The clouds will be gone somewhere






 頬をつたう、その静かに零れていく涙は、何処に沈もうとしているのだろう。
 声も浮かばず、ただ悲しみ。
 記憶を再生し、無能さを哀れむ。
 渇望、存亡。
 思い出すことすら、罪になる。
 伸ばしても掴めない輝き。
しきりに追いかけ、届かない未来。
 消えてしまった行方に、挫折し、突き進むのを諦めた。
 苦しくて苦しくて、失ったものに無意味な涙を落とす。

 愛していた。
あの日々を。
 尊いものだと気づいていた。
過ごしていたあの時から。
いつかは零れてしまうと分かっていたから。
 失われて圧しかかる、予想以上に重さに、声も出ない。
 縋りつく気力も無いほど、身体が沈む。
 愛していた。
あの日々を。
 大好きだった。
あの人たちが。



――千鶴

 声が、した。
 声が、聞こえた。
 障子の隙間から滑り落ちる月夜の明かりが、眩しい。





 ゆっくりと振り向いて、目を見開き、驚いている。
信じられないとか、想定していなかったとか、忘れていたとか。
どれかは分からないけれど、驚愕しているのは確かだ。
「か、風間、さん…」
 薄く開いた唇から微かに出した言葉は、懐かしい呼び名。
同じ姓になったのだから名前で呼ぶようにと言ってどれくらいが経つだろう。
 それを今更――呼ぶ時がどういう時か、風間は気づいていた。
その昔の呼び名がなくとも、千鶴がどういう気持ちかなど分かるけれど。
「千鶴」
 もう一度、名を呼ぶ。
 今は呼び方に訂正はしない。
それは後で構わないこと。
 一歩足を進め、室内に入る。
 蝋燭の灯火すら無い、真っ暗な部屋。
障子を閉めず、月明かりを残した。
千鶴の表情が見えないのでは意味が無い。
「どう、して……」
 千鶴が紡ぐ言葉に、呆れてしまう。

 何故、など聞く理由があるのか。
 千鶴、千鶴。
 貴様が今、どういう表情をしているか、分かっているか。
 そんな表情をさせている俺の気持ちが分かるか。

「どうしてもあるか」
「っ…!」
 手を伸ばし、千鶴が「来ないで」と拒む。
 瞼を閉じた所為で勢いを増して零れていく涙は絶えず、顎から落ちていく。
 そのぼたぼたと溢れ落ちる涙は、風間への拒絶。
「だめ、お願いっ」
 来たら縋りついてしまう。
 この苦しさを誰かに預けてしまう。
 それが千鶴は、許せなかった。
 この痛みを、許したくなかった。
 これは自分の罪。
 風間に罪を擦り付けたくなかった。
 それが、千鶴の頑な。

 手を伸ばしても、掴めない、過去。
 離れてしまった。
 あの人たちから、私は出来事を追いかけ、終焉を見届けることしか出来なかった。

「ぁっ…う、」
 声にならない嗚咽。
 いつだって突然訪れる。
幸せを噛み締めた時、目覚めた時、縫い物をしている時、風間の帰宅を待つ時。
 回想される。
 千鶴を呼ぶ声。
 時代を掛けていった新選組。
 千鶴は、その手から離れた。
 苦しい。
 悲しい。
 どうして手放した。
どうして離れた。
どうして。
 繰り返し、意味も無く問いただしてしまう。
どうして、と。
 風間との生活が嫌なのでは無い。
むしろ幸せだ。
 その幸せが嫌な訳でも無い。
罪悪感は無いと言ったら嘘になるけれど、生き残った分だけ、幸せになろうと決めた。
 ただ、悔しい。
あの時を思い出すと。
 擦れていく記憶が呪わしい。
 鮮明に覚えていたい。
 大好きだった。
大好きで大好きで、大好きだから。
「千鶴」
 風間の声は優しい。
縋りつきそうになる。
だけれど、それは自分が許せない。
「千鶴」
 必死に首を横に振って、拒む。
「風間っさん、だめ、駄目、来ないで…!」
 優しいから、愛しているから。
 だから、風間にだけは。
「……はぁ」
 短い溜息。
 軽く首元をかき、呆れた表情で風間は千鶴の手前で腰を下ろした。
視線の高さが一緒になる。
「千景、だ」
 千鶴はやっと、自分が何と呼んでいたか気づく。
新選組を思い出した時に起こる現象だとは分かっていないが、いけないことだと思った。
 名前の意味を、千鶴は大事にしている。
 名前はある意味束縛で、離れないもので、離さないもので、うっとおしくも、優しい。
「縋りついて何が悪い」
 風間も新選組に思い入れはある。
 深さとか関係なく、ただ見ている観点が違う。
だから、千鶴は縋りつけない。
 縋りつくのが弱さだと思っていた。
 乗り越えたかった。
 思い出と共にいきたいから、枷にした。
「悪い、です」
 だから今は、呼び名を間違えていたことに謝らない。
それを優先には出来無い。
自分が崩されないようにするので精一杯だ。
「どうして、気づいたんですか」
 千鶴の声はもう、震えていない。
意志の強い瞳、枯れた涙が頬に跡として残っている。
 気配を消していたつもりだ。
誰にも気づかれないようにしていたのに。
 部屋に入ってきた際、風間は驚いていなかった。
思っていた通りという予想済みの表情をしていた。
動転はしたけれど、千鶴は何処かいつも落ち着いているから、見落とさない。
見落とさないように、なった。
「貴様は、気づいていないのか」
 来ないでと千鶴は拒んだ。
それでも、風間は無理に掴もうとする。
 風間からすれば、逃げようとする千鶴を離すつもりは無い。
 離して後悔したのならば、離さないことで忘れさせない。
 千鶴は、後悔を忘れたくないと思っている。
だから、離さないでいる。
それが、思い出す痛みになるから。
 千鶴が望むのならば、かなえよう。
 でも、風間は千鶴が拒んでも、離すつもりはない。
忘れる忘れない、罪、罰、関係なく、風間は千鶴を欲している。
だから、何であれそこは、千鶴の願いでも叶えない。
 離すつもりは無い。
「んっ」
 強引に手で千鶴の頬を拭う。
 身を引こうとする千鶴の身体。
風間は顎を掴んで、引き止めさせる。
「千景さんっ…!」
 離して、と。

「呼ばれた」

「…え?」
「千鶴に、呼ばれた」
 だから来た。
「嘘」
 信じない。
 千鶴は信じない。
 だって、それは自分が自分を裏切ることになる。
縋りつかないと決めた。
これは自分の問題だと。
「嘘ではない」
「嘘です、呼んでなんか…」
 裏切る。
 自分が自分を。
「いつもひとりで泣いていたな」
 気づいていないと思っていたか、と風間が千鶴に苦笑する。
 千鶴は逆にどうして今回も見逃さないのかと思った。
「縋りつくことが俺に罪を被せると思っているような浅はかな知識に呆れる」
「何が言いたいんですか」
 釈然としない言葉に、千鶴が怒りを露わにする。
 その解釈がどう悪いというのだ。
 風間だから見せたくなかった。
気づかれたくなかった。
その意味すらも踏みにじられているような気がした。
 千鶴にとって風間はかけがえのない存在で、愛していて、だから、縋りつけない。
「お前の罪はお前が償うしかない」
「当然です」
「俺はお前の罪を償うつもりもない」
「はい」
 顎に触れていた手が、離れる。
 優しくないような言葉。
その意味を、千鶴は理解している。
この言葉こそが、風間は優しい、と。
 ちゃんと自分でさせてくれる。
本当はその苦しみを分けて欲しいと思いながらも、ひとりで頑張れと言ってくれる。
 その突き放しこそが、千鶴には必要だった。
風間はあまえさせてくれるから。
あまえだけでは、いけないとも思うから。
「だが、俺はお前の罪を償うための意志を欠けさせないことは出来る」
「だから、何ですか」
「ひとりで泣くな」
 どうして、最後は自分で選べというのだろう。
 無理に引っ張ろうとして、最後の最後に力をいれてくれない。
いれようとしない。
「お前の思い出はお前のものだ」
「はい」

「お前は――千鶴は、俺のものだ」

 枷が、粉々になる。
 欲しかった言葉では無い。
 望んでいた訳でもない。
 勇気が欲しかった訳でも無い。
 でも、揺れた。
揺れ崩れ、折れて、割れて、軋んで、散らばって。
「千景さん――っ」
 飛び込んだ。
風間に。
 最後は自分で来いと示す風間に、負けた。
 勢いに圧され、千景は背中から畳に倒れこむ。
抱きとめて、千鶴を庇う。
 ぎゅっと抱きついて、千鶴が喚いた。
「どうして、どうしてっ!貴方は、」
「折れるのが遅い」
 千鶴は頑なで、絶対に罪に縋ろうとしない。
「馬鹿、ばかばか、ばか、千景さんのばか」
 そして千鶴は、風間に縋りたくなかった。
「傍にいる」
 今は暴言も許そう。
 千鶴が折れたことに意味がある。
その逆恨みで嘆いているだけだ。
「傍にいて離さない。だから、」
「だから?」
 何、と未だ少し怒った口調で。
 全く持って頑な過ぎる。
この風間ですらも手をやくほどの、頑固な千鶴。
「それで罪を償え。俺と居ることが罪でいろ、死ぬ時に全ての罪を償え、帳消しにしろ。それまで忘れるな、忘れなくて良い」
「……酷い」
 罪は自分で償え、死ぬまで持ち続けろ。
でも俺の傍にいて、離さない。
 矛盾している。
 それでも、それでも。
 抱きしめてくれる力に想いがこもっていて。
ちょっと苦しいけれど、嬉しくて。
「そう、します」
 風間が枷となると言ってくれたから。
それなら、良い、と思った。



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