「こっちに来る気はないか?」


向かい合って座る父さんは珍しく真剣な目をしていて、隣にいる母さんも重たい表情をしている。裕也兄さんも口を開かない。皆、ただ黙ってあたしを見つめているだけ。

一筋の汗が背中を伝った。




話は数時間前に遡る。

部活に行くためにグラウンドへと向かっていたあたしの元に一通の電話が入った。ディスプレイには"姫川裕也"と出ている。一緒に住んでいる従兄からだった。


「もしもし?」
「凪紗! お前、今日も部活?」


何処か焦ったような声色に疑問を抱きつつも返事を返す。そもそも、普段なら仕事中であろうこの時間帯に電話が入る事自体がおかしいのだ。何かあったに違いない。


「どうかしたの?」
「叔父さんと叔母さんが帰ってきた」
「はあ?!」


俄かに信じられない現実に、思わず目が眩んだ。

まさか。

まさかまさかまさか!


「父さんと母さんが、イギリスから帰って来たって事よね?」
「ああ。俺も連絡受けたばっかでさ、今仕事抜けて成田に向かってるとこ」
「な、何で」
「わからない。とにかく、今日は部活休め。いいな?」
「言われなくてもわかってる!」


両親の帰国。これはあたしにとって一大事だ。普通の家庭ならばこんな事で騒ぐ必要はないのだろうが、悲しいかな、普通でないのが姫川家。

すぐさま職員室の久原先生の元へ向かい、事情を説明してからそのまま帰路についた。




そして、冒頭に戻る。

相変わらず重たい空気がリビングに漂っていて、居心地は最悪。あたしは父さんを見据え、沈黙を破った。


「日本を出る気はないわ」
「これはいいチャンスなんだぞ」
「七光りに可能性を見ただけの人のところに行けって? 無茶な話よ」
「プロになる気はないのか?」


"プロになる気はないか"

そんな質問をぶつけられた事は今まで幾度となくある。あたしがサッカーを始めたのは5歳の頃。まだ"サッカー"というものが作り出す世界を知らなかった頃はプロになりたいと、そう思っていた。

ただ、桜上水に行って、あたしは知ってしまった。トレーナーという12番目の選手を。その魅力を。


「あたしはトレーナーになる。答えは変わらない」
「昔より環境は良くなっている。プレイヤーを経験してからでも遅く」
「父さんは、どうしてあたしをプロの世界に入れたがるの?!」


苛々が募り、思わず声を荒げる。しまった、と少し後悔したが、ここ数年どんなに主張しても姿勢を崩さない父に疑問を抱いていたのは事実だ。基本的に放任主義のくせに、何故そこに固執するのか。

父さんは一つ、溜息をついた。


「正直、お前程の人材を女子サッカー界から手放すのが惜しいんだ。徐々に人気が上がってきている今こそ、姫川凪紗は是非とも欲しいプレイヤーだ」


前線を退いてからもう4年も経つというのに。あたしはもうあの頃のような輝きはないはずだ。それでも、あたしを欲しいというのだろうか。


「ねえ凪紗。今のあなたには二つの道が可能性として与えられてる。私なら、理由が強い方を選ぶわ」


ずっと押し黙っていた母さんが、ゆっくりと語るような口調で言い掛けた。父さんは機嫌悪そうに眉を寄せている。反対に、母さんは笑っていた。


「あなたの好きにしなさい」
「母さん」
「私も好きに生きてきた人間だもの。女のくせにトレーナーになって、先の読めないサッカー選手と結婚して。だから、凪紗にもしたい事をしてほしいの」
「……うん」


真っ直ぐ父さんの目を見つめる。

もう、文句は言わせない。


「あたしは、トレーナーになる」


負けるもんかと言わんばかりに睨みつける。ここで目を逸らしてしまったら負ける気がして、そのまま時間だけが過ぎる。すると、父さんが声を上げて笑い出した。


「な、何よいきなり」
「わかったわかった。お前の意志はよく確認出来たよ」
「これで安心して懇談出来るわね」


………へ?


「久原が担任だったか? いやー、理解のある奴でよかった!」
「5年振りくらいよねえ。お土産喜んでくれるかしら」
「……どういう事?」


視線を泳がせて逃げようとする兄さんをじろりと横目で咎める。話の流れからして兄さんが企んだのは明らかだった。


「謀ったわね!」
「仕方ないだろ! 保護者代理には荷が重い案件だったし」
「それならそうと先に言って!」
「怒らないであげて、凪紗。元々帰ってくる予定だったのよ」
「ジャンクスポーツの収録でな」


娘の進路はTVのおまけか。

まあ、それもあたしに全てを任せてくれた証拠だと考えると少し嬉しく思える。自分の道を進めと、そう言われているようで、あたしは小さく満足げに笑った。




いつかを手繰り寄せる