『ごめん、好きな人がいる』

ふられた。十年近く想いを寄せた同級生に。かれこれその日からもう一週間は経っているのに、立ち直れそうな気配は無く、昼はから元気で学校へ行き、夕方から寝るまでの時間は常に泣き腫らして時間を消費した。彼とは同じ学校だし、家族にもあからさまに弱っている所を見せたく無くて、私はウロウロしながら日々一人で泣ける場所を探していた。そんな時、見つけたのがこの小さな古いプラネタリウム。駅から少し歩いた文化センターにあるそれは、年季が入り過ぎて人気もまばら、表に告知もなく、星の映像とオルゴールを流すだけの、細々とやっている所だった。上映時間になってもほぼ人の居ないそこで、私はようやく声を殺して泣いた。そしたら、少しスッキリした。その感覚が気持ちが良くて、取り憑かれたように毎日放課後そこへ足を運ぶようになってしまった自分を、誰かに止めて欲しいとうっすら思いながらも、涙は私の生きてる限り無限に絞り出せるのだった。


「どうぞ」


ある日の上映時、隣からハンカチを差し出された。暗闇でもわかる白くて綺麗にアイロンがけされたハンカチ。突然の事に驚き恐る恐るハンカチを受け取り横の人物を見るも、暗闇でその顔を確認する事は出来なかった。


「貴女、星に興味がないでしょう」


次いで投げられた言葉に、脳は覚醒していく。丁寧な口調だけど、聴こえた美しい声は男性らしさもあり、綺麗なハンカチと相まって中性的な雰囲気を不思議に感じた。「…すみません」天体を何も知らない私の泣き場所にしたことを謝れば、はぁと溜息が聴こえた。


「泣く為だけにこんな所へきて、迷惑だとは思いませんか?」


ファーストジャブの優しさは何処へやら、二言目三言目は鋭い攻撃的な発言をした彼に、私は恐れを抱いた。「…ご、ごめんなさい」彼の言うとおりだ。居た堪れず立ち上がって、静かにホールを出て行く。急に眩しい世界が広がり、他人に注意された事もあって心臓はバクバクと音を立てた。
けれど、そのおかげで涙は完全に止まった。残されたのは、私の右手に握られた涙の跡のあるハンカチだった。



* * *



昨日の出来事をきっかけに、私の失恋によるズルズル続いた泣き腫らし週間はピリオドを打った。癖になっていたのだと思う。今度は純粋な気持ちで、あのプラネタリウムを楽しんで、おしまいにしよう。そして、昨日の人に出会えたらハンカチを返そう。そう思って来たのだけれど、そこでようやく私は誰にハンカチを借りたのかわからない事に気が付いた。
多分、男性。けど年齢も顔もわからない。上映前のまだ明るい場内でキョロキョロと視線を動かすがそれらしい人の予測もつかず、まばらにいるお年寄りや親子からは間隔をとって一人座った。


上映が終わり、私は清々しい気持ちになった。解説員不在の為、何が何の星座かなんてわかりやしないけど、心地良いオルゴールに合わせて回る宇宙は美しかった。癒されていくのを感じて、自分のが昨日までこの空間の中でしくしくと泣いて誰かの癒しを邪魔していた事を、申し訳なく思った。


「おや」


一つしかない出入り口の扉を出た所で、入場チケットを持った綺麗な男の人が立っていた。落ち着いた色のカーディガンを羽織る上品な服装の彼に見覚えなどなく、目線は合いながらも立ち去ろうとした時、「今日はひとつ早い上映ですね」また声をかけられ、足を止めた。今の声は。


「私の事、知ってたんですか」
「ええ、近頃よく見かけるので」


まさか、昨日注意してきた人がこんなに若くて綺麗な男の人だったとは。私とそう歳も変わらなそうな見た目、しかし落ち着いた雰囲気に驚いた。「おや、今日は涙の跡がありませんね」鋭く私の目元を見切った彼。恥ずかしくなって慌てて目を擦ると、今度は優しい声色で彼が言った。


「美しいでしょう、星は」


そう言って、私に会釈し彼は次の上映を待つホールの中に消えていった。びっくりした。昨日の今日で、あんなに優しく微笑まれると思っていなかったから。昨日とは別のドキドキを抱えたまま、私はプラネタリウムを後にした。帰路につく間の電車でも、長めに浸かったお風呂でも、ちらちらと浮かぶのは名も知らぬ彼の微笑みだった。ベットに入って私はようやく、ハンカチを返し損ねた事に気付いた。



* * *



いつかハンカチを返さなきゃとは思いつつも、それが出来ないでいる日々が続いた。あの日を最後に私はしばらくプラネタリウムに行っていない。単純に、金欠だからという理由と、ハンカチを返してしまうのが惜しいような気持ちになってしまったという理由があった。あの場所へ行けば彼には確実に会えるだろう。しかし、それで縁が途切れてしまうのではないかと思った。はっきりとはわからないけれど、何故だか私はそれが嫌で、けれど街中でもし偶然彼に会った時には、これを材料に話しかけたいとも思っていて。私は矛盾した感情を共存させたまましばらく過ごしていた。片想いしていた例の同級生に彼女が出来たと噂で聞いたが、プラネタリウムの彼のおかげでちくりとも胸は傷まなかった。


気分転換に駅の書店にでも寄って来ようかと思い、学校を出ると、歩道橋を渡ろうとする他校の学生集団がいた。品のあるキャメルのブレザー、ここらで有名な私立学校の制服だった。普段なら気にも留めない程よく見かける制服なのに、たまたま彼らは大きなテニスバックを背負っていて、ぼんやりそれを眺めながら歩いていた時だった。集団の後ろの方、ゆるくウェーブがかった艶のある黒髪。彼だ。そう認知した瞬間、私の足は一人で動き出していた。考えるより先、体が動いていたのだ。


「待って!ハンカチ!」


歩道橋の段差を数段登った所で、私の右手は彼のブレザーの裾を捉えた。反射的に振り返り驚いた表情をした彼に、心臓が跳ねた。初めて見た制服姿、高級感のあるデザインがこれでもかと言うほど彼の雰囲気と合っていて、見惚れそうになった。私の声に反応し、彼だけで無く周りの生徒も皆こちらを振り向いて視線を寄越して来たので、慌てて手を離した。


「……場所を変えましょう、着いてきて下さい」


先に帰るよう周囲に促し、段差を降りた彼は私の一歩前へ出た。その背について行く間際振り返ると、にやにやと好奇心を寄せた目で私達を見る彼のチームメイト達がいた。(悪い事しちゃったかな)人目を気にしてそう思ったがそれは今更な事で、毅然とした態度の彼を見て私は考える事をやめた。しばらく歩いて、彼が決めた場所は近くのカフェチェーン店だった。


「あの…あなたのお名前は?」


席につき一番に聞いた。向かい合わせに座る彼は「観月です。観月はじめ」と言い、紅茶を飲んだ。「観月くん」「貴女は?」名前まで美しいのかとしみじみする間も無く観月くんは私にも同じ質問をしてきた。どこにでも居る平凡な名前を名乗ると、そうですか、と言って紅茶のカップを置いた。


「あそこは考え事をするのに良いんです」


貴女は泣き場所にしていたようですが、と言われ、私も慌てて熱々のココアを飲んだ。舌を少し火傷してしまった。明るい場所で出逢った観月くんは、いつもの浮世離れした雰囲気とは違って血色が良く、彼も品の良さ漂う同い年くらいの男の子に見えた。「では、僕のハンカチを返していただきましょうか」スッと差し出された手を見て、私はすぐさま鞄から洗濯して袋に入れたハンカチを取り出した。「ありがとう、ございました」名残惜しくも私の手からスローモーションで離れて行くそれを見届けると、ハンカチを手にしたまま観月くんは言った。


「何故毎日泣いていたのです?」

「それは、その、」


上手く取り繕う言葉が見つからず、大人しく正直に話した。振られちゃって、と。こんな理由でめそめそしていた事を知ったら、面倒くさいと思われるだろうか。そんな心配とは裏腹に私の口からペラペラと滑り落ちて行く言い訳達。泣いてたら癖になっちゃって。いつかこんな場所にデートに来れたらいいなぁなんて思っちゃったりして。それを思ったら虚しくなったりもして。くるくると無意味にスプーンでココアを混ぜる手が止められない。一通り言い尽くして、呼吸が無意識にため息となって出た。ハッとして顔を上げたら、考え込む様に観月くんは手を口元に当ててこちらを見ていた。「すみません、ただのくだらない夢で」謝る私を気にも留めず、観月くんは口を開いた。


「では、次の土曜にしましょう」


何の話か、それだけではわからなかった。ぽかんとした顔の私に、「あの場所で叶えたかった無念があるのでしょう?」と観月くんは言う。まさか、私の戯言を叶えてくれる気なのだろうか。夢のような展開にアワアワしているうち、彼は会計を済ませてくれた。心臓が物凄く速く動いている。「では、土曜10時の回に」姿勢良く立ち去って行く背を見つめ、私は半分放心状態になっていた。



* * *



土曜が来るのを私はドキドキしながら、指折り数えた。何を着て行けばいいのだろう?少しくらい化粧した方がいいだろうか?あらゆる選択肢で迷いながらも、楽しみだった。どうして観月くんのような人が私の願いを叶える為に休日にアポをとってくれたのかは未だにわからないけれど、今日会えたら勇気を出して聞いてみよう。それで、少しでも仲良くなれたら、今度は彼があの場所でどんな事を考えているのか、何の星座が好きなのか、そんな他愛無い話をしてみたい。予定より少し早めに家を出て、私は例のプラネタリウムの入り口に立った。まだ彼は来ていないみたいだ。腕時計を見て、あと3分あるのを確認し、どの方角から彼が現れるかソワソワしながら待った。


それから数分おきに、時計を見て、彼の姿を探す行為を繰り返した。待てども待てども、観月くんの現れる気配はなく、約束の10時の上映はとっくに始まってしまった。あんな几帳面そうな人が遅刻なんてするだろうか?何か来る途中トラブルがあったんじゃないか。不安が過るが連絡手段がなく、私はただひたすらに待った。
それでも、その日観月くんが待ち合わせに来る事はなかった。



(馬鹿だなぁ、本当に来ると思って)


あの日からプラネタリウムには行く事をやめた。ようやく回復してきた心の傷が、深くなってしまいそうだったから。虚しい思いはもうしたくないし、気分転換に行くなら別の大きなシアターへ行けばいいだけ。観月くんとこれから仲良くなりたいと思っていた膨らむ気持ちは、萎んでペシャンコになってしまった。けど、この程度で済んで、良かったんだ。忘れよう。


「名前、久々に一緒に帰らない?」


普段部活に行く友達が帰りに誘ってくれた。「うん、いいよ」受け答えしながら、彼女の見慣れたテニスバックがない事に気がついて、瞬時に思い出されたのは制服姿で会った最後の観月くんの姿だった。たった数回の接触で、彼を思い起こすためのカケラは至る所に散りばめられてしまったらしい。

(既に片足浸かった後だったなぁ)

切ない気持ちを胸に押し込めて席を立つと、廊下の方から何やら騒めく声が聞こえてきた。


「なんであんなお坊ちゃま学校がうちに?」
「彼女でも待っているんじゃないの?」


耳に届く数々の情報を他人事と思いながら玄関へ出れば、正面に見える学校の門には噂の人物、ルドルフの制服を着こなす観月くんの姿があった。幻かと思い思わず目を擦ると、門の柱に体重を預けていた観月くんがこちらを見て、姿勢を正して立った。きっと、彼の待つ相手は私だ。



「…先日はすみませんでした、朝方急な帰省が決まったもので」


頭を下げる観月くんを見て、全く怒りなど湧くはずもなく、困ってしまった。「気にしないで下さい」理由が知れたのなら、それで良いのだ。もう二度とプラネタリウムに行かないという手段をとった私にわざわざ謝り来てくれた事も、好感というか、むしろ申し訳無く思った。「本当、大丈夫です。わざわざ…そんな…」横を通っていく人達の好奇の視線も恥ずかしくなってきて、ではと手短に話を終えて歩き出した。私達の関係を不思議そうに眺めていた友達の名前を呼ぶと、彼女も慌てて私に着いてきた。


「僕も貴女を泣かせてしまいましたか?」


足早に立ち去ろうとする私を追ってきてそう問いかける彼。振り向くと、いつもの余裕のある表情とは違う珍しい形相の観月くんがいた。「意図せぬ形でそうなったのなら、謝ります」「私、泣いてなんか」「では、貴女は約束のあの日来なかったと?」言葉を返せず黙ってしまったのは肯定以外何物でもない証だった。一歩一歩と距離を詰めてくる観月くんを見て、友達は空気を読んで先に帰って行った。残された私達の間に、しばしの沈黙が流れ、先に口を開いたのは観月くんだった。



「あの場所は、あのプラネタリウムというのは、本来好きに楽しむべき空間です。他人の邪魔さえしなければ、考え事をしようが、泣こうがなんと言われる筋合いはない」



さらに近づく観月くんのピカピカなローファーが視界に入った。


「貴女が泣いていたのも、初めは気が付かない程でした。ただ、目にしてからは毎回気になってしまって…何故あんな所で泣いているのかもわかりませんし。思わず声をかけてしまったんですよ、ボクとした事が何のプランもなしに」  


間近に立つと、華奢に見えた観月くんは私よりやはり背が高くて男の子の体をしていた。嫌でも意識してしまうような対面での会話に、ジワジワと頬は熱くなっていった。


「…貴女はどんな顔をして笑うのだろうと、僕はそれだけが気になって仕方がなかった」


私の知ってる同級生で、こんな極上の口説き文句ともとれる台詞の似合う人など、一人もいなかった。観月くんは、そんな平凡な私の生きる世界に現れた一等星だ。柔らかな笑顔を浮かべて私を見る彼を見たら、ピンと張っていた予防線が弾けて視界は潤みを帯びた。


「僕にもう一度チャンスをくれませんか?」



そう言ってブレザーのポケットから差し出された、今日の17時の上映券二枚。滲む目元を指先で抑えながら、もう一方の手で一枚ゆっくりと引き抜いた。観月くんは、満足そうに微笑んだ。




ジェミニの思惑





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