「……痛、」


掌の擦り傷を眺めて、小さく呟く。どうやら突き飛ばされた拍子に擦りむいたらしい。血を隠す為に舌で舐めてみると、微かに滲みて余計に痛んだ。ちょっぴり、後悔した。

サッカー部のマネージャーになって早くも1ヶ月が過ぎた。始めの頃は手紙で脅されたり、嫉妬の眼差しを向けられたりするだけだったのだが、3日前に初めての"お呼び出し"をくらった。古典的なやり口だし、用件なんて想像に易い。安直すぎて馬鹿馬鹿しくなり、無視を決め込む事にしたのだが、結果は同じだった。


「マネージャー辞めてくんない?」


それからはもう話は早かった。多勢に無勢でやりたい放題。あたしだって、やられっぱなしで黙っていられる性格はしてない。最後は何とか追い返したけど、意外とダメージを負っていたらしく、一人になった途端に地面にへたり込んだ。

同じような事が昨日、今日と繰り返されて現在に至る。癒えぬ内に傷が増えていた。自分の体よりも他の部員にバレる方が怖い。事が知れて辞めさせられたら、部活停止になったら。そんな事しか思い浮かばなかった。


「とりあえず、部室行こ」


部室に行けば救急箱の類もあるし、今の時間帯だと他の部員は練習中でグラウンドにいるはずだ。そう思って立ち上がった、その時だった。


「……えらい物騒やな」


今一番聞きたくなかった声に、びくりと肩を震わす。いつもは陽気な明るさを持つその声も、心なしか数段低い。恐る恐る顔を上げる。やっぱり、か。


「成樹?」
「その様子やと、初めてやないみたいやなあ」
「あんた部活は? 部長に怒られても知らないわよ」
「はぐらかすなや」


初めて目にする成樹のそんな姿に少し戸惑う。どうしたらいいんだろう。ただそれしか頭に浮かばなかった。


「もっかい聞くで。これ、初めてやないな?」
「別にどうだっていいじゃない」
「何もよくないわ、アホ」
「ちょっと、声抑えて」
「……ええ加減にせぇよ!」


腕を掴まれ、強引に立たされる。成樹にこんな乱暴に扱われたの、初めてだ。いつものこの大きな骨張った手から伝わる優しさが大好きなのに。今はもう何も感じられなくて、顔すら上げられない。


「ねえ、痛い」
「そうやろな」
「だったら離しなさいよ」
「無理」
「だから痛いってば」
「こんなお前見てる方が痛いて言うてんねん!」


怒鳴り声が響き渡る。あんまり吃驚したものだから、思わず顔を上げてしまった。視線が交わる。

ああ、


「怒ってんの……?」
「怒っとる」
「何でよ、あんたが一体何に怒るっていうの」
「自分にや」
「……え?」
「女一人守られへん、そんなアホみたいに不甲斐ない」


自分にや、と成樹は静かにもう一度繰り返した。あたしの腕を掴む手の力も殆ど抜けていて、いつの間にか自力で立っていた事に気付く。彼の手は小刻みに震えていた。あたしには今の成樹の姿の方が痛々しく見えて、そっとその肩に触れた。


「ナギ……」
「全部あたしの責任だから」
「そんなん」
「マネージャーになった時に覚悟してた。こんな目に合う事くらい、ちゃんとわかってた。だからあんたのせいなんかじゃないわ」


さっきまでと違って、真っ直ぐ成樹の目を見据える。澄んだ茶色の瞳には小さく笑うあたしがいた。


「俺、何も出来へんやん」
「ばーか」


肩に置いた手を、次は綺麗な金色に絡ませる。擽ったそうに身じろいだ姿が少し可笑しくて、またふっと笑った。


「あんたは今まで通りでいいの」


あたしの隣で笑っていてくれる、ただそれだけで。


「それだけであたしは満足だから」
「……俺が不満やわ」
「じゃあ、こう言えばいい?」


そばから離れないで。


「……アホ」
「うん、あたしアホだから」
「抜かせこの」
「部活、」
「?」
「行こっか」
「……おー」


さっきの一言で大分機嫌が直ったようで、成樹の顔にはいつものように笑みが浮かべられている。心なしか成樹の顔が赤くなっていたような気がするのだが、今は"気のせい"という事にしておこう。




たった一つの願い事




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