあの子が悲しい思いをしたり、寂しい思いをするのが俺は嫌だったのだ。
な、これって変だろ?


「優しいんだね、空閑くん」


先生の話す数式が遠くの声のように聞こえる。この顔を見るといつも、俺は悩んでしまう。どうして俺は、あの子を無性に助けたくなってしまうのだろう?
 

「うーん」
「どうしたの?」
「なんていうべきか、うーん難しい」


俺が優しいんじゃなくて、あの子にそうさせる何かがあるんだ。何か仕掛けがあるような気がして白いほっぺたをつねってみたら、閉じていた小さな口が開いて乳白色の歯が覗いた。ぞくり、と 何かがざわめき立つ。好奇心で薬指をその隙間にねじ込んでみると、ガタンと椅子の倒れる大きな音がした。真っ赤な顔してあの子は俺を見てほっぺたを抑えていて、俺は行き場を失った右手を咄嗟に下ろした。授業中だったから皆の視線が集まりまくって、先生にも叱られた。あと少しでわかりそうだったのに、次のやすみ時間からあの子は俺と目も合わせてくれなくなった。嫌われてしまったようだ。


「お前、さっき授業中何してたんだよ」


休み時間になると、修が俺の所へ来てすぐにそう聞いてきた。「何って、」何だろう。手に触れた温かく濡れた感触に、結局好奇心が酷くなった。手のひらをぐーぱーぐーぱーしているとさっきの真っ赤な顔したあの子の事ばかり思い出してしまうし、いつもあの子に思ってるのとは真逆の、困らせてしまいたいという感情が沸き上がってくる。まるでめちゃくちゃな気持ちだ。

「何もしてないのにあんな風にならないだろ。お前、相手は女子なんだからちょっと気をつけろよ」

修は深く聞く素振りは見せなかったけどかなり気にしているようだった。「そうだなー…」ぐー、ぱー、ぐー、ぱー。俺はゆっくり繰り返した。


* * *


体育の授業中、変な風にボールを取ってしまったせいで、突き指だなんだと大騒ぎされた。別に俺はこんな体だから怪我なんてするはずないんだけど、そう説明するのはダメだと言われたから仕方なく、怪我したフリして保健室に向かった。良かった、普通血が出るような怪我じゃなくて。外から見えない怪我なら、痛いふりをすれば良いだけだから。人気のない廊下を歩いて保健室にたどり着くと、先生も誰も居なかった。これは好都合。適当に時間を潰して戻ろうと思ったその時、後ろのドアが開く音がしてあの子が入ってきた。

「…あ」

俺の顔を見るなり明らかに目が泳ぎ出す。「先生ならいないぞ」そんなに『あれ』、嫌だったのか。キョロキョロしながらあの子は保健室内に足を踏み入れてきて、棚から絆創膏を取った。肘からは真っ赤な血が滲み出ていた。


「それ、どうしたんだ?」
「…転んだの」


痛そうな傷を見ると、いつもの『助けてあげたい』きもちが出てくる。けれどこのくらいの処置なら自分で出来るみたいだから、俺は特に何もすることが無くて、あの子の目の前の長椅子に座ってその様子をじっと見つめるだけだった。「痛いだろ、それ」「痛いけど…へいきだよ」当たり前のことしか言うことがないけど、今は逃げられずに話せるチャンスだ。絆創膏のゴミをくしゅくしゅと丸め出した時、俺はあの子を引き留めたくてその手を横から握った。一瞬びくりと身体が跳ねて、弱々しく「なに…?」と聞いてきたあの子を見ると、予定していた言葉ではなく今度は『困らせたい』の気持ちが出てくる。


「…なぁ、俺になにかしたのか?」


不思議そうに眉を下げたあの子は黙ったままだ。俺はそのまま、あの子を隣に力任せに座らせた。不安そうに揺れる瞳が俺の脳を揺らす。「何かしたのは、空閑くんじゃん」こないだみたいに頬を赤くしたあの子を見て、俺はなんだか我慢できなくなった。その瞬間、『怪物』が生まれた。


「そっちが先だろ。俺のこと、めちゃくちゃにする」


目も、耳も、口も、髪も。触れて、摘んで、嗅いで、全部べったり近づいて調べてやった。見た目には何もわからないのに、俺の中の『怪物』はあの子を見れば見るほど凶暴になっていく。散々調べて気が済んで、『怪物』は小さくなっていった。こんなに色々しといて白だった、なんて言って、戻れるのかなあ。修に忠告された言葉を思い出していると、それまで黙っていたあの子が口を開いた。俺のせいで、可愛く結われた髪の毛はぐしゃぐしゃだった。「こういうこと、よくしてるの?」俺はぐしゃぐしゃになった髪の毛を撫でながら、「違う」と言った。「皆の前じゃ、恥ずかしいよ」あの子は頬を赤くして、目を逸らした。皆の前じゃなかったら、怒らないのか?よく分からないけどもっと触れてみたくなったから、俺はあの子の首にゆっくり手を回して、胸の中に仕舞い込んだ。いや、正確には俺の方がチビだから、俺の胸にあの子の頭を寄せた程度だった。


「空閑くんの心臓、ドキドキしてるね」


あの子は俺の胸の中で、本当に怒ったりはしてなくて、ホッとした。そして、指摘された言葉の意味を考えて、俺はようやく少し分かった気がした。俺をめちゃくちゃにするあの子は、トリガー使いでも魔法使いでもなんでもなくて、おかしくなってしまったのは俺の問題だってこと。


「俺は、どうしてこんな風になっちゃうんだろ」


この、うつり変わる衝動性を抑えきれないきもちのこと、俺は今まで生きてきて知らなかった。それが『コイ』って名前をしていると、俺が知ったのはもっと後、甘いあの子を沢山食べてからの事だった。



恋を知る怪物





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