Without notice
始めは思い込みや勘違い、寝起き特有のぼんやりとした思考のあまり、気づこうとしなかった。 シャワーで身体のベタ付きを遅いながらも洗い落とす。 本当はもっと早く洗いたかったのだけれど、いつのまにか寝ていたので致し方ない。 先に起き、芹香を起こしてくれた信行は「コーヒーを淹れて待っているよ」と言っていたし、早く上がろう。 そんなことだけを考えていた。 ふと、腕を上げ、シャワーの栓を締めようとしたその時――やっと何か、気づいてしまった。 どうであれ信行が居る中、全裸で出るのは憚られるので、慌てて服を着てから風呂場を飛び出す。 着替える際、気づいたことを厳重にチェックしてみると、更にやり場の無い怒りを感じた。 否、怒りと言うのは間違えている。 恥ずかしい、困った、どうしよう、色々混ざってどう表現すれば良いのか分からないだけだ。 「信行さん…!!」 「ん?どうしました??」 未だ長く職業としていたホストの癖か、丁寧な口調の信行だが、そこは気にしない。 これから先があるし、芹香もなんだかんだ似たり寄ったりだからもある。 「はい、コーヒー…の、前に。芹香、髪ちゃんと拭かないと風邪を引くよ」 マグカップを差し出しかけた信行の手が止まり、手頃な場所にそれを置いてから、芹香の肩にかかったタオルを取る。 「芹香、」 柔らかく、名を呼ばれ、芹香はつい黙ってしまった。 見惚れた、のだと思う。 少し苦笑混じりに、芹香でも分かるほど、愛おしそうな表情をするから。 それに、何だかくすぐったくて、されるがまま、髪を拭いてもらう。 信行の指は髪だけでなく額や耳までも拭いていく。 優しいから、つい身を捩じらせてしまった。 いつも感じる熱さを思い出しそうになる。 「んっ…」 触れているのだから、そんな動揺あっさり伝わってしまうし、態度もあからさまだとは思う。 こんなイヤらしい子だったかな、と芹香は恥ずかしい気持ちになった。 「……じゃなくてっ!」 雰囲気にのまれていた、もう忘れかけていた怒り。 ダメだ、これはちゃんと言わなければ。 「ん?」 どうしたの?と優しい声。 微笑む信行の表情に負けそうになる。 「あのっ、えっと…うー」 「何?」 言おうとした所で、凄く恥ずかしいことを切り出そうとしていることに今更、気づいた。 なんだろう。 コレもワザと、策略ですかと逆ギレしたくなる。 「つけっ…つけ、すぎ…です!!」 「何が?」 「だからっ……」 ――痕。 最後の言葉は芹香でも自覚があるほど、小声だった。 もごもごと、聞こえているか心配になる。 「……あぁ、はい」 信行は短い沈黙の後、芹香が何を言いたいのか分かった。 カンは鋭いし気配りだってピカイチなので、聞こえても聞こえなくても分かっていただろう。 つい聞こえなかったフリをし、説明してもらおうかという冗談を考えたが、芹香が可哀相なのでやめておく。 「つい、ね」 「ついって量じゃ…」 自分が言った言葉を頭で復唱しているのか、芹香の顔がどんどんより濃く赤に染まっていく。 そんな表情も可愛いと思ったけれど、今それを零したらどうなるか分からないので、黙っておこう。 意識的に残したのだから、謝るのもおかしい。 だから、信行はにっこりと微笑むだけ、言い訳を続けなかった。 「鏡見て、凄くびっくりしたんですから……」 目に見える情景だ。 ワザと首元につけたことはあるが、いつも避けていた。 痕はつけないようにしていた。 だから驚いたのだろう。 ひとつやふたつを大きく越えているし、その反応は間違えじゃない。 「芹香の肌に、映えるな…うん」 綺麗だ。 するりと手を伸ばし、見えている部分と、動かす手で開(はだ)けた服の合間から覗く痕を撫でる。 「信行さんっ!」 反省の色が無いという雰囲気で芹香が声を張り上げた。 「ごめんごめん…次からは気をつけるよ」 君が、見えない、気づかない、ところだけにする、と心で付け加えて。 今もスーツなどのいつも着ている服を着ると見えないようにはしている。 一応モラルは持っているつもりだ、一応。 「怒らないで、芹香」 これは止められる筈が無い。 見て、そう思えた。 今の年になって、阿呆らしい男の感情を理解した気がした。 痕をつけたがる意味を。 癖になる。 どうして若気の至りの時に気づけなかったのだろう。 「どうして、いきなり…その」 つけるようになったのか。 もごもごとと語尾が小さくなっていくが、聞き取れた。 どうしてかなんて、信行にはつけている最中、つける前から気づいていた。 「なんというか……柵がなくなったからかな」 芹香の手をとり、指を撫でる。 暇を持て余すように、遊び触れた。 それに気づかないほど、芹香は目を丸くし、驚いた表情を見せる。 「……え?」 「素直に、何か気にすることなく、芹香を愛してると言えるから、ね」 数ヶ月、芹香にはキツイ思いをさせた。 自分も辛かったけれど、自分が蒔いた種だから、自分はしょうがなかろう。 ただ、芹香にも苦しい思いをさせていることが、一番不甲斐無かった。 それあって、今の信行に至るのだが。 当時は考えられなかった。 未来なんて、掴めないものだと思っていた。 「そ、そんなことで…許しません、から」 流されそうになったと、芹香は慌てて気を引き締める。 そう言えるようになった信行に嬉しくて、それで良いかなと思いかけたが、そういう訳にもいかない。 どうしようか、と信行は信行で考えた。 やめられないと分かってしまった以上、むやみやたらと嘘は付くべきではないから。 「どうしたら、許してくれるかな」 撫でていた芹香の指を口元に持っていき、ちゅっと音を立ててキスをした。 軽く指を噛んで、舐める。 ほどほどにしないと、止まらなくなる。 そう思いながら、手放せなくてつい続けてしまう。 「は、や、…の、のぶ、んっ!信行、さんっ!約束っして、下さいっ!」 ダメ、と拒みきれない声に信行はカチリと踏みとどまった。 情けなくも流れで話を誤魔化そうとしている。 いけない、いけない。 「約束…?」 濡れた瞳で誘うのが上手いな…と意味のわからない感心をしながら、信行は聞き返す。 「つけないで、とは言いませんから…その、ほどほどにってアレ?私、譲歩しすぎ……?」 譲歩しすぎというよりあまいよ、と信行は思いながらもそこに頷きはせず、ただ「うん」と返事し約束する。 「……もう良いです」 止めないと読み取れる表情に、芹香は溜息をついてから、信行に抱きついた。 「信行さんのばか」 言葉とは裏腹、本当は嬉しかった。 痕は束縛で離したくないという主張だと、芹香は思っているから。 重たいとは思えない。 信行は言わないけれど、芹香も芹香で痕を残している。 初めは無意識で、気づいてから意図的に、信行の背中に、爪痕を。 信行の背に回した手で、軽く傷痕を撫でる。 ワザと、本当はお互い様ということが言いたくても、声に出せなくて。 年下のあまえ、それだけで気づいてという我が侭。 「うん、」 ぎゅっと抱き返してくる強さ。 言わないでくれる信行の優しさ。 それが嬉しくて、溢れる想いに、芹香はつま先を伸ばし、信行の首に腕を絡めて、自分から唇を重ねた。 back |