Stray cat






 隊士の増加や警備の都合など諸々事情により屯所が西本願寺に移転してから、千鶴の掃除区域は格段に広がった。
前の八木邸も随分広かったが、規模が違いすぎる。
 現在は境内の掃き掃除を基本に――頼まれれば雑巾がけや縫い物、なんでもする――毎日欠かさず、だけれど無理しすぎないよう、心掛けていた。
 サボるという言葉を知らないというより、あまりすることがないから頑張って行っているだけのこと。
食客な以上、致し方ない現状。
これでもあるほうだ、と思いたい。


 今は季節上穏やかな方で、葉っぱや花びらはさほど落ちていない。
 ザ、ザ、ザ。
 千鶴はゆっくりと丁寧に箒を動かす。
一定の間隔で擦れ鳴る音。
柔らかいというよりは硬いけれど、強くはない。
 ザ、ザ、ザ。
 意識はしていない。
無心でもない。
 ザ、ザ、ザ。
 気持ちの問題、綺麗になあれ。
 ザ、ザ、ザ。
 ふと、鳥の囀りが耳に届いた。
 ザ。
 手を止める。
空を見上げた。
 薄い、雲。
 薄い、青。
深いというよりは淡い、空。
 風が気持ち良い。
 今日は巡察に同行してみようか。
そんなことをぼんやり思う。
 視界の真ん中を、一羽の鳥が横切っていく。
 なんだか、ダメだよ、と言われているような気がした。
 ふぅ、と軽い溜息。
 あまり気分が優れない。
 思い出す。
靄を切り捨てることが出来無いのなら、受け止めよう。
断面を無理やり引っこ抜いて、回想させる。

 初めてみた。
自分が笑っているような、人に逢った。
――薫さん
 綺麗な人。
自分とそっくりだとは思ったが、自分が綺麗な着物を着ても、あの綺麗さに追いつけるとは到底思えない。
 変な気分。
 沖田は似ていると言った、千鶴と同じ思いを。
でも、藤堂は似ていないと言った。
何を思ってそう言ってくれたのだろう。
ちゃんと聞けば良かった。
 なんだろう。
脳裏の片隅が、ガサガザと音を鳴らしている。
記憶が抜けている。
いや思い出せないだけか。
前者と後者は全く意味が違う。
 なんだろう。
 これは、何の蓋だ。
開けて良いのか。
それすらも不安で、開く勇気が、力が、それだけの情報が、無い。


「にゃー」

 気の抜けた可愛い声が、耳に届く。
 幻聴かな、と思いながら視線を下ろすと、千鶴の足元にまだら模様の猫が一匹。
 猫の視線が千鶴と合ったと思うような、錯覚。
呼ばれているように、鳴く声。
足元に摺り寄せる人懐っこさ。
「猫……?」
 こんな近くにまで来ないと気づかないだなんて。
どうやって屯所に入ってきたのだろう。
 流石、猫――と意味不明に感嘆する。
「考えすぎ、かな」
 自分に苦笑。
 千鶴は足を曲げ、しゃがみ込んだ。
箒は地面に置く。
「どうしたの、迷子?」
「にゃー」
 相槌のように、鳴く。
 慰められているような気分がした。
「よくここまで入ってこれたね」
 猫は人より侵入しやすい。
本能というのは理性が無い分、推測していない所からやってくる。
 顎を少し撫でると、猫は気持ち良さそうに、鳴いた。
「猫さん。飼い主はいる?独り身でも…飼ってあげられないよ」
 前足と後ろ足の間に手をつけ、抱き上げる。
 ごめんね、と千鶴は心で謝った。
自分も預かってもらっているから、更に預かることは出来無い。
「にゃー」
 分かっているよ、って錯覚。
 言葉なんてわからない。
都合の良い解釈だな、と千鶴は思いながら微笑んだ。
「にゃー」
「にゃー」
 猫の鳴き声をまねしてみると、猫に返された。
 へたくそで似てもいないのに。
相手されているのは千鶴の方、かもしれない。
「にゃー」
「にゃー」
 もう一度。
 面白いな、と思い、もう一度口を開こうとする…その前に――

「相変わらず君は面白いことしてるね」

「……え?」
 声がした。
どう考えても、これは自分に投げかけられた。
 千鶴はハッとして声のする方へ視線を向ける。
「おおお沖田さん?!」
 寺院と庭を繋ぐ階段の所に沖田が腰をかけ、膝に肘を、顎に手を当てる格好で傍観していた。
 手の力が無意識に抜ける。
 猫が「にゃ」と短い鳴き声を上げながら離れていく。
ぴょん、と咄嗟ながら猫は綺麗な体勢で大地に足をつける。
「あ、猫さんっ」
 千鶴が自分の動作に気づいて沖田から視線を外す。
ごめんね、と思いながら猫を見ると、猫は違う方を見て、威嚇している。
「…え?」
 いきなりどうしたのだろう。
そっちの、威嚇している方って。
 猫と同じ方向――沖田がいる方へ視線を戻すと、今度は猫が走っていなくなった。
「あれ?えっと…?」
 威嚇が負けた、ということだろうか。
 あまりにも短い間に猫が離れて、威嚇して、いなくなった。
 千鶴は混乱しつつ、いなくなったことだけを事実として選び抜く。
どうして威嚇したかなんて分かる筈がない。
他のことも考えたって答えは見つからないような気がした。
「……沖田さん、猫に好かれない方ですか?」
 子供に好かれる、と聞いたことがあったので、意外だ。
 置いていた箒を手に取り、千鶴は立ち上がる。
「さぁ?今回はまぁ、僕が悪いかもね」
 ちょっと睨んだだけだよ、と言うのも馬鹿らしくて沖田はあえてそこに触れなかった。
 やっぱり動物は敏感だと思うし、千鶴は鈍感だと思う。
「それと沖田さん。いつからそこに?」
 少しだけ千鶴から近づく。
まだ掃除は終わっていないので、階段に上らなかった。
「さーいつからだろうね」
 そこは忘れなかった、抜けなかったんだ、君にしては珍しい。
 そう思いながら、沖田は口元を緩めて微笑んだ。
「とりあえず面白いこと、は見たんですよね?」
 やっぱりはぐらかした、と思いながら千鶴は次の質問を切り出す。
随分からかわれたので、たいぶ慣れた、少しは免疫がついた。
こういう免疫って本当は必要ないというか悲しいというか。
「まぁ、そうだね」
 にやり、と沖田が笑った。
 不覚、大変失態。
千鶴は「あぁ…」と小さく嘆き、自分に絶望する。
恥ずかしいこと極まりない。
「にゃあ」
「……!」
「君のマネ」
 それと猫さん、はないでしょ、猫に。
 続ける言葉は、ほとんど見たと言っている様なもの。
猫と戯れ始めた頃には沖田がいたということ。
「は、早く声かけて下さい!!」
 沖田にそんな注意しても無駄だと分かっているのに、言わずにはいられなかった。
「君、楽しそうだったし」
「邪魔かなーと思っても、次は是非声かけて下さい!」
 本当に!
 力強く、千鶴は懇願した。
顔が火照って熱い。
恥ずかしくて真っ赤なんだ、と千鶴は理解した。
「はは…」
 沖田が口元を緩め、喉を鳴らし、笑っている。
嘘っぽくない、冗談とは思えない、笑い声。
「恥ずかしいんですから」
「君の思うままのことをしたんだから、恥ずかしがらなくても」
 自然だったよ、と言われても救われない。
そういう問題じゃないと思う。
「可愛かったって」
 えらく傑作という感じに笑いながら、沖田がそう言った。
 どきり、と情けなくも千鶴は動揺する。
こんなの、ただのまやかし、調子に乗っちゃダメ。
そう、心で唱える。
「最近、君さ。元気なかったし、良い傾向だと思うけど」
「………!!」
 射抜かれたような、気持ちになる。
 ハッとした。
目を見開く。
 隠していた訳じゃない、言いたくない訳じゃない。
ただ、少しもやもやしていた。
それを、沖田が、言うなんて。
「いつもへらへら笑ってるのに、ねぇ」
 しみじみ言われても、へらへらってどうなんだろう。
どうしてそういう言葉しか言えないかな、と思うも、それが充分救いになった。
 沖田の言葉に、何故かすっきりする。
真っ白とまではいかないけれど、馬鹿らしい気分になった。
 考えてもすぐに答えなんて出ない。
多分、いつかは転がり込んでくる問題、解決方法。
どうしてそう思ったのか、分からない。
だけれど確信している。
 言葉に射抜かれて穴でも開いたのだろうか。
隙間から零れぬけていくように、靄が晴れる。
「有難う御座います」
「なに。僕、感謝されるようなこと、言ったつもりないけど」
「良いんです。私が言いたかったから言ったんです」
 確かに可笑しいとは思うけれど、言いたかったから言った。
 損は無いじゃないですか、とちょっと逆ギレしながら言葉を紡ぐ。
「相変わらず可笑しい子だね、君って」
 呆れた表情。
 その言葉だけは沖田に言われたくない。
相変わらず厳しくて可笑しくて不思議なのはそっちだ、と千鶴は思っている。
「まぁ……君の事なんてどうでも良いんだけどさ」
 どうでも良くて良い。
自分には充分だったから。
 慣れはたまに恐ろしい。
酷い言葉なのに、どうしてか傷つかず、むしろ優しいと思ってしまう時が来るのだから。
 千鶴は「はい」と素直に頷いた。



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