ある休日の午後、私は旧館の屋上に来ていた。悪魔薬学の課題について聞きたいことがあったのに、部屋を訪ねてみると、そこには床にへばった燐と暇そうに尻尾を揺らすクロしかいなかった。雪はまた任務で出掛けていた。出て行く時に大量の宿題を置いて行ったらしく、体力宇宙の燐がへばっていたのはそれが原因だったようだ。

俺も行きたかったなーと愚痴る燐と少しばかり話してから、ふらふらと宛もなく歩いていると、此処に辿り着いたのだ。以前、人が来ないから落ち着くんだ、と雪に教えてもらった場所だった。無意識の内に雪を求めているなんて、私はもう末期なのだろうか。

「大好きだ、馬鹿」

誰も聞いてないのに、口に出してみると少し恥ずかしかった。

私は雪が好き。ずっと気付いていたけど、見えないふりをして見ないようにしていた。今の幼馴染の位置は、すごく温かくて柔らかい。離れ難いくらい居心地が良い。雪が好きなのは紛れも無い事実。でも、今の"友達以上恋人未満"のような関係でいたいのも、また事実なのだ。

全てを重ね合わせて考えた結果、私は何もしないことを決めた。何もせず、今まで通りの関係を続けることを望んだ。奥村くん奥村くん、と近付く女の子達に嫉妬しないと言ったら嘘になるけど、もう自分で決めたことだ。想いに蓋はしなくとも、口には出さないでいよう、と。

でも、それでも。

「会いたいって、思っちゃうのよ」
「誰に?」

誰もいないと思って漏らした呟きを拾われて、思わず大きく肩が震えた。誰がいるかなんて振り返らなくてもわかる。今会いたいと頭に描いた人なのだから。

「おかえりなさい」
「ただいま」
「ふふ、顔が疲れてる」
「仕方ないよ、任務だったし」

眉を下げて本当に疲れた様子で、雪は苦笑いを零して言った。初夏の任務後ともなればさすがの雪でも暑いのか、コートは脱いで腕に掛けている。靴音が少しずつ近付く。どさり、と無造作な音を立てて、雪は私の隣に腰を下ろした。

「こんなところで何してたの?」
「ちょっとぼーっとしたくて」
「そっか」

そよ風が柔らかな黒髪を揺らし、端整な横顔が露になる。祓魔師として動いている時の厳しさなんて欠片も無い、緩みきった穏やかな表情に、心臓がどくんと大きく跳ねた。

「兄さんに会った?」
「うん。部屋行ったら床に這いつくばってた。宿題やってたら頭パンクしたって言ってたわよ」
「結構な量置いて行ったからなあ。やってくれてたならいいけど」
「頭から入るの向いてなさそうよ?」
「体で覚えるだけも困るんだよ」

そう言って、呆れたように息をつく。そんな思いきり油断したような顔しないで。好きが止まらなくなるから。心の声なんて届かないとわかっていても叫びたくなる。

「雪、それ」

彼の顔から視線を落としたところで、Yシャツの袖からはみ出ている、赤の滲んだ別の白い布を見つけた。

「怪我したの?」
「え? ああ、ちょっとね」
「ちょっとって……」
「大した傷じゃないし、自分で手当ては済ませたから」

医工騎士である雪がそう言うなら大丈夫なのだろう。私は安心してほっと溜息をついた。そんな私を見て雪は嬉しそうに笑っていた。

「な、何笑ってるの」
「こうして心配しながらでも待ってくれる人がいるのは嬉しいなって、なんとなく思っただけだよ」

何の殺し文句だこの無自覚たらしめ。

「心配くらい普通にするわよ。その、幼馴染、なんだし」

幼馴染。最近、その単語を口にする度に、寂しさにも似た痛みが胸をつつくようになった。こうして度々口にするのは、そこから先には進まない、という自分への牽制と、気持ちが揺らがないようにするためだ。辛くはない。この位置を望んだのは自分なのだから。

「小夜子」
「何?」
「膝、借りるね」
「ちょ、ちょっと、待ちなさ」

私の答えを聞く前に、雪はしれっとした顔で私の膝を枕に地べたに寝そべった。これは、所謂"膝枕"とやらではないですか!私が心の中でかなり動揺しているのを知ってか知らずか、雪は眼鏡を外して本格的に寝る態勢に入った。無理矢理動こうにも、疲れた様子の彼を見ると良心が痛んで動けない。

「ゆ、雪、部屋に戻らないの?」
「……暫くこのままがいいな」
「報告書とか書かなきゃ」
「後からするから」

駄々をこねる子供みたいだ、という本音はそっと胸の奥に仕舞っておいた。どうしよう、と思案している内に聞こえてくる寝息。どうやら彼は本当に眠ってしまったらしい。

「……雪」

返事はない。

「雪、寝た?」

試しに髪を梳くように頭を撫ぜるも、反応は無かった。

最年少祓魔師、悪魔薬学の天才。祓魔師として生きる彼には常にそんな言葉が付いて回る。それは、私なんかには到底理解出来ないようなプレッシャーになるのだろう。だからいつも肩肘張って、どこか張り詰めた空気を纏っている。その彼がこうして私の膝で眠るだなんて、聖十字騎士団の人達の誰も想像つかないはずだ。そのくらい穏やかな表情をしていた。

これが年相応な奥村雪男の姿なんだろうか。こんな姿を見せるのは、私の前だけなんだろうか。そう思うとゆるゆると頬が緩んだ。

もし私が好きだと言ったら、瞼の奥の青色は一体どんな答えを返してくれるのだろうか。

「………す、き」

小さく零れた呟きは、風に掻き消されて空に溶けていった。



意識しちゃってください
私はこんなに君を想ってる


−−−−−−−−−−

雪ちゃんに膝枕してあげたい。

2011.11.02
(up:2011.11.17)