「おはよう、秋也」



そう言った時のなまえの笑顔に、今日が別れの日だなんて事実が一瞬頭の中から吹き飛んだ。なまえはいつも通りのなまえだった。そんなあいつに俺も平静を装って笑い掛けた。








ぎし、ぎし。使い古され錆び付いた車輪が軋んだ音を立てる。そういえば、もうかれこれ10年間いろんな人を乗せてきた自転車なのだと良子さんが言っていた。ここ最近俺や慶時でオイルをさしたり手入れをしているのにこのザマだ。アルバイトで貯めた金もあることだし、そろそろ新しいのを買うか、と呑気にそんなことを考えていた。後ろに座るなまえを思いながら、荷台もつけなきゃなあ、なんて思ったけれど、今向かっている場所と目的を思い出して自嘲するようにふっと笑った。荷台はもう、必要なくなる。



「秋也」
「んー?」
「この先いつもの坂だよね。降りようか?」
「いや、今日こそ絶対勝ってやる」
「無理しちゃってー」
「うっせー! 笑うな!」



目的地ーーうちから一番近い駅だーーに行くには中々に傾斜のきつい長い坂を登らなければならない。今までにも何度かなまえとニケツで通っているのだが、毎回ギリギリのところで敗北している。今日がラストチャンスだ。また今度、なんていつになるかわからない。揶揄かうような視線を背に、俺はぐっとペダルを踏み込んだ。

ぎし、ぎし。錆び付いた車輪が二人分の重みを受けて音を立てる。3月も終わる頃とはいえ、明け方はさすがに気温が低く、吐く息は白い。坂の頂上まであと10メートルを切ったところで、なまえがはっと声を上げた。



「もうちょっと、あと少し!」



どこかしら楽しそうな声色。本当に、いつもと何も変わらない。気にしてるのは俺だけなのかよ、くそ。心の中で小さく吐き捨てると同時に頂上に辿り着いた。

涙が、出そうになった。



「綺麗……」



澄み切った空気に広がる光。朝焼けが遮るものなど何一つない視界にばっと入ってきた。あまりの美しさに動くことができず、声すら出せなくなった。全ての感覚が麻痺したかのように、呆然とこの光景に魅入ってしまっていた。ぎし、とまた微かに自転車が軋んだ。でも、それ以外の音が聞こえない。町はとても静かだった。何とも言えない感情が胸を締め付けてきて、思わず涙が零れた。



「なんだか、世界中に私達しかいないみたい」



さっきまでの楽しそうな様子が嘘のような落ち着いた声で、なまえは小さく呟いた。今、こいつはどんな顔でこの光景を見ているのだろう。振り返りたいと思っても、振り返ることはできなかった。気付かれないように涙を拭って、ペダルに足を掛けた。







「120円になります」



駅に着いてすぐに二人して切符を買った。なまえは岡山までの片道1000円近くするものを、俺はたった120円の入場券を。駅員が一人しかいない上に自動改札でもないちっぽけな田舎の駅だが、路線図だけは割と立派なものを置いてある。なまえが駅員のおっさんと談笑しているのを横目にその路線図を眺めた。こんな田舎からでもいろんなところに通じている。その中でも一番端にある一番高い切符の駅をじっと見つめた。

あいつはこれからそこよりも遠い場所で暮らしていくことになる。住み慣れた土地を離れて、今まで共に過ごしてきた家族や友達と離れて、夢を追いかけるために。そのことを思うと、今の時点で何も行動を起こせていない自分が惨めに思えて、買ったばかりの入場券をそっとポケットに仕舞った。



「秋也、電車来るって」
「ん、わかった」
「じゃあ行って来ます、おじさん」
「気い付けるんだよ」



おじさんは俺にも愛想の良い笑みを向けてくれたのだが、ぎこちない会釈だけ返すので精一杯だった。なまえは相変わらずいつも通りだ。こんな時でもにこにこと笑顔を絶やさない。タイムリミットは刻一刻と迫ってるのに。もう、お別れなんだぞ。何でそんなに平然としてられんだよ。頭の中がごちゃごちゃとしてくる。



「あ」



ごん、という重い音がした。何事かと思ってふと足元を見ると、こないだ買ったばかりの真新しいカバンが改札のところにうまい具合に引っ掛かっていた。申し訳なさそうに、でもどこか面白がるような笑顔を浮かべてなまえがこちらを見つめる。なんとなく目を合わせたくなくて、俺はじっとカバンを見ながら引っ掛かっている紐を外した。



「ありがと」
「おう」



なまえに続いて俺も改札を通る。さっき仕舞いこんだ入場券を取り出し、改札口の木箱の中に落とす。通り抜けると、なまえが電車の前に立って待っていた。



「もう電車来てたのか」
「うん、もう出るって。お客さん私だけみたい」
「そっか」



流れる沈黙。今更何を話せというのか。頑張れ、逃げ出したりすんなよ、お前なら出来るから。なんてのは卒業式の日に三村や杉村や義時と散々言った。かけてやれる言葉はもうないと思う。

あれ、普段どんな話してたっけ?俺いつもどうやって接してたっけ?そんな些細なことがこんな時になってわからなくなるなんて。自分が思ってるよりもこの状況に動揺しているらしい。馬鹿みたいだ。



ガキの頃から好きだったって、そんなことすら言えねえのかよ。



耳障りな程大きなベルが鳴り響いた。もう、出発の時間だ。



「行かなきゃ……」



一瞬だけなまえの表情が微かに曇った。今日初めて見せた寂しそうな表情だった。胸がぎゅっと締め付けられる。やめてくれ。行かないでくれ。大声で叫びたい衝動に駆られるも、理性がなまえの未来を阻む訳にはいかないとそれを制する。そしてなまえは、体に不釣合いな程大きい荷物を提げて、何万歩より距離のある一歩を踏み出した。この一歩で、なまえはこの町を出て行くんだ。自然と顔が俯いた。



「秋也」



澄んだ声で名を呼ばれる。この声が、俺は大好きだった。どんなロック歌手の歌声よりも、なまえの声が大好きだった。



「約束だよ」



耳に馴染みきった声を、しかと心で受け止める。



「必ず、いつの日か、また会おう」



いかにもなまえが言いそうなことだと思った。そりゃあ俺達はまだ20才にもなっていないけれど、努力次第で会いに行くことだってできる。頭ではわかっていたが、それでも、今まで片時も離れず育ってきた幼馴染がいなくなるのはどうにも耐えられないのだ。俺は顔を俯けたまま、手を振ることしかできなかった。



「バイバイ」



なまえがそう言うのと同時に扉が閉まった。弾かれたように顔を上げる。堪えたような笑みを浮かべた顔がガラスの向こうにあった。



「なまえ!」



いろんな音に掻き消されていたけどーー

電車を見送らないうちに駆け出して、改札を通り抜け、自転車に跨った。








ぎし、ぎし。使い古され錆び付いた車輪が軋んだ音を立てる。10年以上使われてきた古びた自転車に跨り、風よりも速いスピードで線路沿いの下り坂をひた走った。前方に見える電車を必死で追い掛ける。壊してしまいそうな荒さで漕ぎ続ける。ここで追いつけなければ、そういう焦りが今の俺を動かしていた。一瞬見せたなまえの翳った表情が、頭からこびりついて離れなかった。早く、追いつけ、頼む。

一瞬、電車と並んだ。



「なまえ!」



声の限りに叫んでも、僅かに見えた栗色の頭が振り返ることはなかった。届かなかった。あと少しだったのに。悔しくて、思わず唇を噛みしめる。自転車を漕ぐ足を止めた。がたんごとんと、電車がスピードを上げて離れていった。

扉が閉まる直前、確かにあいつは泣いていた。それまでは気丈に振舞っていたし、俺も顔を見ることは出来なかったけど、最後の最後で心の揺らぎが声に表れていた。約束だよ。あの言葉はきっと本心なんだろう。夢を追うために一人で旅立ったなまえの、心からの願いだ。



「……約束だぞ。必ず、いつかまた会おう」



あいつの最後の言葉をぽつりと零す。坂道の終わりで自転車を止め、なまえを乗せた電車に向かって、大きく大きく手を振った。また会う日まで、少しの間の辛抱だ。そう自分に言い聞かせて、再びペダルを踏み込んだ。

ぎし、ぎし。さっきよりも軋む音が小さいのは俺一人しか乗っていないからだろう。背中にあった体温がもう懐かしくて、目頭が熱くなってじわりと視界が揺らぐ。好きだと伝えることはできなかった。でも、もう二度と会えなくなる訳じゃあない。いつか必ず会いに行くと約束したのだから。



「世界中に一人だけみたいだ」



賑わい出す町を見つめながら、ゆっくりと家を目指す。ぎし、ぎし。錆び付いた車輪の悲鳴は止まない。






車輪の唄

130522 あづ