二年生の夏、当時のテニス部の先輩の薦めで途中からマネとして入部した私は、その部のエース、遠山金太郎とちょっぴり仲良くなった。


今まで遠山とは同級生ってだけで、名前も顔も知ってはいたけどクラスは違うし、性格もグループも違うので絡みがなかった。のに、部活で少しずつ話すようになったら、廊下で会うたび目が合うようになった。目が合うと遠山は必ず、ひらひらと手を振ってきた。部活中の遠山は、まさに『陽』の人で、四六時中お喋りして、人一倍動いて、大きな声で笑っている。それが、何故か学校生活で出会うと全く違う大人しい様子で。省エネのつもりか、いつもうるさいくらいの元気を振りまいているのに、こういう時だけ小さく手を降るのが意外だった。たまに会う近所の小学生みたいで、なんだか可笑しくも可愛らしくもあって、これがいわゆるギャップ萌えってやつなんだろうな、とぼんやり思っていた。

半年程それが続いて、ある日廊下で友達とワイワイ話す遠山の姿を見つけた。目があって、話すのをやめて小さく手を振る彼に手を振り返した時、遠山がニコリと笑い、胸がきゅっと締め付けられるような感覚が生まれた。はっきりと、彼が好きだと自覚したのはその時だったと思う。



「なぁーマネージャー!ちょっとええ?」


いつのまにか月日は流れ、私達は最高学年になった。春が来て、夏が終わり、秋がきて、あっという間に冬になった。昨年部長になった遠山も、今は引退して、OBとなった。私は、未だに気持ちを伝えられずにいて、部活のなくなった今は互いを尋ねる都合などもなく、教室から校庭で授業を受ける姿を眺めたり、移動教室の合間に出逢って目があったり、そんな程度の接触。だから、こうして自分の教室にやってくる遠山の姿は久しぶりで、よく通る声に呼ばれただけで私の心臓はどきどきと早く動いてしまうのだった。


「オサムちゃんが、卒アルに載せるからメッセージ書きって。なんかある?」


首を傾げて、遠山が私をみた。可愛らしいその仕草も、今は私が見上げる形になっていて、体格差にますます私の心臓は跳ねるばかりだ。遠山が指先で持っていた小さな白い原稿用紙を受け取り、何も書かれていないそれを眺めた。遠山は「いうても、3年ワイとマネージャーしかおらんもんなぁ」そう、卒アルを見るのは結局私たち二人。記念に書くメッセージでありながら、それは互いに向けたメッセージ交換でもあるのだ。なんかある?と聞かれれば、伝えたい事は山ほどある。けれど、それは全校生徒に目撃されていいものではなかったし、結局そうなると書ける事は限られていた。


「……今までありがとう、とか?」

「んー」

「でも結構紙大きいね。寄せ書きみたいに書くからか」


遠山は何か考えがあるように原稿を見つめ、しばらく黙った。遠山の長い睫毛が瞳に被さる。ドクンと心臓がまた跳ねた。これだ。私はこの、底抜けに明るい彼が、考え事をしたり、控えめに手を振ったりする振り幅にめっぽう弱いのだ。「なんか記念になるよーなこと書きたない?ドーンて」遠山は閃いたように目を開きそう言った。祝、全国制覇。そう書けるのは、私達が在籍してから初めての事だった。そうだね、と頷けば、「ほな今日一緒に書こ」そう誘われ、突然遠山と二人きりの時間がやって来た。場所は、これまたまさかの、遠山家。近いから来てええで、そう言われてついてきてしまった。休み時間には、念入りに髪を整え、薄くリップを塗り直した。










お家の二階に上がってすぐの引戸が遠山の部屋。畳にベットが置かれ、小さな机と、ごちゃついた勉強机、漫画のずらっと並ぶ大きな本棚。転がるボール。出しっぱなしの何もかかっていないハンガー。パッと見て綺麗な部屋ではなかったけど、遠山っぽい。遠山っぽいていうか部室っぽい。遠山が荷物をごちゃっと置いた隣に私は控えめに鞄を置いた。


「なぁなぁ絵とか描ける?」

「…まあ、それなりに」

「テニス部っぽい絵描いてや!ほんで空いたとこに…」


好きな人の匂いに囲まれてソワソワする私と対照的に、遠山はハキハキと話を進めていく。『陽』の遠山だ。こっちの遠山は、いつもどこか遠い所を見ている。身近にいるちっぽけな存在の私ではなくて、何処かにいる大きな力を探していて。頼もしくて、かっこいいけど、ちょっと寂しい。私はペンケースからシャープペンを取り出し、携帯で画像を確認しながら原稿用紙にラケットの絵を描き出した。


「…おおー!めっちゃ上手いやん」

「普通だよ」

「それ、修学旅行で買ったやつやろ?」


東京タワーをモチーフにしたキャラクターのついたペンを見て、遠山が言った。「そうだよ」「めっちゃ買ってる人多いねんなそれ。クラスの半分くらい使っとる」遠山がそう言って私の手元を眺めながらほっぺたを机にくっつけた。それから少し黙って、走る私のペン先を観た。スイッチの切り替え、オフモードの表情。



「ワイ、東京行くかも。言うた?」



描く手が止まった。「いつ?」遠山は至って普通に「春」と答えた。なんで、どうしてと聞くよりも先に、彼はテニスをしに行くのだと、自分の中で結論が出た。全国制覇した凄腕の中学生、都会の名門校が欲しがらないわけがない。おめでとう、そう言いたかったのに、私の体は鉛のように重たくなった。止まった手を再開させるタイミングも逃して、私はただじっと遠山の形の良い唇を見つめた。「…なんもないん?」体勢そのまま、目があって、私はようやく「おめでとう」を絞りだした。「おおきに」遠山が笑った。

え、これって、それで終わり? 

一気に夢のような現実が私を襲う。遠山に向けたこの気持ちを、どうにかしようというビジョンはまだ建てていなかったけど、少しずつ温めてきたこれを、あと数ヶ月以内に処理しないといけなくなってしまった。もしかして、今?相変わらず手の止まったままの私の様子を伺うように、遠山が顔を上げた。「あ、あのさ」なんて言おうなんて言おうなんて言おう。その迷いを塞き止めるかのように、遠山は視線を原稿に落とした。


「今までおおきにって、さっき言うてたやん。それワイも書きたいわ」 
  
そう言って笑った。


「……うん、かこっか」


ぐるぐる渦巻いた迷いと決意は、あっという間に私の中でモヤついて煙く残った。シャーペンを持ち直し、私は再びラケットの絵を描きだした。なぞるたびチャラチャラと揺れるマスコットがやけにうるさかった。










「あーマネージャー ちょい、こっち」


廊下を歩いていたら、オサムちゃんに会った。「卒アルの事やけど」何かと思えば、それか。結局私と遠山はあの後、なんやかんや適当に話しつつ、それなりの原稿を完成させた。遠山が「勝ったもん勝ちや」と書きたがったので、なんだか横断幕風になってしまったそれを、自分が提出すると言ったので任せて帰ってきてしまった。だから私はその原稿の行方を今は知らない。「提出されとらんようやけど。ちゃあんと書いたか?」オサムちゃんに言われ、私は一瞬後悔するように目を瞑ってから、「すぐに出させます」と答えた。オサムちゃんがその様子を見て笑った。


「ええでええで。俺が卒アル担当やから。どんなんなったんか気になったから、つついただけや。物自体は出来とるん?」

「はい、こないだ遠山の家で書いたんで」

「遠山の家て……お前遠山と付き合うとるんか」


驚いたようにやや大声でそう言われて、私は即座に違いますと否定した。余計な事をいう顧問の服の裾を思わず掴んで周りを見回せば、先程の発言を聞いたらしい通りすがりの生徒数名に物珍しい目で見られて、頬が熱くなった。


「それやったらおもろいけどなぁ。結婚式には俺が挨拶スピーチで出たるわ」

「だから、違いますって」

「ほななんで家で書いてん。怪しいなぁ〜」


ニヤつくオサムちゃんに背を向け、火照った頬を冷ますために私は足早にその場を後にした。遠山と付き合う、遠山と結婚、どれもこれも夢みたいな話で、恥ずかしくて頭がパンクしそうだ。けどそうなったらいいな、なんて思ってしまっている乙女チックな自分もいる。柄でもなくて笑える。


遠山が『陽』なら、私は『陰』だ。
自分から特に発信もしないし、愛情表現だって、得意な方ではない。だからこそ、素直に人と向き合える遠山が羨ましい。でも、じゃあこんな私が自分の気持ちに素直になれるのは、一体いつなんだろう。


「あ、」


夢中で廊下を歩いていたら、横から声がかかった。聴き慣れた声に自然と視線がそちらに向く。体操着姿の遠山が、いつものようにひらひらと小さく私に手を振っていた。さっきの会話で、ここで遭遇ときて、私は一瞬で目を逸らし、また反対方向に逃げ出した。「あっ、ちょおなんでや?」後ろから遠山の声がかかったけど、お構いなしに逃げだす私。


「なぁ!なんで逃げるん!?なんかあったん?」


と、追ってくる遠山。なんで追いかけてくるの?と思うのも束の間、あっという間に追いつかれ、私は旧校舎の階段で捕まった。息の上がる真っ赤な顔の私の腕を掴む、困った顔の彼。掴まれた腕からグワッと熱い血液が巡り、私の体は更に熱を帯びた。


「、なんもない」

「えぇーほな何で逃げんの」

「な、なんとなく」

「そうなん?泣いとるんかと思ったわ」


はぁとため息をつかれた。泣いてると思った?泣いてたら追いかけてきてくれたのかと思い、優しさに嫌でもときめいてしまう。

  

「遠山、すき」



溢れた一言、無意識だった。
私からぽろっと出たその言葉に、遠山は目を丸くして固まった。何処が好きとか、いつから好きとか、そういう補足を話す気はなくて。どう終わりにしようか迷っていたそれが、うっかり予期せぬタイミングで出てしまっただけ。もうひた隠しにしてたからこそのぶっきらぼうも、捨てちゃっていい。「死ぬほど好き」そう言って私は、目の前の遠山の胸を押した。力が抜け、するりと簡単に腕が外れて、私の身は自由になった。身軽な体で、私は廊下を駆け出す。無計画な告白だったのにもかかわらず、私の心は何故かすっきりとしていた。

ちゃんと、言えた。返事は、いらない。









卒アル制作シーズンも一区切りし、あっと言う間に受験の波がやってきた。公立高校の一般入試日、私は大多数の受験生と同じくその日学校を休んだ。緊張に震える手で、問題を解き、ようやく試験を終えて帰路につく。

その日は今年いちばんの寒さだった。粉雪ちらつく中、履き潰して艶の消えたローファーで一人歩いていたら、あと少しで自宅というところの公園のベンチに、見慣れた派手な赤髪が座っているのが見えた。「…とおやま?」多分、凄く小さな声だったのに、その人は私の声に肩を揺らしてすぐに気づいて振り返った。


「あ!遅いで!」


舞い落ちる雪が赤い髪にうっすらかかっていて、一体いつからここに居るのだろうと思わず心配してしまう程だったのに、遠山は明るく笑った。


「傘、ないの?」

「…あ!雪やったら傘か」

「濡れちゃうじゃん」

「雨やったら持ってきてんけど、雪に傘さすっちゅーんが浮かばんかったわ」


「せやから、入ってもええ?」と言って、遠山は私の持っていた傘を取った。今持っていた位置よりうんと高く傘を上げられ、視界が急に広がる。遠山とは、あの勢い任せの告白から、会っていなかった。たまたま会わなかったり、会わないようにしたり。気まずさと、もう終わりにしようという気持ちから、そうした。遠山も遠山で、特に私に連絡をよこしたりして来なかったし、訪ねてくることもなかった。困らせたんだろうなぁ、と思っていた。だから、私もあの告白は昔の事だと思うようにして、ひたすら受験勉強に励んだ。どうせもうすぐ彼は行ってしまうのだから、少し忘れるくらいがちょうど良い。そう思っていたのにいざ会ってしまうと、約一ヶ月ぶりくらいに見る想い人の顔に私の胸はキュッと音を立てて締め付けられた。


「試験、難しかった?」

「…ふつう」

「受かりそうなん?」

「わかんない」

「ワイあかんかもしれん」

「どういう事」

「最初の数学からちんぷんかんぷんやってん」


遠山の言ってる事がよく分からなくて、私は首を傾げた。推薦校でも一応試験みたいなのがあるものなのだろうか?どんなにテニスが上手くても、勉強が出来ないと入れないのだろうか?「全国王者をそんな理由で切るかな?」思ったままに口にしたら、「そんくらい強気でおらなアカンな」と遠山は笑って、手の中にあった受験票を私の前に出した。どうして、東京にいくはずの遠山がそれを持っているんだろう。



「ワイ、やっぱ大阪におることにした!」



え?という間も無く、遠山はポケットからボロボロに畳まれた白い紙切れを引っ張り出した。差し出されたそれを受け取り、ゆっくりかじかんだ指先で開けば、数ヶ月前に二人で書いた、あの卒アルの原稿だった。大きく力強い文字で書かれた『勝ったもん勝ちや』の下に、細めのボールペンで私が書いた、『今までありがとう』。そしてその下、あの時は空白があった筈の場所が、遠山の汚い字で埋められていた。『これからもよろしく』


「せやから、春になってもこっちにおるって、決めたから。それ言いたかってん」


「…受かればやけど」遠山はそう言って笑った。対する私は、笑えなかった。遠山は、才能がある。ちゃんとそれを評価してくれる舞台が約束されていたのに、何故わざわざそれを蹴って、こんな小さな街に収まるのか。「テニスやめちゃうの?」声が震えた。遠山は「やめへんで!ワイは世界一になるんや」とキラキラした答えをくれた。じゃあ、なにが彼をこの街に留めたのだろう。遠山の考えが読めなくて、落ちていく雪を見ながら「せやけど」の次の言葉を待った。



「マネージャーが死んだらワイ、困るから」


至って真面目な表情で、遠山が言う。視界の端に映る先程遠山が座っていたベンチは、雪ですでに薄く白くなり始めていた。


「…え、何の話」

「言うてたやん。死ぬほど…その」

「死ぬほど…?」

「ワイのこと大好きーって、死ぬほど好きやって言うたやん!」



私の中で、過去の出来事になっていた告白を本人に掘り返され、ジワジワと熱が昇り始める。「もう、いいよそれは」あの時は、ちょっとどうかしていた。恥ずかしくて忘れて欲しくて、足元を見ていたら、つむじに向かって「いやや」がぶつけられた。


「だって、ワイも、死ぬほど好きやねんもん」


幻聴かと思うような言葉が聞こえて、私は上を見た。ほっぺたを赤くして、真っ直ぐ私を見る遠山と目があった。え、なに。これ、夢?冷え切った手で遠山の赤いほっぺたに触れたら、溶け出しそうなほど熱くて。さらにその手に大きな遠山の手が重ねされて、いよいよ私はこれは現実なのだと悟り、震えた。


「……一時の気持ちで進路決めないの」

「そんなんちゃう!」

「…後悔しないの?」

「絶対せん!」

「…………そっか」


これ以上言える事はなくなった。諦めたように笑った私の冷たい手を、遠山はあったかい手でギュッと力強く握った。「はぁーやっと言えたわ〜」真面目な顔が緩み、いつもの遠山が戻ってきた。安心したように息をつく姿を見て、私の頬も緩んだ。「…可愛い」思わずそう溢したら、「可愛えのはそっちやで」思っても見なかった不意打ちを喰らった。言ってから遠山は照れたように傘を持ち直した。


「ほな、帰ろ」


手を繋いで、相合傘で。雪なんて全部溶けきっちゃいそうな二人を包む空気の温度。次の春も、夏も、秋も、こんな雪の降る冬も、神様どうか、彼の側に居させてください。




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