春のはじまり
-ワルツの終わりに- ※2014年スパコミで発刊のアンソロ「colorful」に寄稿したものになります
スリーポイントエリアから軽く飛んで放たれたボールは、高く上がってリングを掠めず、ネットに吸い込まれる。切るような音も短く、コートへ落下した。 見慣れている光景だ。毎日毎日部員の練習姿を、フォームのチェックもしているから。それでも、真新しいものに見えて。単純に、 「綺麗ね」 ――それに尽きた。 勢いはない。駆けて行く横の動き、速さすら。身近な部長の、絶対的信頼も、ない。 それなのに、肘から手首のなめらかさ、ボールが離れていく瞬間は、音すら微かなほど、静かで。ボールが落ちきるまで、誰にも邪魔されないあの空間を――緑間真太郎のフォームを、綺麗だと、思えた。 ほんの少しの間を置き、すぐ傍の籠からボールを手に取るも、フォームまで構えない。リコから遠くて分かり難いが、緑間の長い睫毛は伏せられ、何か思案している。 シュートに何か、問題、疑問でもあるのだろうか。リコはその思考に行き着くタイミングで、緑間が身体ごと捻り、体育館の扉に向く。 「なにか、」 「……え?」 「何か用ですか。相田さん」 勝手に零ぼれた感嘆は、シュートの音、集中力で聞こえていないと思っていた。気付いたとしても練習を優先し、見向きもしないと、緑間のバスケットボールを通じて推測していたからこそ――振り返るなど予想外で。間抜けな反応しか出せない。 「……お礼、お礼が言いたかったの。緑間君を捜してたら、高尾君に逢って、場所教えて貰ったわ」 「お礼とは」 「今日、助けてくれたでしょ」 秀徳の緑間と誠凛のリコが相見えるなど、大会以外ほぼない。今回は五月の大型連休を利用した、二泊三日の合同合宿という特例である。秀徳は毎年恒例で変えようがなく、誠凛から持ちかけ、こうして形となった。 「助け…いえ、大げさなことを」 本当に偶然、体育館付近の段差に転びかけたリコを緑間が支えただけ。触れたのは右腕だけと、容易く済んだ。細く、軽い、そして柔らかい身体だと気付いた瞬間、リコは離れ、恥ずかしがることなく、「手と腕は大丈夫!?」と問いかけて来た。転びかけた際、地面に広がった紙やファイルなど気にせず、真っ直ぐ緑間を見て。ただ、その思いだけ、真っ直ぐに。 本当に些細なこと。助けたなど大層に考えていなかったし、むしろ自身の扱いが雑なリコに不安を覚えたくらい。 緑間にしては珍しく、その時動いた右手に視線を落としてしまう。痛みや怪我への不安ではなく、感覚を思い出す現象だと、緑間自身理解出来ていなかったが。 「大げさじゃないわ。こけてたら、顔面からぶつけてたもの」 両手で紙の束を持っていたから、離すタイミングが遅いと、酷い顛末になっていた可能性もある。けれど、その分析はどうなのだろう。 付け加えると、紙を回収した後すぐ他者に呼ばれ、だいぶ後になって感謝を述べていないと気付いた。リコにとって、相手が気にかけていないと予測出来ていても、感謝の気持ちは必要だと思っていた。 「入っても良い?」 緑間しかいない体育館。彼が先に練習しており、入るのは憚られる。 律儀に問いを受ければ、緑間も頷けた。 集中力は落ちていない。元々手を抜く愚かしさなど持ち合わせず。指導力のある人がいれば、良い緊張に繋がる。 「……どうぞ」 「ありがとっ」 リコが嬉しそうに、体育館のコートへ踏み入れた。 本当に緑間を捜していただけらしく、靴下のまま、コートにひたひたと頼りない足取りで近寄ってくる。 「あのね、緑間君」 一日通しの練習後、リコは自主練習を認めていない。日向のように黙ってボールを持って行く連中には黙認、気付かない振りくらいするけれど。緑間にその話題を振らなかった。敵対高校であるし、秀徳の監督である中谷の許容と方針だろうから、口出ししない。それでも、言いたいことがある。 「ちょっとフォームの形とってくれる?」 持ちっぱなしのボールを軽く叩かれ、拒否すら聞かない視線で促されると、緑間でも黙って従う。 緑間はリコを黒子から又聞きか、大会で見たくらいだ。それでも試合前後の視線、態度、仕草、瞳の強さで、分かる。距離が遠くとも、話したことすらほぼなくとも。リコが茶化さず、今何をしたいのか、くらいは。 「ちょっと失礼。この時、ここの…」 緑間の腕に手を振れ、思うことをつらつら話してくる。緑間が腕をくの字で上に伸ばした状態、リコからすればだいぶ高く、爪先立ちでふるふると震えながら。自身のことなど気にせず、ただ緑間のフォームについて紡いでいる。 二度目だ。転びかけた人を無視する外道さなどなく、ただ腕を伸ばした――あの時。自分のことより選手を心配した、あの真っ直ぐさを。こうもあっさり、またも垣間見えるとは。 そして一度目に思った、自分の扱いが雑、を訂正する。彼女は単に、バスケットボール問わずスポーツに前向きかつ真面目な人や事を、大切にしているだけだ。自分より優先しているだけの思い入れがあると。 「…り、…ん、緑間君? 聞いてた?」 「……聞いていました」 中谷とは異なる視点に面白いと思いながら、耳を傾けていた。経験者ではないから足りない部分もあるし、選手が見落とす視点も持ち合わせていて。その方針でいこうと考えていないが、検討はする。 「教えて良いんですか」 「自主練見せてくれた…違うわね、勝手に見たお返し」 一般から大きくかけ離れた高身長を見上げるのも苦痛だろうに。周囲に慣れているのか、リコはだいぶ首を上げながら、柔らかく笑った。 真意には真意で返す、はっきりとした態度。損をするかもしれないが、嫌な印象を与えない。真っ直ぐなものに、真っ直ぐで返す以外の方法を、緑間は選べなかった。彼の思う、人事を尽くす、ひとつにすら思える。 「次こそは、勝つから良いの」 「――それは、オレの台詞なのだよ」 明日、練習試合をするが、それとその先の公式を含めた口調に、緑間が乗っかる。譲る訳にはいかない。次こそ、引き分けなどにはさせない。 「…ふふ、やっと聞いた」 「なにがだ」 挑む、強い瞳とは不釣り合いな表情。鈴の音が鳴るように、小さくも、聞き取ってしまう。 「なのだよ――緑間君の口調なんでしょ? なんかおかしいなーて思ったのはそこね。今しっくりきて、納得しちゃった」 冗談やからかいではなく、何故か誇らしげに、リコが笑う。 「年上でしょう、相田さんは」 挑みへの返しにしては緩く、気が抜けてしまう。 緑間は年上に対する敬いを先輩から叩き込まれている。というよりも、本当に轢かれかけたので、馴染ませただけ。 「そうね、そうよね…いや、ごめんね? 火神君とか…ほら、緑間君の学年て、生意気だったり敬語使わなかったり、軽かったり、胡散臭かったりするから」 敬語を後付けする火神を知っている。そして他の、リコが言いたかった相手など、想像に容易い。生意気だったり敬語使わなかったりするのが青峰や紫原、あと灰崎。軽いのが黄瀬に桃井。そして、胡散臭いのが赤司、で締め括る。中学時代が脳裏を駆け、納得してしまう。 一緒くたにして欲しくないが、どう足掻いても元チームメイトかつ同学年であり、彼らのことで否定出来なかった。 「真ちゃーん! 監督が戻ってこいってさ!!」 中谷から「エース様を迎えに行ってこい。時間内に連れ帰えらなかったら夕飯抜き」と鬼の命を受けた高尾は、大声で体育館に入る。「集中力が切れるだろ、高尾」と怒られる行為だが、遠慮すれば使命を成し遂げられない。あえて切らす手段をとってみれば―― 「ほら、やっぱり来たわ」 「うるさいのだよ、高尾」 いつも時間など無視して練習し続ける緑間が、ほぼ片し終わっている。隣には敵対校の監督であるリコが手伝っていて。 一時間も満たない前、緑間を捜していたリコに場所は伝えていた。即向かうだろうから、今はいないと予想していたので、ただただ驚いた。正確には、エース様が居座らせた、追い払わなかったことが重要だ。 しかも、我が儘なエースでも、バスケットボールのことを人任せにしない。片しの手伝いまで一緒にしているなんて。 「そろそろ高尾君が来るって話してたの。だから片付けていたんだけど、高尾君の方が早かったわ」 そう言いながらも、後は戸締まりの確認と鍵閉めだけになっていた。どちらが言い出したのか不明だけれど、高尾の来る時刻すら織り込み済みらしい。 「さ、帰りましょ! 中谷監督にご迷惑はかけられないわ」 点検を三人で分担した後、リコが促す。意見はごもっともなので、男ふたり抗わず従った。 体育館の重たい扉を閉める間際、リコが床に置いてある清涼飲料水のペットボトルを拾う。誰かが置き忘れを見つけたのではなく、自分のを持って帰るような、仕草で。後ろにいたふたりは、量の減っていないペットボトルを凝視する。一日練習後の自由時間とはいえ、夕飯前に持ち歩いていたと捉えるより―― 「真ちゃん、」 高尾が何を言いたいのか、緑間でも分かる。自惚れではない。監督として選手を見て、態度で表すリコならば、無難な答えだ。 「相田さん」 「ん? なに、どうかした?」 振り返ったリコに、緑間から右手を差し出す。高尾は何なのか理解しているので様子を見守るだけ。 「えっと?」 リコはふたりを交互に見てから、不思議そうに首を傾げた。 「その、飲み物を」 何を指摘したのか理解したリコが、ペットボトルに視線を落とし、「うん、えーと…」と失敗した反省の唸りを上げた。 「緑間君への差し入れだった、うん、そう。でもこの時期ぬるくなったのも、ね?」 自主練習なら、何か持って行くべきかと、自動販売機で買って行った。けれど、声もかけられないし、夏前でも、冷たい方が美味しいと思い、渡すのは止めようと思っていたのだ。 聡い一年ふたりに、リコはつい「うちの子たちと一緒にしすぎた…」と誠凛の後輩と比べてしまう。 「貰うのだよ」 「今更だけど、冷たくなくても文句言わないでね」 「言いません」 「じゃあ、はい。貰って?」 「では頂きます……小さい」 伸ばされた手、渡されるペットボトル。一連の動きを見ながら、緑間の口から独り言が零れた。 「あ!?」 緑間に脈略はなかったが、リコの反応も悪すぎだ。睨み殺す勢いの瞳が向けられたら、事情分からずとも、リコへの禁句単語だと察する。 思春期にまっとうな欲を持つ男ふたりでも、小さい意味が胸に行き着かない。加えて、『大きい』例がちらつく故、必要以上に意地を張っているなど露知らず。どう考えてもリコの理不尽な八つ当たりである。 「……いや、手と、か…身長が、」 言うつもりもなかったが、リコの険悪に、つい弁解として声になる。身体、の表現もいけないと勘が冴えていた。 緑間が付け足すと、リコは勘違いだと気付き、すぐ表情を和らげた。 「ごめんなさい。えっと、手はともかく…身長はふたりと比較して欲しくないわよ?」 巨躯と一緒にしないで。リコが冗談として笑う。 「ふたりには姉や妹とか、仲の良い女子とかいないの? ほら、桃井さんとか。女子はみんなこれくらいよ」 視線を落とし物を見る感覚は、家でも、学校でも、よくあることだ。まじまじ見ないけれど、緑間が意識的に気付いたのは、不思議と初めてで。 小さすぎて、でも小柄だけれど強く真っ直ぐ故、大きく見えるリコに、先程から違和感が拭えない。 勘違いしていた。ころころと表情を変える、たったひとつ上の先輩、年相応の女の子がそこにいる。 「……そう、ですね」 緑間の反応が『一緒』への納得だと解釈したリコは、「そうそう、小さく、そう小さくないからね」と微妙に可笑しな返答のみ。 隣にいた高尾は、ずっと黙っていたが、いきなり「うんうん」とワザとらしく頷いてくる。彼が息を漏らすように笑うのではなく、何処か誇らしげに―― 「遅い春だね」 新しい芽を見た。喜びより笑いが勝るのは、日頃の行いの所為か。 高尾が誰よりも、大げさだった。けれど、我が儘なエース様と共に一年走り、あと二年共に前進する。傍観しつつ楽しんでも良いと思う、否、そう思っているから、笑えた。 「そろそろ新緑の季節なのだよ」 真面目な返答に、高尾は目を丸くする。無自覚か、はぐらかしたか。そこはまだ判断しにくい。 高尾はすぐに笑みを作る。これだからエース様は面白い。 「真ちゃん、すっげー的確!」 「まあ笑ってるけど、貶している訳じゃないと思う…わよ?」 「相田さん、高尾は褒めてもいないのだよ」 リコが「ふたりとも不思議なバランスねー」など蚊帳の外と思い込んで可笑しそうにし、緑間は訂正している。 やっぱり微かな差、勘違いではない。 「新緑の季節だわ、うんうん。あ、真ちゃんと相田さん、中谷監督怒るんで、早く帰りませんかっ!」 話題を戻す高尾に、緑間が誰の所為だと睨んだ。 back |