三階にある図書室の一番奥の窓際。放課後そこは私の特等席だった。利用者の少ない時間帯を狙い、毎日そこから下を見下ろす。丁度その時間、テニス部の人達がランニングをして通り過ぎて行くのだ。掛け声を出しながら走り去っていく集団の中、今日も私はたった一人、愛しい人の姿を眺めた。艶のある藍色の髪はふわりふわりと風に靡き、それだけで彼は美しい。僅か数十秒のその時を堪能した後、私ははぁと窓に息を吹きかけた。うっすら曇った窓に、人差し指を立て、一文字一文字心を込めて、彼の名前を書いていく。


私は、意中の彼に、呪いをかけようとしていた。


儚げなルックスと物腰柔らかな態度、誰もが認めるテニスの実力。幸村精市の人気は入学当時から凄かった。それなのに彼は特定の誰かと付き合っている素振りを見せる事も、噂になる事もなく三年間過ごした。彼の気を引こうとこれまでに学園中、時には他校からの女子生徒が贈り物や手紙、直接的なアピールをかけてきたが、誰のものにもなろうとしない様子を私は目の当たりにしてきた。絶対に彼を好きになるのはよそう、青春時代を溶かしてしまう。そう強く誓ったのに、昨年末に偶然図書館で取ろうとした本を取ってもらった一瞬の出来事だけで、その決意は脆くも消え去った。


『これ、俺も読んだよ。面白かった』


そう言って上品に笑みを浮かべる彼。言葉を交わしたのはその一度だけだったけど、私はそれ以来卒業までにもう一度だけ、彼に本を手渡されたいと夢見るようになった。そこから始まった図書室通い。あれ以来そこで出会う事は今日までなかったのだけれど、偶然にも穴場の練習見学場所を見つけた。初めは姿を見るだけで幸せだったのに、人間とは恐ろしくも貪欲なもので、ひと月程で『もし、彼が誰かの物になってしまったらどうしよう』そんな不安が眠る前押し寄せるようになった。たった一瞬出会っただけの自分が、彼の心を射止める事はまずあり得ないと断言できた。どうしたらそれを阻止出来るのか。悩みに悩んだ末に私が日々の図書室通いで偶然見つけたのが、古びて誰も読んだ形跡の無い無地の本。そう、それが呪いの書だった。



『憎き人間の姿を鮮明に思い浮かべながら、その者が映った後のガラスを吐息で曇らせ、その名を記す。10日間誰にも見られることなく成し遂げた暁には、その者は二度と、何者かと恋に落ちる事はない』



呪いの書は、必要な場所に現れるのだろう。直感的にそう感じた私は、人目を盗んでそれを手にした。どうせインチキだと恋に溺れる前であれば思えただろう。でも今は、藁にもすがるような想いだった。指先が、最後の一画を描き終えた時、私はうっとりと美しい字面を眺めて掌で消すのだ。こんなことを既に九日間も続けている。もしこれが本物の呪いであれば、彼はきっと一生孤独になるだろう。けれど、好きな人には幸せになってほしいだなんて思える程私はできた人間ではなかった。ここまで来たら、もう後にひけない。儀式の最終日の放課後、私は誰もいない図書室に潜り込んだ。






「………遅いなぁ」



待てども待てども、テニス部が現れる気配はない。いつもならとっくに通り過ぎている筈なのに。もしかして、メニューが変わった?丁度最終日なのに?彼の姿をこのガラス越しに見なければ、せっかく続けてきたこの呪いは成立しなくなってしまう。なんとしてもやり遂げようと、私は近場にあった適当な小説を棚から取り出し、窓の外の観察を続けた。


小一時間ほどたった頃だろうか、未だに通らぬ集団に待ちくたびれた頃、たまたま下を見た瞬間。静かに一人、いつものコースを歩く彼の姿を私は見つけた。良かった、掛け声がなかったので見逃してしまうところだった。慌てて椅子から立ち上がり、いつものように歩く彼を眺めた。と、その時。不意に、彼が顔を上げ、私の視線と絡まった。もしかして、今、目が合っている?そう思えたのはコンマ1秒。先程まで歩いていた彼が走り去っていく姿を見送り、バクバクと鳴る心臓を抑えつけて私はガラスに息を吹き込んだ。「幸、村…精……市」夢中で指を動かし、遂に最後の一文字を書き終えた。しんとした空間で深呼吸をすると、突然ガラガラとドアの開く音が聞こえてきたので私は視線を上げた。
そして息を呑んだ。

そこに立っていたのはまさに今呪いをかけている途中の、幸村精市だったからだ。



「…きみ」



誰もいない図書室で、幸村精市は真っ直ぐ私を見て声をかけてきた。
一歩一歩確実に距離を縮めてくる彼。緊張と恐怖、口の中は水分が飛んでカラカラになり、声を出す事ができなかった。どうかガラスに書かれた名前に気付かず、行ってくれないだろうか。わざとらしくなりそうで、ガラスを拭く事は躊躇われた。その代わりに机に無造作に放っぽられた呪いの書物を、冷たくなった左手でジリジリ手繰り寄せ隠そうとした。なぜ、彼は。いつから私の行いに気がついていたのだろうか。


「…へぇ、上から見るとこんな感じなんだね」


ついに私の真横に立ち、彼はいつもの私と同じように窓下を覗き込んだ。「下からこの部屋を見上げた事はある?その方が何故かうんと近く感じるんだ」優しい瞳をして彼は言った。きっと随分前から、隠れているつもりだった私の姿は見つかって不思議がられていたのだろう。何も知らずに熱視線を送っていた自分を想像するだけで脳が沸騰する程恥ずかしかった。更に追い討ちをかけるように、彼は窓ガラスの下の方にある不自然な曇りに視線を落とし、表情を変えた。「これは…」最悪だ。まさか、呪いをかけ終わった直後に、本人に見つかってしまうだなんて。


「あの…ごめんなさい」


膝の上のスカートを掴む右手に、爪が食い込んでいる。強い力な筈なのに痛みを全く感じない程、私の心は恐怖と後悔に麻痺してしまっていた。下を向いて気まずい空気を耐えていると、この場に似つかわしくない温かな声が私の頭上に降りかかった。


「これは……おまじないみたいなものかな?」


そんな、可愛らしいものでは無いのです。私は貴方を呪っていました。そう切り出せる勇気はなく、恐る恐る顔をあげると、意外なことに彼はほんのり頬を染め、窓ガラスに書かれた自分の名を見ていた。初めて見た、僅かに緩んだ口元を隠すかのように手を添える姿を麗しく思っていると、彼は「俺ね」と私に切り出す。


「…ずっと気になって見ていたんだ。君が毎日ここにいる事」


そんなことが、現実だろうか?
予想を遥かに上回る、彼から放たれる甘い言葉たち。驚き呆然とする私を見て、彼はまた優しく微笑んだ。「良かった、ここに書かれていたのが俺の名前で」そう言った後、彼の桜色の薄い唇が私の額にそっと近づいてきた。おかしいな、確かに私は、彼を呪ったはずなのに。震える心臓をもって、私はそれを黙って受け入れた。

 
『二度と恋に落ちない呪い』
ただ一つ、完遂破談となる条件がある。それは、



『呪いは、本人に見つかると叶わない』




呪いをかける





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