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絶体絶命とは、今この瞬間のような時を言うのだと思う。整理整頓 兼 席替えの為にクラス全員が全荷物を机から出していたそのタイミングで、私は、隣の人の椅子に置かれていた教科書全てをダメにした。丁度机の横に置かれていた、雑巾で真っ黒になった水の入ったバケツを肘で押して、隣の人の教科書にぶちまけてしまったのだ。


「…何してんのお前」


呆れたような、怒っているような、ドスの効いた声でそう言ったのはその教科書の持ち主であり、今日から隣の席になる予定のクラスメイト、漆間くんだった。漆間くんは、言葉を選ばず話す事で有名で、正直クラスでは浮いている恐い人だ。私は真っ青になって慌てて汚水を吸った教科書たちを持ち上げる。「ご、ごめんなさい」しかし時すでに遅し、すっかりページがよれて使い物にならなくなった教科書と私を、漆間くんは苛立ちを含んだ何とも言えない表情で見つめた。



「使い物にならなくなった教科書、全て合わせて税込19850円」


翌日、教科書の購入伝票を手に持った漆間くんが朝一番に私に声をかけてきた。手渡された薄い紙を眺めて、高校生のお小遣いではかなり痛い金額に思わず唾を飲む。


「ダメになったのは俺の教科書。ダメにした原因はみょうじの不注意。どっちが支払うべきだと思う?」


漆間くんはスカスカになった机から椅子を引いて座ると、脚を組んで、肘をついて私を気怠げに見た。「私……」ため息をつきながら 購入者:漆間恒 と書かれたその紙を眺め、折り畳んだ。帰ったらお母さんに相談しないと。

「ごめんね、今は持ち合わせがなくて…明日持ってくるね」

謝罪の言葉を告げて伝票を鞄にしまうと、丁度始業のチャイムが鳴った。ざわざわとクラスメイト達が各々の席についていく中、漆間くんは机からノートだけ取り出して先生が来るのを待っていた。そうだ、教科書。「…良かったら一緒に見る?」大きく机を寄せると漆間くんは否定も肯定もせず、ただ私が必死でその場を収めようとする様子を、頭の後ろで手をを組んだまま見つめていた。教室の一番後ろ、窓際の席の私達はピッタリと机をくっつけた。今回はどう考えても10:0で私が悪いのだけど、噂に聞いていた通り漆間くんは、恐い。ハッキリと思った事を言ってくるし、態度も悪いし、言い回しも乱暴。私は早く新しい教科書が届いて欲しいと切実に祈りながら、数学の教科書を机の中央に置いた。


* * *


教科書を見せてあげる関係になった数日後。漆間くんが授業中に何か書類を書いているのを見た。明らかに授業で配布されたプリントの類ではなくて、私は不思議に思ってそれを横目で見る。「…それ、何?」まさか私が貰い損ねてる書類?進路に関係するものだったりしたら大変だから、先生に聞こえないように小声で聞いてみた。ボールペンを回して考え込んでいる様子だった漆間くんは私の声に反応して、視線をこちらに向けた。話しかけられると思っていなかったのか、ちょっと驚いたように顔を上げた。目を細めて睨んできたり、呆れたような恐い顔をしていない漆間くんを見たのは初めてだ。至近距離で見ると、意外にも漆間くんは白くて綺麗な肌をしていて、まつ毛も女の子みたいに長い。烏のように真っ黒な瞳は大きく丸くて、割と可愛らしい顔をしている。

「…これ?」

しかし薄い唇から放たれた声は低くてハスキーな男の子特有のもの。そのチグハグな感じがなんというか、ちょっとミステリアスで艶っぽいと思った。漆間くんを纏う、敵わなそうな独特の空気感の正体はこれだと思った。


「ボーダーの書類」


漆間くんの回答に、私は驚いた。「漆間くんってボーダー隊員なの?」意外だ。こんな人が、身を尽くして街に貢献する仕事をしているなんて。テレビでよく見る嵐山准の印象しかなかった私は、彼と漆間くんの雰囲気の真逆さに驚き目を丸くした。「生活費かかってるからな」そう言って漆間くんは再び書類に視線を落とす。生活費、この街では高校生ぐらいの歳でも自力で生活費を稼がなくてはならない人が一定数存在しているというのは、認識こそすれどなかなか自分とは縁のない話だった。生活する家があって、家族もいて、友達も同じような環境で生きている…恵まれた『普通』を生きている私と、漆間くんは違うという事を知り、私は何と言ったら良いのかわからなくなってしまった。


「被災者の補償がいつまでも続くとは限んねえし、シビアにやってかねーとなんないわけ」


漆間くんは、書くことを決めたのかペンを回していた手を止めて書類に向かい始めた。独特の持ち癖が見られる彼の右手を眺めながら、私は思わず口にした。「私にできること、ある?」詳しく知らないくせに、同情することは良い事ではないのかもしれないけど、言わずにいられなかった。漆間くんは手を動かす事を止めずに「人の教科書をダメにしねーこと」と言った。


「それは、本当ごめん…」
「冗談だって。金貰ったし、それはもういい」


ボーダーの書類を描き終えた漆間くんはノートの下にそれをしまい、肘をついて気怠げに黒板の方を見た。


* * *


「これ、漆間くんにあげる」


翌日、私はクッキーを焼いて持ってきた。昼休みに隣の席の漆間くんにそれを差し出すと、漆間くんは驚いたように固まって、「俺に?」と言った。クッキーの入った袋を手に取る。下から覗いてみたり、裏返してみたり、まじまじとクッキーを眺められて、私は割れたり焦げたりしていたらどうしようと内心ハラハラした。一通り眺めた後、漆間くんはその場で封を開けてクッキーを一枚齧った。咀嚼しながら口元を拳で隠し、確かめるみたいに小さく頷く漆間くんは、なんだか小さな子どもみたいだ。


「…美味しい?」
「まあまあ」


手に持っていた残りのクッキーも放り込んで、漆間くんの口の中で固いものが砕けていく音が聞こえる。「…また作ってくるよ。私、こんなことしか出来ないから」漆間くんの人生にとって何の解決にもならないし、教科書の償いにもならない小さな援助だけれど。昨日の話を聞いて私の中で、漆間くんの印象が変わった。くるしい生活をしながら街を守ってくれている彼に、何か援助をしたいと思った。ただ、急にこんな事をしだした事で漆間くんが気を悪くしないかだけが気がかりだった。恐る恐る彼の反応を待ってみたら、漆間くんは残りのクッキーの入っていた袋の封を閉じてそれを鞄に入れた。「俺、今日早退する」


「今日防衛任務だから。これはその後に食う」


私はホッとして頷いた。目があった漆間くんは、僅かに目を細めたけどそれは恐い顔ではなかった。少しだけ力を抜いたような、優しげな目。漆間くんはそんな表情も隠し持っていたのかと、思わずどきりとしてしまった。


* * *


放課後はすぐに家に帰り、漆間くんへの差し入れを作る生活が始まって一週間と少し経った。

朝、自分の席へやってきた瞬間から漆間くんは「今日は何?」と声をかけてくるようになった。それに答えるように作ったものを出せば、その場ですぐに試食が始まる。マフィンとかの焼き菓子の他、おにぎりなんかの日もあったけど、どれも文句を言う事なく貰ってくれているから、きっと任務の後に食べてくれているのだと思う。嫌だったら、漆間くんならハッキリ言いそう。ちなみに一回も『美味しい』とか『ありがとう』とか言われた事はない。けど、漆間くんが毎朝私の差し入れを期待してくれているという素振りを見せてくれることが、私はなんだか嬉しい。この嬉しい気持ちが膨らむと何と呼ぶのか、私は多分知っているけど、認めてしまうのがこわい。彼にしているこの行為を始めた当初の気持ちとか、教科書を見せていることの意味を忘れてしまいそうになるから。そしてそういう気持ちを持たれていると知ったら漆間くんは、多分、すごく嫌そうな顔をすると思う。わからないけど。この心地よい距離感が終わってしまうのが名残惜しくて、私は自分の気持ちに気付かないふりを続けていた。


「………そういえば、教科書っていつ届くの?」


もう既に二週間は授業中に教科書をシェアする生活を続けている私達。それは、私にとっては心地よい時間になっていたけれど、純粋に注文した教科書がどれくらいで届くのかは知っておきたいと思った。漆間くんは「さあ」とだけ言って、私の作ってきたマフィンを口に含む。


「遅延してるとだけ聞いたけど。業者も色々と忙しいんじゃねえの」


漆間くんも、いつ元の生活に戻れるかはわかっていないようだ。「そっか」てことは、明日突然このぴったりくっつく席が終わってしまう可能性もあるし、一週間はこのままでいられる可能性だってある。どうか後者だったらいいな、と思いながら私は一限目の現国の教科書を机に開いた。


「えー、ではここの段落まで、後ろの席の人読んでください」


この授業では、ランダムに指された人が教科書を音読させられる事がある。運悪くそれに当たってしまった私は、二つの机の中央に置かれた教科書を読み始めた。自分の体の真正面に置かれていない教科書は少々読みづらく、私は体を若干傾けて教科書を見た。漆間くんはそれに気付いたのか、教科書を私の方にスライドさせた。気遣ってくれたのかと思い、音読しながら軽く会釈をしたその時だった。机の下にあった左手を、突然握りしめられる感触。それをしたのは今、教科書を私側に動かした後机の下に降ろされた漆間くんの右手。それなのに彼は、知らん顔したまま机の上のノートを見つめている。私は困惑しながらも、怪しまれたらまずいと思いそのまま最後まで文を読み切った。

「はい、そこまで」

先生の声にホッとして息をつくけど、繋がれた左手はそのまま。私は顔は黒板の方へ、目線は真横の漆間くんの方へと器用にずらした。相変わらずの、涼しい顔。「………」これ、突っ込んでいいのかな、それとも、何も言わない方がいい?漆間くんは、どういうつもりなんだろう。私の体は繋がれた手からじわじわと熱を持っていく。もう一度、漆間くんを横目で見た時、今度は彼と目があった。まるで面白がって観察するかのように、彼は肘をついて口角を上げ、私を見ていたのだった。確信犯以外の何者でもない、一体、どうしてこんなことをしてくるのだろう。


* * *


漆間くんは結局、一限目以降、手を繋いでくる事はなかった。授業が終わると同時にパッと手を離し、何事もなかったかのようにノートをしまう漆間くん。「次、倫理」何事もなかったかのように話しかけてくるから、私も突っ込むタイミングを失ってしまった。正直、とてもドキドキした。二限目の教科もまた同じように手を繋がれるのではないかと思って緊張していた。けどそういう素振りは見られず、私はたまに机の下に手を置いてみたりした。完全に期待してしまっている自分がいる。けれど漆間くんは意地悪で、指一本触れてこようとはしなかった。触れたい、漆間くんに。急に距離を詰められ、突き放された私の中には、はっきりとその意思が芽生えていた。


四時間目の半分で、漆間くんは防衛任務のため早退した。丁度宿題のプリントが出たから、私は漆間くんの分を机の中に入れてあげようと思って椅子を引き、机を覗いて、固まった。びっしりと詰まった、角の折れていないピカピカの教科書たち。私は目をぱちくりさせて一冊それを引き出した。まだ名前の書かれていないそれは、明らかに注文していた教科書で、私は朝の漆間くんの発言を思い起こす。『遅延している』たしかにそう彼は言った。じゃあこれは、一体。何故彼はあんな嘘をついたのだろうか。繋がれた手のことと言い、教科書と言い、考えれば考えるほど都合の良い解釈をしそうになってしまう。下校のチャイムがなって、呆然としながら私は学校を後にした。鞄の中には、机に入れ損ねた彼用のプリントが入っていた。




「おーい」


頭を冷やすため駅近の店をふらついて、夕方、ようやく私は帰路に着いた。そこへ後ろからかけられた声と、持っていた鞄に一瞬かけたれた重みに気付いて足を止める。私の鞄に手をかけていたのは防衛任務帰りの漆間くんだった。


「これから帰んの?」
「、うん」


漆間くんは自然に私の横に移動してきて、同じ方向へと歩き始めた。空は夕焼けのピンクと水色のグラデーションが綺麗で、落ち着いていた私の鼓動はまた昼の教室にいる時の早さを取り戻しだした。


「…漆間くん、教科書のこと先生なんか言ってた?」


勇気を出して聞いてみる。漆間くんは本日二回目の質問にちょっとひっかかるような顔をした。「だから遅延してるって」話を終わらせようとする漆間くんに、私は鞄の中から今日配られたプリントを出して差し出す。


「何これ」
「今日配られたプリント。それを、漆間くんの机に入れようとしたら、」


そこまで言ってようやく、漆間くんは気付いたように黒目の大きさを変えた。「…教科書、どうして届いてないって言ったの?」そう言い終えるや否や、漆間くんは私の手からプリントを引ったくる。不機嫌そうな瞳を向けられた。


「俺が帰った後に先生が入れたんだろ」
「…嘘、ぜったい違う」
「あーうっせえな。処分する時高く買値がつく方がいいと思ってしばらく取っといたんだよ。明日から自分の見る、これでいいかよ」


吐き捨てるように漆間くんがそう言った。


「てか、普通にこんな長い間届かねー業者あったらヤバいだろ。企業として終わってるっつの。お前さ、差し入れとかして随分と好意的だけど。多少は俺のこと疑った方がいいんじゃねえの」


漆間くんは乱暴な言葉を次々と投げつけてくる。まるで焦ってるのを隠すみたいに。「やだ」私は怯まなかった。ここまで来たら、もうどちらに転んでも関係が終わったようなもの。だったら、正直に認めてしまおう、勝負に出よう。私は、「漆間くんのこと、疑いたくなかった」この意味がわからないと言いたげな顔で眉を顰める、彼の事が。


「好きになっちゃったの」


彼の人生を案ずる気持ちとか、迷惑をかけた事への申し訳なさとか、そういう気持ちは完全に薄れていた。一緒にいる時間が楽しみで、彼の存在がいつも気になって、もっともっとと思ってしまう新しい気持ち。恋をしたから、私は彼と一緒に過ごしたかったのだ。


「漆間くんはどうして手を繋いだの?悪戯?」


勢いで告白をして、漆間くんの言い分も聞けて、なんだか清々しい気持ちになった。対する漆間くんはぽかんと口を開けて、驚いたような顔をした。それからプリントを持っていない方の手を制服のポケットにつっこんで、あー、と唸るような声をあげながら空を仰いだ。ドキドキしながら立つ私の元へ、漆間くんは近づく。私の前髪の真上にプリントを持った手を置くと、ぐしゃりと髪を掴むように力を込められた。これ、完全にカツアゲの構えだけど。予想外の行動に固まっていると、「訴えられんのは勘弁だから言っとくけど、」と言って、漆間くんは私の髪を引っ張り上を向かせた。


「今のナシ、とか、ナシだからな」


次の瞬間、斜め上の視界にいた漆間くんは、私に勢い任せのキスを落とした。ファーストキスがこんな姿勢で行われるとは思っても見なかったけど、乱暴な格好とは裏腹に触れた唇は優しかった。しばらく続いたキスを漆間くんはゆっくりと終えて、髪を掴むように結んでいた手のひらを解いた。頭頂部を撫でるように置かれ直された手と、薄く朱の入った漆間くんの頬から、彼が隠していた特別な気持ちを知ることが出来た。照れ隠しのようにこわい顔を作った彼が、愛おしかった。



乱暴と好意





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