「やあ、なまえ」
「……うわお」

いざくん、とふざけたあだ名で呼べば、案の定奴は思い切り顔を顰めた。そんな顔でさえもムカつくが芸術品のように綺麗で、少しばかり恨めしく思った。

「そのあだ名で呼ぶなって何回も言ってるだろ?」
「うっさいな。言い方マジでシズちゃんみたい」
「殺されても知らないよ」
「池袋の自動喧嘩人間も、あたしには弱いんですー」
「へえ、初耳だなあ」

臨也は自転車のニケツ部分に座ったまま、胡散臭い笑顔を浮かべた。さらさらの黒髪が風に舞う。池袋の外れにいるにも関わらず、街中の喧騒はあたしたちの耳にもよく聞こえてきた。春の陽気にやられた阿呆共が今日も何処かで暴れているのかもしれない。

「ま、こんなか弱くて可憐な深窓の令嬢相手に無下な扱いする人間は、寂れた情報屋くらいしかいないわよね」
「ちょっとその口閉じたらどう? 極道の跡取り娘。いや」

秋葉原の女帝かな、と臨也は挑発するように言った。あたしは慌ててその口を塞いだ。真っ昼間から女帝の名を出されるなんてたまったもんじゃない。それだけで喧嘩を吹っ掛けてくる輩は何人もいる。もしそうなったら、困るのはあたしだけじゃないはずだ。臨也だって、池袋にいるのがバレたら面倒臭い事になるだろう。

「シズちゃんと仲直りしてないの?」
「そもそも喧嘩してないから。向こうが一方的に突っ掛かってくるだけ」
「まだまだ犬と猿か」
「その例え妙にムカつくね」
「猫とサイボーグか」
「明らかにおかしいから」

言ってみると以外とハマってるのではないか、と思ったのだが、当の本人に頭から否定された。うざったいくらい綺麗な黒髪も切れ長の目も、ほら、どっからどうみても黒猫じゃないか。服まで黒いし。いや、猫みたいに可愛い生き物でない事は確かだ。とすればどう例えるのが良いだろう。

「なまえ、変な事考えてない?」
「やだなー臨也さん! そんな事全然ナッシング!」
「……23にもなってそのノリは痛すぎると思うけど」
「黙れし」
「で、何考えてたの?」
「べっつにー。大したことないし、臨也には関係ないから」
「言ってごらんよ」

相変わらず愉快な笑みを湛えてはいるものの、その瞳には有無を言わさない絶対的な力があった。昔からこれには逆らえない。あたしは仕方ない、といったように深い溜息をついた。

「秋葉原、出ようと思うんだ」
「伝説の女帝様が?」
「あんたみたいに立ち回り上手くないの。秋葉原の女帝が極道の娘だってバレてみ?」
「成る程ね。それはそれは、考えたくないくらい面倒な事になる」
「そ。結構面割れてきたし、この辺りが潮時かなって」
「ふぅん。それで、秋葉原を出た後はどうするつもり?」

そう問われて、初めて気付く。全っ然何も考えてなかった……!

「俺さ、たまに君がものすごく可哀相になるよ」
「やっば、マジでやばい! もうアパート解約したって!」
「……」

奴との付き合いはもう大分になるが、ここにきて初めて真剣に見放されたらしい。こんなに呆れた表情の臨也を見るのは人生初の体験だった。

「なまえって、正真正銘筋金入りの馬鹿だったんだね」
「そんな可哀相な目で見るな!」
「じゃあ俺にどうしろと?」
「だーもう! あたしとした事が! 完全な失敗じゃないの!」

自分に腹が立って、傍にあった自販機に渾身の一撃を放った。右手の痛みに頭がだんだん冷えていくのがわかる。衝撃のせいで狂った自販機がお茶やらコーヒーやらコーラやらを次々と吐き出す。臨也はコーヒーを手に取ると、自分が買った物であるかのように平然とそれを口に含んだ。

「泥棒ー」
「壊しといてよく言うよ」
「まあ、それはさあ」
「俺んとこ来る?」
「ほぇ?」

咄嗟に出た素っ頓狂な声に、臨也はふっと吹き出した。らしくない奇声があんまり恥ずかしくて、あたしは真っ赤な顔を隠すようにそっぽを向いた。

「何、その声。なまえじゃない」
「うっさい! こっちも恥ずかしいんだよ馬鹿!」
「で?」
「あ?」
「来るの、来ないの?」

選択の余地がない事は明らかだった。むすっとした顔で頷くと、臨也は対するような無邪気な笑顔で笑った。



新天地に夢想は埋まる



「いーーざーーやーー!」
「うわっと!」
「げ、シズちゃんだ」


100228 あづ