「えー、本日付けでこのクラスの悪魔薬学の担当になりました。急ですが、まあよろしくお願いします」

それは、唐突に訪れた。

「前任の先生が随分と優秀だったようで、進行も順調ですね」

声が聞こえない。

「では、64ページを開いて……」

身体が受け付けない。

「ちょっと待って下さい! 奥村先生は何処行ったんです!」

勝呂の怒鳴り散らす声さえ遠かった。

「奥村雪男先生、ですか。彼はヴァチカン本部に異動となりました」

ゆらり、と目に映る世界がぐらついた気がした。今、何と言ったのか。クラスにいる全員が驚きのあまり、目を見開いて絶句していた。

ただ一人、兄である燐だけを除いて。



「どういうことや、説明しろ」

授業が全て終わり、いつもなら帰路についている時間帯だが、今日はそういう訳にいかなかった。チャイムが鳴るやいなや勝呂が立ち上がり、珍しく重たい面持ちで俯いている燐の肩を力任せに掴んで、そう問い詰めた。

「説明も何もねえよ。あの先生の言った通りだ」

先生の言った通り、ということは。

「ほんなら奥村先生、ホンマにヴァチカン本部に行ってしもたんか?!」
「ああ。特別任務だとか言ってた」

2年、下手したら3年帰って来ねえってよ。そう言った燐の言葉が更に追い打ちをかけた。どよめく教室。聞きたいことはいっぱいあるのに、口を開いても乾いた音しか出てこない。

危ない任務じゃないの?死んだりしないよね?どうして雪だったの?どうしても雪じゃなきゃダメだったの?本当に帰って来るの?

どうして、私に何も言わなかったの?

「何でや、何で若先生なんや」
「まだ学生やのに……」
「天才と名高い最年少祓魔師は、あちこち引っ張りだこって訳ね」
「小夜子ちゃん、大丈夫?」

しえみが心配そうな表情で私の顔を覗き込む。いつもならここで笑顔の一つでも返して強がれるのに。さすがに動揺が大きくて、どうすることも出来なかった。何対もの視線が注がれる。それぞれから私を気にかけてくれている気持ちが伝わってくるようで、やっとのことで弱々しくも笑みを返した。

すると、いきなりガタンと音を立てて燐が立ち上がった。

「ちょっと来い小夜子」

力強い手にぐっと腕を掴まれる。そして引かれるままに彼の後を付いて教室を出て行った。



歩幅の違いなんて考えていないようにずかずかと前を歩かれるせいで、私は少し小走りになっていた。元々人気のない廊下の更に静かなところまで来て、燐はやっと立ち止まった。

「答えはわかってるけど敢えて聞く。大丈夫か?」

前置きからして、強がったところで無駄だとわかる。燐は私が何をどう思っているかわかって聞いている。私は素直に首を横に振った。頭上で溜息と舌打ちが聞こえ、彼の顔を見上げる。彼は悔しそうに眉を歪めていた。

「悪いな、ずっと黙ってて」
「……ううん、どうせ雪にきつく口止めされてたんでしょ?」
「まあ、な」

ヴァチカンが雪を任務に呼び付けたことより、雪がヴァチカンに行ってしまったことより、雪が私に黙っていたことが何より不満で、不安だった。

そんな大事な話なのに、私は話す価値も無いような存在だったのだろうか。大事だと思っていたのは私だけだったのだろうか。マイナスな考えばかりが頭の中を埋め尽くし、そしてそんな自分に呆れ果てた。

彼が今までにくれた優しさや思い出を全て否定するつもりか、と。

「雪男から伝言を預かってんだ」

びくん、と小さく肩を揺らしたのを見てか、不器用な手が肩に添えられた。彼なりの優しさに目頭がつんと熱くなる。掴んだもう片方の手はそのままに、燐は真っ直ぐ私の目を見据えて言葉を紡いだ。

「あいつの言った通りに言うぞ」

まず、黙っててごめん。前から話は聞いてたんだけど、君に心配かけたくなくて、ずっと言い出せなかったんだ。本当にごめん。

勝手だとは思うけど、一つだけ頼みを聞いてほしいんだ。

僕は君の笑顔が大好きで、君の笑顔の傍にいたいとずっと思ってた。いや、今でも思ってる。

だから、

「笑って、待っててくれないか……」

最後の言葉は何故か、雪の声で聞こえた気がした。世界がだんだん滲んでいく。目の前にいるはずの燐の姿も朧げになって、私は堪えきれずに涙を零した。一度溢れ出すと止まらなくなる。嗚咽を押さえ込むようにしゃくり上げていると、突然優しい温もりに包まれた。視界は白い。燐が抱き締めてくれているのだと気付くまで、数秒の時間を要した。

「我慢せずに泣け。笑うのはそれからにしろ、な」
「で、でもっ」
「こんなとこ誰も来ないし、俺しか聞いてない」
「燐」
「好きな奴を想って泣くことの何が悪いんだよ」
「……なんか私、最近燐の前で泣いてばっかり」
「いいだろ、幼馴染なんだから」

ふと顔を上げると、澄んだ青い瞳に私の不細工な顔が映っていた。彼と同じ優しい光を宿すそれを見ていると涙が更に止まらなくなって。私は燐の胸に縋り付いて、みっともないくらい声を上げて泣いた。



終わるなんて言わないで
まだ始まってもいないのに


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※燐夢ではありません。って注意書きが必要なくらい燐がでばってる気が。兄貴な燐が好きなんです。

2011.11.07
(up:2011.11.23)