読書★宝生葵

夕暮れの校舎はどことなく、儚かった。特別校舎の3階はとても静かで、本当に今日が学校のある日だったのか、と思わせるほどに。
窓から差し込む赤い光が、四角く廊下を染めている。

静かな廊下はどこまでも続いているように思えた。実際には突き当りがあるのだけれど、まるで自分が迷路に迷い込んだような、そう感じさせてしまう雰囲気が、ここには漂っている。

ギィ、と重い、理事室の扉を開いた。その部屋も、秋の冷たさと厚ぼったさが共生しているような空気で満たされていた。窓も開いていない。秋特有の、どろんと淀んだ空気。
どこもかしこも赤い夕日で染められている。黒い革のソファも、机の上の書類も。


「葵理事。」


葵理事は、黒い革のソファに大きく腰掛けて、本を読んでいた。
夕焼けに照らされた横顔。すらっと伸びた、きれいな手や足。そのしぐさがどこか、とても様になっていて。
いつもの振る舞いの適当な、そんな人には見えなかった。

まだ私の存在に気付いていないらしい葵理事は真剣に本を読んでいた。


「葵理事。」


もう一度名前を呼べば、目線をチラリとあげて絡む視線。眼鏡越しの上目遣いが私の心を揺れ動かした。


「入って来たなら声をかければいいのに」
「掛けました。それなのに葵理事ったら、読書に夢中で」
「わりィ。」


照れくさそうにはにかんだりするのだから、その笑顔がどこか無邪気で、私はうまく振舞うことが出来ない。無意識なのだろうけど、この人は私を振り回してしまっている。秋はこんなにも私の視界を変えてしまうのだろうか。


「何読んでらっしゃるんですか」
「『シッダールタ』」
「誰のですか?」
「ヘッセ。」


そういうとまた葵理事は文庫本に目線を戻した。背表紙には、月華修学院図書館などと書かれたバーコードが張ってある。その文庫本に添えられた、きれいな葵理事の手に、私の目線は釘付けだった。指輪がいくつかはめられていて、銀色の光がいっそう映えて魅力的だった。あの大きな手に、包まれてみたいと、心のどこかで思っている。


「葵理事がヘッセだなんて、意外です。」
「…悪かったな」
「ふふふ」


また本に戻る、葵理事の視線。少しは私に眼を向けて欲しい。それほどに夢中になるほど面白い本なのかもしれないけれど、私よりも本の方が魅力的なのかもしれないけれど(それはそれで悔しいのだけれど。)、こっちを向いてくれてもいいのに。その文庫本をおいて、私のことを見て欲しい。

おもしろいですか、と聞けば、今いいとこなんだよ、と少し面倒くさそうに答えた。カマーラ(遊女らしい。)がエロくてやべー、とかなんとか。


「…葵理事」
「…なんだよ」
「…葵さん」
「だから何だって」


少しは私の事を見てくれたっていいのに。そりゃあ、遊女のカマーラ?さん?の方が私より魅力的かもしれない。でも、目の前にいる女性(この場合私)を放っておいて、文章の中の女性ばかり気にするなんて、ちょっと許せなかった。

嫉妬してんの?なんて、またちらりと上目目線で葵理事が言った。口元はニヤニヤしていて、私は恥ずかしさと悔しさで胸がいっぱいになる。
嫉妬していることを当人に知られている、なんて恥ずかしいことこの上ない。その上嫉妬の相手は、本の中の女性なのだし。


「…葵理事が、」
「オレが、?」
「……すこしは、私のことを見てくれたっていいじゃないですか。」
「…支離滅裂な会話だな」
パタン、と葵理事は文庫本を閉じて、ソファにポンとそれを投げ捨てた。クスクス、と笑っている。私は笑われているのだと思い、恥ずかしくて仕方が無かった。本の登場人物に嫉妬なんて、ばかげてる。


「せんせ。」


夕暮れ時もやや過ぎて、暗くなり始めた理事室。葵理事の目線は私を捉えて、そして赤い色で染まっている。その髪の艶も、端正な顔立ちも、全て夕日色。

す、と葵理事の長い手が伸びて、私の頬に触れた。


「せんせ。何でオレが、いいとこって言ったかわかる?」
「…え?」
「主人公シッダールタは、遊女カマーラと一夜を過ごす。」
「…はあ、」
「そのシーンがいい具合にエロくてな。せんせをカマーラに重ねて読んでた。」
「…はぁ。 ッ……!!?」
「もちろんシッダールタはオレ。」


急に顔に血が上って頬が熱くなった。
パクパクと動くだけで声など発せられず、しかし視線を泳がすことも出来ないで、結局私の頬に添えられた手のぬくもりを感じながら、私はまだ葵理事の目線に捕われたままだった。


「顔真っ赤だぜ、せんせ」
「〜〜!」
「可愛い。」
ぐい、と引き寄せられて、至近距離にある葵理事の目線がバチンとぶつかった。


「夜も長くなったことだろ、せんせ」


本にはそういう楽しみ方もあるんだぜ、なんて呟きが耳元で聞こえた。









20091114-20091215
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