人が集中する土地で情報や流行は生まれやすく、一瞬にして各地へ飛んでいく。勢いを上手く掴み、先を読んで物事を作り、仕事していくもの。
 同分野で先達する母の後押しあり、谷地はなんら抵抗なく都内で進学した。資金の少ない高校の頃から遠距離恋愛を強いられていた赤葦からすれば願ったり叶ったりである。
 谷地が専攻する分野は学問より、技術や腕前、才能を必要とする。スポーツと似ている部分も多く、赤葦はその方面に明るくないが、想像出来ていた。
 何処の分野だって、そう変わらない。遠距離に比べれば、なんてことないと踏まえていた。
 けれども。現実は少しばかり、優しくなかった。



『本当に申し訳ありません…! 私がそっちに行けば良いのに、足を運んでもらうなんて、おこがましいにも程がある訳ですがーー』
 電話越しでも、頭を下げる図が目に浮かぶ。赤葦なりに、濃い時間を共有出来ている証拠じゃないかと思いながら、夜道を歩く。
 この展開は想像範囲内、よくある言動だ。それに突発的に予定変更した訳でもない。数日前に様子を見て決めたこと。赤葦も納得した事柄なので、遠慮する必要ないのに。
 頭ごなしに否定、制御しない。一直線の木兎と共にいるのだ。苦労もなければ、これくらい世話をやく人の方が好ましい。
 余談だが、このことを、自覚したくなかった。けれど、恋人を経て、大人になれた部分である。気付いた木兎は嬉しそうな笑顔を見せるのも一瞬、すぐ拗ねるという不思議な態度を起こしていたが、赤葦は無視しておいた。
「仁花、」
 恋人の名を呼ぶと、謝罪が止まる。怒っている、と勘違いしたのかもしれない。やけに暗く解釈する時もあるから、赤葦は努めて柔らかく声にする。
「俺から逢いに行く権利を奪わないで」
『は、はい…』
 少し脱線するが、白状しよう。赤葦は美術系の学生をなめていた。
 サークルに属さず、飲み会の企画すら滅多と上がらない。アルバイトもしていないなら、時間など有り余っている、と思われがちだ。
 けれど、事実は異なる。しないのではなく、する時間もない、が多いだけのこと。課題や自主制作をし続けるのが当たり前な感覚の人もそこそこ、多彩な趣味を持ち合わせているので、時間いっぱいいっぱい。谷地も製作に大半の時間を使い切る。レポートや試験直前に慌てる学生ばかり見ている赤葦は『毎週提出に追われている』事実に戦いたものだ。
 ただ今回は、谷地ですら学生の平均からすればだいぶ短い夏休み期間中。課題にも余裕があると甘く見込んでいた。創作意欲に貪欲な美術系は、夏休みの課題と自主制作を平行、余る時間などないらしい。休みでもいつもと変わらない日々を送っていた。
 忙しないといえば、赤葦も同じである。毎週提出するものがないだけで、バレーボール漬けの日々。
 どちらも空いている日が限られる。学校が異なり、進む分野の問題でアルバイトもしていないのに多忙。時間のやりくりしてのデートを続けていた。
 今回は、谷地の製作進行から、赤葦が学校帰りに谷地の家に行くことになっている。無理矢理でも時間を捻出しようとした谷地を察知した赤葦が予定を変更したのだ。反対の場合もあるので、お互い様。谷地が一方的に謝ることでもない。
「仁花。今日は製作、どこまで進んだ?」
 気恥ずかしさと反省を含んだ複雑そうな応答をする谷地に、赤葦から話題を逸らす。今日も一日製作にあて、完成間際まで持って行く予定を聞いていたからこそ、効果的だと判断した。
 赤葦は谷地と同じ分野――美術系の進路に選んだ人を知らない。だから谷地を他と比べられないが、『少し一般と異なる』解釈に間違いないと思っている。
『今日はだいぶ進みました! 粗がだいぶなくなって、あと少しです。学校でも、ムラなく塗装出来ましたし、あとは…』
 あっさり切り替わった谷地の口調は、彼女らしからぬ強さがある。
 何と表現すれば良いのか分からない。負けたくない、勝ちたいスポーツの意地と似ている。作るもの、ひとつひとつにプライドと意思があって、時間を惜しまない。自主練習のように。
 でもやはり、似ているようで、全く似ていないような気もする。
 日曜大工を少し齧っていたとしても、バレーボール脳の赤葦は、相槌だけ打つ。谷地を通して少し知識を得たけれど、専門の人に叶う訳がない。無関心なのでもなく、谷地の世界の一部を知れる気がするから、製作行程を聞くのは好ましかった。

 谷地の声を聞きながら、歩いて来た後方を見る。駅から谷地の家までの道のり、もう慣れた場所であり違和感もない。街灯もそこそこあって、真っ暗でもないが、住宅地に入っているので人通りなく。
『赤葦さん?』
「…ああ、ごめん」
 無反応だった、と思って応答すると、耳に不安そうな声色が聞こえた。
『いえっ! その、…赤葦さん。なにか、ありました?』
 今日何かあったのではないか、という心配。一瞬の隙をついてくる谷地の鋭さも驚くが、今回は杞憂だ。
「いや、何も。たださ、それに前から思ってたんだけど…」
『は、はい!』
「夜に逢う場合、俺がそっちに行く方が良いと思っただけ。女の子が夜遅くに外を歩くものじゃない」
 この電話は『さっき終わって、向かっている途中』を報告するもの。これから逢う相手、インスタントメッセンジャーを利用する方が楽だだけれど、やはり声が聞きたい。下心あって、抗わず、電話を掛ける赤葦だった。
『だだ大丈夫ですっ! 赤葦さんに逢う為なら、頑張って、急ぎます!!』
「うん、嬉しいよ。でも、今度から遅くなるなら俺が行くから」
 全く運動が出来ない訳でもないが、直向きで少し危ない所もある。過保護かもしれないが、夜道に予防するのは当然のことだ。
『で、でも! 赤葦さん、うちに来るの避けてるし…今日のことは反省して次こそ、私が行きます!!』
 嫌味ではなく、必死に修正しているだけの谷地の指摘に、内心どきりとした。
 その指摘は当たっている。赤葦は、一人暮らしの彼女という都合の良い項目を、あえて避けていた。
「まあ、そうなんだけど…」
『やっぱり…』
「仁花、あのね」
『いえ! 私がいけないんです。自分の拘りで上手く進められなくて、こう計画崩して…今もこうして待ち合わせじゃなくて、来てもらう形で、赤葦さんと譲り合う、半々になってないです。このお詫びは…』
 否定する前に、谷地から口を挟ませない勢い付きの謝罪が飛んでくる。後半「東京湾に沈むか餓え死か」の選択肢で悩み始めていた。
 何処で遮るか。そう思いながら、自身の行いを振り返ってしまい、割り込むのが遅くなった。
「仁花、」
『は、はい! どちらが良いでしょう!?』
「どっちも良くないし、嫌かな。何処にも行かないで、反省するなら俺の腕の中が良い」
 死んでは困る。最近谷地の妄想というか謝罪回廊に慣れて来たので、都合良く要望を織り込んでいる。すると、
『…え!?』動揺して、意識が切り替わるから、とても上手く行く。
 谷地のマイナス思考も回復、反応が可愛くて赤葦も嬉しい。素晴らしいこと尽くしなので、あえて最後まで待つ。
 今も縁の深い木兎と、そこ繋がりで顔を合わせる黒尾曰く「やだこの男、猛禽」と嫌な笑みを見せられたが、僻だと解釈し、聞き流している。
「急いで行くから、大人しく製作していて」
『はい!』
「あと、どうして家行くの避けてたか、ちゃんと言うから」
 もう、こんなことで悲しませない。そう強く言い切ると、息を一瞬飲んだ後、谷地からーー
『赤葦さん』
「ん?」
『お待ち、してます』
 さらっと爆弾を落としてくるから、年下で謙虚で遠慮がちな彼女に予測不能。癖になる。赤葦は口元を押さえながら、短く頷いた。





 谷地の家は、近年建設されたオートロック式のマンションで、風呂とトイレが別、一人暮らしにしては少し贅沢な間取りと広さを持つ。都心で一人暮らしのひとり娘を心配する母親ーーを考慮すれば、無難な線でもある。
 その広めな谷地の城は、わりと物が少ない。一般的ひとりサイズのベッド。学習机より大きめの机にパソコン、その足下にプリンター。漫画や小説もあるが、ほとんど資料の雑誌や画集ばかりの本棚、横には画材置き場のメタルラック。家具の隙間に、折り畳みテーブルが挟まれている。谷地の持ち物は柄ものも多く、落ち着いた無地色のカーテンと壁紙、家具は意外すらあった。
 クローゼットに押し込めたものあれど、自室に設置されたのはこれだけ。女の子の持ち物としてはやや足りない。
「ひとつめは、仁花の製作を踏まないか心配だから、なんだけどね」
 風呂とトイレとキッチンが隣接した廊下を通り、玄関から一番奥の部屋に入ってぽつりと零す。脈略もなく呟いた赤葦に、谷地は不思議そうな顔で振り向いた。
「え?」
「さっきの。どうして仁花の家を避けていたか、て理由」
「……あ!」
 物が少ないのは、製作スペースを広く取る為でもあるらしい。今はフローリングに絵の具や鉛筆、ヤスリにスプレー缶など幅広い画材と資料、キャンバスや製作途中のものが置かれていた。
 足場は勿論あるが、何が一番触れず避けるべきか、どれなら纏めて良いのか、聞いてもさっぱり分からないので、不安になる。テストやレポート同様、谷地の製作の半分以上を占める課題も落とせないものだ。他者が崩していいものではない。
「ももももも申し訳ありません! かか、彼氏っが来るていうのにこの汚さ! 女の片隅にも置けずに…!」
 課題に集中していたのと、自身が作り上げた部屋の慣れあって、すっかり抜けていたらしい。未だ『彼氏』という単語ですら照れる谷地が現状に気付き、慌て始めた。
 バリエーションが微妙に良い谷地から今度は「錠剤による死でお詫びします」まで来たので、赤葦は苦笑しながら、抱きしめる。これも同じく、先程の会話からの実行だ。
「大人しく、ね」
 色々不便だけど、慣れれば腕に収まる小柄な身体も堪らない。谷地の背に合わせ、少し屈んで、耳元にてささやく。するとビシリと効果音が付いたように固まった谷地の身体を、好き勝手に撫で始める。
「ああああ赤葦さん!?」
 谷地が這うように動く手を掴んで制止させた。動揺なんて今更だと思うけれど。初々しさなんて、男がくすぐるものでしかないのに。谷地は無意識で繰り返す。知らないからこそ、恐ろしい。
 先程の電話から家に上がるまでの短な時間ですら、製作に負けるのは少し悔しいけれど。片付いてない方が、この手の分野に明るくない赤葦でも、必死さを汲めるし、頑張ってるから折れられる。
 加えて、赤葦もバレーボールを優先し、何度もデート変更をしている。努力している谷地に我が儘は言えない。互いに折り合いをつけ、向き合って理解し、協力していかなければならない。
「あ、練習後だから、汗かいてる…こっちこそごめん」
 抱き寄せて、腕の中に収めるのも少し。満足し得てすっかり抜けていたことを思い出す。
 終わった後に制汗剤で整えているが、シャワーには負ける。赤葦は態とではなく本気でどうかと思い、身を離そうとすれば、胸元から「あっ…」と惜しむ声が聞こえた。
 都合の良い解釈な気がする。
 けれど、短い声ですら、感情が読めるようになったつもりだ。間違えていなければ、とっても良い、赤葦には堪らない。
「仁花?」
 一歩下がって身を離すも、腕を掴んだまま。谷地を見下ろして、素直に白状なさい、と言外に含ませた声色を出す。
「え、あ、…う……うう、」
 何処まで察したのか不明だが、谷地も戸惑いながら逃げず、離れない。素直な、むしろ素直過ぎる愛おしい彼女は、赤葦の気持ち通り、素直に口を開いた。健気で可愛いし、少し申し訳なさと可哀想な気持ちもあるし、自身の腕に落ちて行く様は自信に繋がる。
「たしか、に…汗のにおいは、しますけど。私は、それも赤葦さんの一部だと思うので、気にならないですっ!」
「でも俺は気になるよ」
 もう一声欲しい。
 赤葦はそう思って、ちょっとだけ反論する。谷地が驚き、またも困惑、今度は視線を泳がせた。
 弱さというか、あまさというか、捕食を望んでいるような仕草が堪らないし、心配にもなるけれど。自身の満足を望み、優先して、じっと見つめる。
「それでも!」
「それでも?」
「………意地悪です」
「うん」
「嘘つきました、赤葦さんは意地悪じゃないです…」
 聞き慣れた木兎の声「いやー谷っちゃんそれは意地悪通り越したゲスだから!」が耳に届いただけれど、幻聴だろう。
 谷地から一歩詰めて、赤葦の腕の中に再度収まる。
「離さないで下さい」
 これだから、素直過ぎる子は手に負えない。仕向けてはいるけれど、なんだかんだ、転がって落ちているのは赤葦自身な気がしてならない。
「うん、我慢してて」
「我慢じゃないです」
 胸元に顔を擦り寄せ、嬉しそうに抱きついてくるから、堪らないし、困る。嬉しいし、戸惑う。要するに、矛盾する感情で、飲まれる。
「あのさ、仁花」
「はい?」
「製作の方はどう?」
「どう、とは…?」

「俺は仁花の時間、貰っても…良い?」

 大げさかもしれないが、単位を落とせない時期に、時間を割く余裕などない。何であれ、学生は進学または卒業するべきだ。
 緩く遊ぶように大学を満喫する人が駄目とも言い切れない。大人曰く「人生の休み時間」を楽しむ人がいるように、その時間、生き急ぐように何か作り続ける人もいる。谷地は後者だからこそ、その世界を自らの手で崩すなんて許せない。赤葦が避けている理由、ふたつ目はこれだった。
 谷地が赤葦の世界を守り、バレーボールの試合を観に来てくれるように。不明点が多くとも、理解に努めたいし、彼女の世界を守りたい。
 強く想っていても。谷地といるだけで、若いのか、惚れてるからか、抱きたくてしょうがない。触れるとあっさり熱は出るし、抱き寄せ触れて、自身の手で乱したい。
 けれど、それこそ同意が必要だ。互いに望んでこそ気持ち良いものになる。
「え? あ、はい!」
 これこそ汲んでいるのか、気付いていないのか。谷地があっさり頷いて来た。製作が終わっていないのに、だ。
「本当に?」
「説得力ない、ですけど…赤葦さんに逢えるの、楽しみに、励みにしてたんです…」
 右手で谷地の後頭部に触れ、撫でる。ふわふわした髪を梳いて、楽しむ。
「励み、もう満足した?」
 やっぱり言わせたい赤葦は問い掛ける。またも、否、今度は木兎と黒尾の「谷っちゃんに優しくしてねーだろー」とニヤニヤした態度が視えたけれど、幻覚だ。
「してないです」
「うん、俺ももっと励まして上げたい」
「やる気、下さい」
 言い方が微妙だけれど、見上げる瞳が、少し濡れているような。単純に言えば、幼いながら誘う表情がなんとも可愛くて。
 今日はいつも以上に、お互い譲らず、強引だった。あと数時間後に訪れることが根源なのだけれど。
 許しが得た、望まれた。抗う必要などなくなった。赤葦は気が変わらないうちにと、背中、服の裾から谷地の服を脱がそうとする。
「あ、かあしさん! こ、ここでは!」
 ここ以外で、とお望みのようだ。すぐ傍にベッドがある。本当は何処が良いのか分かっていたけれど、あえて外す方向にする。
「俺、汗かいてるから、まず一緒に入ろ」
「え?! あ、そのっいや…うう、」
 嫌だけれど、拒んだら、してくれないんじゃないか。
 そんな不安が滲み出た態度で、谷地が困惑している。本気で嫌なら必死に拒むもの。気恥ずかしい、それかレベルの高い行為と思っているーーと赤葦は、都合良く解釈。歩いても数歩で辿り着く風呂場の脱衣所兼洗濯機置き場の前まで連れて行く。
「はい、ばんざい」
「…は、はい。ばんざい…!」
 諦めたのか、腹を括ったのか。上着を脱がそうとする赤葦に合わせ、谷地が両腕を上げた。
「良い子だ、仁花」
「子供扱いしないで、ください」
「うん、女の子だ」
「ちが…違わなく、ないですけど…いや、違いますよね?」
 谷地から赤葦の服を脱がそうと手を伸ばしてきたので、されるがまま待つ。震える手で頑張る谷地も可愛いが、じれったい。焦らされているのならば、赤葦の負けである。
 待てない猛禽は、谷地の手を掴み、離すと、自ら勢いよく脱いでいく。籠に放り込む仕草に、谷地は男らしい適当さかつ豪快な空気に飲まれ、止まった。
「あか、あしさん?」
 キャミソールから見える下着と、履いたままの下。自身のに手を掛ける余裕と気が回らないようだが、それもそれで谷地らしい。食べて下さいーーとあえて待っているのではないか、と疑問すら思う。誘う行為、谷地にはまだまだ遠いと分かっていても、だ。
「そういえば、風呂場は初めてか」
 これは態と声にして、動揺する谷地の唇を奪った。まだ上手く息継ぎ出来ない谷地に合わせ、何度か離しながら、全身脱がして、雪崩れ込むように風呂場に押し込んだ。







Ask, and it shall be given you.







 風呂からベッド、そしてまた風呂ーーと数時間で二度の入浴を終えた頃には、谷地の瞼は閉じかかっていた。製作に没頭、睡眠時間を減らしてたのが影響している。加えて、いつも以上にあまえた声と仕草を見せてくるから、猛禽は色々放棄して、長く甘やかし返したのもいけなかった。
「あかあしさん」
 整え直したベッドにて、谷地が言葉足らずな口調で呼んだ。
 赤葦は腰掛けた状態で谷地の頭を撫でると、気持ち良さそうに、緩やかな笑みを零してくる。嬉しいとか愛おしいとか、そんな愛の情がはっきりと見えて、少し落ち着かない。試してるのか、と思いながら、「なに?」とだけ反応した。
「あえて…よかったです」
「うん。俺も、嬉しいよ」
 もう日を跨いで、深夜の時間帯だけれど。否、昨日と今日を繋ぐ時間、一緒にいれたことに意味がある。何よりも譲れなかった、お互い想い合って、デートにこじつけた理由。
「…はい……うれしいです」
 赤葦が谷地からの言葉を望んでいるように。谷地も赤葦からの言葉を望んでいる。逢ってすぐには言えなくて、今なら可能な言葉をーー

「誕生日おめでとう、仁花」

 汲み取り、想いの詰まった声を意識して。赤葦から身体ごと谷地に覆い被さり、軽く唇に触れた。先程までの熱なんて嘘のように、柔らかくも短い、けれど優しいものを一度だけ。
 少し鈍くさくて、思考回廊も特殊だけれど、直向きに努力する小柄な彼女は、年齢問わず世話をやかれやすくいーー親しみがあるから。ちょっと誇らしくて、ちょっと妬いて。空しくも譲れない意地があるから、誰よりも一番に伝えたかった言葉を、大切に紡ぐ。
「はい、ありがとうございます」
 ゆるゆると唇が動く。望んでいた言葉をくれたことへの感謝。幸せそうな表情を見せるから、赤葦も意地が昇華出来る。
「俺の台詞だよ」
「…どうして、ですか?」
 ほぼ瞼が閉じている。なんとか、必死に、起きている状態だと分かっている。赤葦が目元にキスをすると、拍車を掛けたようで、あっさり眠りに落ちていく。寝息が聞こえてくるのに時間などかからなかった。
 谷地が望んでいなかったら、ちょっと大変だった、一番始めの権利。それをくれた谷地への感謝だと、伝えることは出来なかったけれど。知らなくて良いとも思う。
 部屋の電気を消してから、ふたりで寝るには些か狭いベッドに、赤葦も潜り込む。谷地を抱き寄せて、同じく眠りにつくことにした。













「なー赤葦。先週の…えーと水曜か。急いで帰ったけど、なんかあったー?」
 動物的本能、直感、第六感、とにかく鋭い部分を持つ人だと分かっていたし、慣れている。だから谷地の誕生日前夜、逢う為に急いでいた態度への指摘も、やや目を丸くする程度で済んだ。微妙に癪だが、尊敬や憧れ、呆れともっと大人になって欲しい願いもある木兎に白状するくらいなら良い。木兎の向かい席にいる黒尾の前で言わなくても、と思うだけ。
 前振りだけで、黒尾は「いーネタ転がって来た」とニヤニヤ笑っている。嫌な予感しかしない。そして木兎が絡む勘を、外したこともなく。赤葦は隠さず、溜め息を零した。
「なにかありました」
「へー何あったの、赤葦」
 鋭い野性的な木兎は、基本考えずに、問い掛けてくる。ネタとすら思わず、ただ思っていることを声にしている程度。案の定食い付いて来たのは黒尾だった。
 他校ながら仲が良く、今でも飲みの席で重なる。連れてこられた運のない月島もいるが、こちらは様子見の視線だけ向けていた。
「勿体ないので言いません」
「勿体ないときたかー木兎は知らねえの?」
「知らないから聞いたんだろー?」
 赤葦を崩すのは、そこそこ難関だと黒尾も理解している。期待薄い木兎に振っても、効果なし。べたべたすると嫌がる月島へ態と視線を向けた。
「………はあ、」
 狙いを定められたと気付いた月島は、自己防衛として様子見を止めたようだ。溜め息に、「利用するの止めて下さい」を含ませる。
「良いじゃん、ツッキー」
 月島なら嫌がって即折れる、と理解している黒尾通りの展開になっていた。
「赤葦さんから聞く方が、良いんじゃないですか」
 黒尾の性格を読み取って、月島が的確に突く。
「そうなんだけどさ〜こいつ谷っちゃんのことになるとこうだから」
 赤葦の中身は、木兎とバレーボールと谷地で出来ている、と思っているらしい。あながち間違えでもなく。木兎が問い掛ければ必然的に、谷地しか残らない。答えはほぼ出ていた。
 湿度のようにじめじめ食い付いてくる黒尾への対処は、簡単だ。物理的痛みを食らわすか、白状して話すか。もうすぐ練習試合があるので、月島は妥協して後者を取る。
「誕生日です」
 自身のメッセンジャーバッグから携帯電話を取り出し、あるアプリケーションを起動した。
「証拠にどうぞ」
 漫画にある言葉のフレームが幾つも並んだ画面を、黒尾に数秒だけ見せる。そこには9月4日、お祝いの言葉が幾つか続いていた。
「おー谷っちゃん誕生日だったのか…ってお前ら仲良いな」
 普及しているもので、黒尾はすぐ解読する。短く頷き、態とではなく素の反応まで加えて。
「山口が言わなきゃ忘れてましたよ」
 高校の2年と3年時は、自主練後、5人並んで帰り、ささやかながら祝ったものだ。忘れていたのも事実だが、月島なりに懐かしさを思い出す言葉でもある。
 卒業した今でも、烏野の同期5人の会話は長く続かないが、時々更新されていた。黒尾に否定も出来ない事柄なので、曖昧な相槌だけする。
「あー黒尾くん?」
「なに、木…あーうん、オッケー。兄さん、生ビールふたつー!」
 月島に視線を向け、白状させることばかり意識し、赤葦まで行き届かなかったのが悪い。
 嘘くさい呼び方で振り向かせる木兎に、怪訝そうな反応を見せるのも一瞬。すぐ察した黒尾は、店員に追加注文をして話題を逸らす。
 赤葦の表情が変わっているからではない。むしろ変わっていないから、恐い。
 「あ、これ止めとこ」と踏んだものの、木兎の忠告の遅さに腹立つ。黒尾から八つ当たりといて木兎の足を蹴った。脛に攻撃を受けた木兎も蹴り返し、大人げなくふたりして机の下にてバタバタ動く。
 数年の慣れか、木兎はすぐ赤葦の微妙な変化に気付いたが、黒尾を止める術も知らなかったので、遅くなっただけのこと。止めただけマシと思って欲しい。八つ当たり止めて、痛いし、オレの所為じゃないし!ーーに尽きる。
「行儀が悪い」
 それを赤葦の一声で、即時解散。木兎と黒尾はすぐに身を小さくした。

 赤葦の向かい側の月島は、やや優勢な表情を浮かべている。
 本当に同期で仲間なので、やましさはない。ただ惚気も癪に触るだけ。いつも平然と落ち着いている赤葦が動揺している姿を見るのも悪くない。
 携帯電話のイヤホンジャックなんて邪魔だと思う月島ですら、外さずにいたものを見せつけるように。態と仕舞わず、テーブルの上に置く。
 赤葦が知らない訳ない。卒業後、谷地が「お揃いで作りました!」と同期4人に渡して来た、烏野を意識した烏のマスコット付きイヤホンジャックのことを。谷地の性格からして、素直に話していると、容易く想像出来る。
 月島らしくない、画面を見せるという行為も、ここから来ていた。携帯電話へ視線を向けさせて。ゆらゆらと宙に揺れる、丸くて黒い、烏の立体物が付いたイヤホンジャックに、気付くよう。
 内心、黒尾とは異なる静けさで喧嘩を売る月島に、木兎は戦いた。
「なあ、黒尾。ツッキー、黒尾に似て来た?」
「俺そんなあくどくないから」
「いやいや、またまたー嘘はよくない」
 いまいちよく分かっていないが、黒尾とは別で質が悪いと察したようだ。木兎は店員から生ビールを受け取りながら、苦笑気味に返せばーー
「木兎さん、黙って」
赤葦からも八つ当たりを食らい、しょぼんとしながらジョッキを口に付けた。



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