I've never loved anyone like this before.
名前で呼ばれるのが、初めてなんてことは言わない。 指をぽつぽつと折る程度の彼氏もいた。 なのに、今頃になって。 あの頃が本気じゃなかったなんてことも無いのに。 この瞬間を待っていたかのような…魔法にかかってしまった。 なんで、貴方にただ名前を呼ばれるだけで、胸が熱くなるのだろう。 なんで、こんなにも嬉しいのだろうか。 「悠里、」 あまく、離れてしまう唇に名残惜しさを感じるも、追いかけなかった。 勇気も無ければ、恥ずかしさが強くてそれを突破するのも難しい。 悠里はただ、触れられていた唇に指をつける。 「……太郎、さん?」 「いや、何もねぇよ」 視線を感じて目を合わせるも、遮断されてしまう。 悠里は一瞬ばかし「何だろう?」と思うも問い返さないでおいた。 指が唇に触れたのは無意識だ。 名残惜しさ、雰囲気に酔いしれた行動なのだと自覚はしているも、悠里は九影がそれに気づかれていないと思っている。 残念ながら九影はそれをあっさり見破って、動揺していたのだけれど…そここそ強引に隠した。 彼が思うに、男として情けなすぎる。 その結果がこの会話だ。 悠里は九影の前でちょこんと向かい合って座っている。 L型のソファなので狭いから、という理由では無い。 悠里が志願した訳でもなく、九影にご指名されたからだ。 拒めるはずなんて無いから、この状況になってしまったまでで、悠里は頑張って拒めば良かったと反省と後悔でいっぱいだった。 触れられている手が、足や腰や背中に移動し、撫でられ、ぞわりとする。 嫌なのではなく、感じていることに恥ずかしかった。 悠里としてはどうにかしてこの場を脱したい。 だけれど、自分の意思が矛盾して拒み、動けなかった。 九影は優しくて、あまい口付けもくれる。 大事にされている感覚に酔ってしまう。 「あの、」 「どうした?」 優しい言葉だと思う。 凄く恐い外面だけれど、心はあたたかい。 話を聞く限り、あまり華道に向かない人のようだけれど、繊細なのは確かだ。 どうして自分に振り向いてくれたのか、と悠里は問いかけてしまうことがある。 今、九影を前にしてる時は尚更。 九影も同じようなことを思っていたりするのだが、互いが知る日は来るか、未定である。 「えっと」 「悠里?」 どくん、と心臓が跳ねたような気分になる。 やばい、どうしよう。 こんなにも病になっていたなんて。 「ぅ、」 「う?」 九影はというと、悠里の表情にハラハラとしていた。 何事にもさほどの動揺を起こさない男が、だ。 それを悠里は自分に精一杯で気づけていない。 悪循環になり、ふたりは互いに、とりで感情に突っ走っていた。 「太郎さんの…ばか」 「ぁあ?!」 ある意味その単語は悠里であろうと聞き逃せない。 カチンときて、つい引き寄せようとした瞬間――悠里がおかしなことをするので、九影は動けなくなった。 「馬鹿って言いました」 うぅっと睨みながら、悠里は両手で自分の両耳を塞いでいた。 半泣き、拗ね付き。 小さい子が何かに脅えているか、逃げたいそぶりである。 何処でそんな業覚えたんだ…と、言わぬばかりの表情であるのは確かだ。 「ゆう、り?」 そんな態度、人生の中で初めての九影はどう対応しようか、唸るほど思案する。 沢山の意見が飛び交い、消えていった。 何も良い案が浮かばない。 そして、どうしてこうなったのかと呆れ、逆ギレすら起きそうになる。 「悠里、」 腕を掴んで解かせようとするも、悠里が首を振って頑なに拒む。 なるべく力はいれたくないと躊躇い、一度溜息。 少し待ってみるも、悠里は首を横に振るだけで、変化は見られなかった。 泣きそうな表情には全くもって敵わない。 九影は少し無理をさせてでも白状させるしかない、と開き直る。 少しばかり力を入れて、耳を塞ぐ手を離させた。 「っ!」 目を見開いて引こうとする悠里の身体を、九影は腰に手を乗せて引き寄せる。 抱き込んで、口元を緩めた。 ここまで来ると、なんだか可笑しくてしょうがない。 「なに泣いてんだ」 九影はぎゅっと力を込めて、離れないように抱きしめる。 もがもがと悠里は抵抗するも、ソファの上に座っているので立っているよりも動きにくい。 少しばかりの時間の後、状況の不利を認め、抵抗を止めた。 「誰が馬鹿だ、言ってみろ」 事によっちゃぁ覚悟しろよ。 言葉はキツイが、口調は優しい。 九影が唯一矛盾させる相手が悠里だ。 その貴重さを本人は気づけていないが。 「前言撤回しませんから」 「ん?」 「ずるいです、ずるすぎです」 きゅっと服の裾を掴み握って、悠里が抱き返した。 「誰が?」 「……太郎さんが」 「俺がぁ?」 女って訳が解らねぇと思いつつ、九影は声を上げる。 多分誰でもごもっともと頷くだろう。 何の予感も無く、いきなり拗ねて怒って、ずるいと来た。 訳が解るはずも無いし、解った方がおかしいかもしれない。 女は何処までも理不尽である。 「ただ、名前…をですね、呼ばれるだけで……えっと、その…痺れてくるというか」 「しびれ、る?」 「太郎さんが呼ぶと、魔法にかかっちゃうというか」 「魔法、ねぇ…」 九影は一度たりとも生きてきた中で「魔法」という単語を使ったことが無い。 それだけ現実染みたというか、妄想もせず他力本願せず、夢を馳せなかった。 なので、若干ながら悠里の思考がわからない。 そんな単語世の中にはあったなぁくらいな勢いにすらなっている。 「『悠里』、がか?」 こくん、と首を縦に振る。 肯定で悠里は再度睨みつけた。 「初めて男の人に名前で呼ばれてるから、とかじゃないですよ?」 「そりぁ…ねーだろなぁ」 男が女の初めてを好む傾向があると風の噂、九影もそれに属しているため、それだったらそれで良いだろうなぁと思った。 ありえねーけど、と反面な否定もあるため妄想までは至らない。 「自分なりに分析、しますとです、ね?多分、その…こんなにも誰かを、愛したことが…えーっと、無かったからなんじゃないかなぁって思うんです…よ」 逆に言えばこんなにも愛してしまったから、こうなってしまった、ということ。 悠里は声にした後、恥ずかしさよりも恋の重さに後悔する。 そんなの、九影が望んでいないんじゃないか、と不安になった。 重いことがどれほど人によるか、悠里でも知らなくは無い。 知ってると胸を張れるほどでは無いけれど。 「……へぇ」 「っ!」 ぞわりと悪い感覚が悠里の背筋を走る。 心配など余計だった…と、悠里は上書きで違う後悔をする。 これはどうも、九影には悪くなかった。 だけれど、悠里に良い影響を及ぼしているかと言われたら否、だ。 「太郎、さん?」 「まぁ、その気持ちはわからなくねぇな」 「あの…」 「悠里」 表情が見えないよう、九影は悠里の耳元に口を寄せた。 笑いが止まらない。 その、名前で呼ばれる感覚がどれほどクるか九影だって知っている。 あれは破壊的だ。 悠里の『太郎さん』は未知だし、何度でも呼ばれたいと思う。 「やっ…ん、ちょっと、えっと、太郎さんっ!」 耳元を押さえて、悠里は九影の中でたじろいだ。 言わなきゃ良かったと更に後悔する。 このまま拗ねておけば良かったとも思った。 「ひゃっ…?!」 悠里が逃げようと力を入れる前に、九影は手を解き剥がし、べろりと舐めた。 耳を、だ。 「悠里」 「た、ろうさんっ…」 やばいやばい、スイッチが入っている。 悠里は心で叫んだ。 肌を重ねるのは九影ならば嬉しいけれど、この流れだと明日は保障されないし、自分の羞恥心がずたぼろになる。 九影の勢いはあなどれないと、悠里自身よく知っていた。 腰から上着をたくし上げるように動く手を、悠里は叩く。 「ダメです」 「断る」 「私だって譲りま、」 声が途切れた。 視線が動く、身体が押し倒される。 座っているよりも、逃げにくくなったのは確かで、九影の意図的だ。 離れるなんて出来無い差があると知っているのに、それでも悠里が逃げようとするから…の決行であろう。 しかも、下から見上げる九影の表情は何処か笑っていて、さぁどう抵抗する?と言わぬばかりの挑戦顔だ。 悠里はムッとして、手を頬に持って行き、軽く抓ってやる。 「太郎さんの馬鹿」 「何度でも言え。今は流してやる」 九影は笑った。 同じことを想ってると言わない口や、言わせない態度に、自分が可笑しくて。 back |