Love will find a way.






 花は微妙な気持ちで、傍にいる仲謀を盗み見る――も、気配の揺れか、行動があまいのか、すぐに目が合った。
「聞いてんのか、花」
「はい、仲謀先生、聞いてます」
「先生、てなんだ…まあ良い。覚えた部分、暗唱」
 手厳しい指示に、花は「鬼がいる…!」と縮み上げた。
 彼女の手元には、行事内で規定された動作や言行、服装、道具など、礼をまとめたものが置かれている。全四十九篇の網羅は時間を有する為、各篇独立を利用し、幾つか選び抜いているが。
 花が、郷に入っては郷に従えの精神で学び始めて、数ヶ月。始めは物書きで、徐々に難易度を上げ、歴史書に突入するところで参考書なるものを頼んでみれば、仲謀直々――心狭き「俺以外のふたりきりなんて認めるか」思考が原因だ――の教えとなったが。花は畏まった文面に、手こずっていた。
「うう…暗唱、はい――」-------
 覚えた部分を、やや天井を見上げながら声にすると、外れていないが幾つか足りないもので終わる。苦笑で誤摩化そうとする花に、仲謀から即、駄目出しと補足が入った。
「……仲謀、厳しい」
「あまく教えたって意味ねえだろ」
 ここのところずっと、花はこの書物と向き合っている。呪いの如く、夢にまで出てきた。現状の景色ではなく、、手放した時間を映像のように思い出す――そんな夢を。
 手放した時間、世界。友達のかなと彩とで、配られたプリントと睨み合いっこしていた。三人みな答えが一致せず、笑って、困って。学校では些細な、気に留めない一瞬。
 でも、今やそれは、沢山の思いを捨て、ひとつの想いを選んだが故、懐かしいと表現する事柄になっていて。
 夢なのにも関わらず、泣きたくなった。手放したのは花自身であっても。大切なものに変わりないから。
 それでも、瞳に仲謀を映すと、選択に後悔はないと思え、揺れる心も静まる。
 なにより離れることを恐れた。傍にいたいと願う相手が隣にいて、安心出来る。
 椅子に腰掛ける花は、立ちっぱなしの仲謀を見上げていた。並んだ机の隙間を縫うように歩く教師を見ている気分になり、ふとありえない光景を馳せてしまう。
 あの生まれた世界で、仲謀と一緒に過ごせたら、どうなっていたか。勉強会をしても、年下の仲謀から教わっていそうだ。花はそこに思い至ると、別の意味で辛くなる。
「花?」
「……なんだろう、泣きたい」
 学校の成績は真ん中。本当に平均点ばかりとっており、褒められない、けれど馬鹿にもしにくい、微妙な順位にいた。だから、理解力も早くなければ、遅くもない。恋人とは言え、多忙な、しかも君主に教わるなど、申し訳なさで一杯だ。
「は!? おい、そんなにきつかったか」
「え? 厳しいけど、大丈夫だよ。仲謀の教え方、上手いし」
「教わったのを、そのまま倣っているだけだ」
 仲謀は孫家のお坊ちゃんだ。花が知る単語を使用するなら、優秀な家庭教師に習っていた。けれども、それを覚えていて、かつ自分なりに置き換えられる技術は、難しい。やはり褒められる部分だと、花は思う。
「仲謀の時間奪ってるよね…うん、少しでも早く覚えるよう頑張るから。もう少し付き合って、仲謀」
 両五指を握りしめ、気合いを入れる花を見た仲謀は、「花が訳の分からない方向で意気込み始めた…」と呆れた視線を雑えてしまう。しかも、何一つ自身の口から発していない内容だから困る。
「おい。時間のことなんて言ってねえだろ」
 見下げる仲謀が、花の頭をこつんと叩くのは容易く、受け手も無防備に痛みを食らう。
「俺様が教えると言ったんだ。花は気にするな」
 むしろ、一緒に居られる口実が出来たと喜んだ。子敬や大喬と小喬には読み取られていたようで、にやりと嫌な笑みを零され、理不尽な怒声を返しているが。
「うん、有難う、仲謀。それと…あの、ね?」
 何か分からないことが、と視線を向ければ、こちらの様子を窺う瞳に気付いた。仲謀は違和感を覚え、深読みしたくなる。否、その勘は正しかった。
「終わったら、ご褒美が欲しい、です」
 褒美。君主である仲謀だからこそ、よく理解している。
 それは頃合いと与えるものを、よく考えなければならない、厄介さが付き纏う。でも、使用方法さえ上手くいけば、とにかく著しい効果がある。
 部下への手段としてなら、納得がいく。でも、花の想像する褒美は、それに当てはまらない。足りない頭脳で頑張るから褒美をくれ、という意味も読めるが、仲謀は眉間に皺を寄せ、抗う。
「俺が貰うものだろ。今、そんなにつまんねえか」
 花から『教えてくれて有難う』の褒美を貰っても良い気がすると、仲謀の反論。
「つまらなくないよ! 花嫁…修業として、大事なことだし。ただ、アメとムチのアメが欲しいなー…とか」
 仲謀の傍で未来を馳せることだけは、花の中で明解だった。共に生きることを、仲謀の母に伝え、婚儀を認めてもらった後だから、花嫁修業の自覚も出来ている。でも、いや、だからこそ、褒めて欲しい時もある訳で。
「ふうん……なにが欲しい?」
 あまやかしたい気持ちはいつもあるし、物欲のない花の要望に興味もあった。だからあっさり折れたのに、頷くと思っていなかった花が「聞いてくれるの!?」と声に上げ、目を丸くする。そのあまりにも素直すぎる態度に、仲謀は再度、花の頭を叩いた。
「ああ、交換条件で、だ。俺にも褒美を寄越せ」
「私に、出来ることなら」
「花にしか出来ねえよ」
 勉学に褒美など邪道だが、べた惚れの仲謀には避けられない。承諾してしまう。
「終わったら、花から俺に口づけな。深くて濃いの」
「仲謀が先に言った! しかも難易度高い…!!」
 ありえない、と花が驚愕の表情を浮かべながら頬を赤らめる、なんとも器用な動揺をするから。仲謀は可笑しくて、身を屈め、花の頭部に唇を落とせば、花が反射的に見上げた。その顎に手をかけ、今度は唇を重ねる。
 触れるだけで止めたのは、教えることすら放棄し、欲に溺れてしまうと、予測出来ていたから。
 離れた唇の隙間から、名が紡がれる。無意識で呼んでくる花に、試されていると思いながらも、仲謀は顎にかけていた手で、頬を撫で上げた。
「で、花は?」
「……ひざ、まくら…して欲しい、です」
 膝枕が何か、仲謀は分かっている。あまえる手段のひとつとして使用しているからだ。
「俺がか? 男のなんて硬いぞ。どうしてまた…」
 惚れた女の小さな願いを叶えてやりたいが、己の発想を踏まえると、柔らかい太腿でこそ意味があると思えてしまう。つい、それで良いのか、と問いかけた。
「大喬さんから、昔、してもらったって聞いて、良いなと思ったの。だから、一度でい…えっと、仲謀?」
 膝枕の要望を切り出す手段として、『褒美』を利用したにすぎないと、仲謀は分からされた。すると、気が抜ける。あと、聞きたくない過去の出来事も耳に入った。期待しすぎた感情を抑え、身を引き締め直す。
「分かった。俺の膝枕で昼寝も付けてやる」
「やった! 子守唄も歌ってね」
 調子付いたのか、元々それも要望の一部だったのか、花が目を輝かせ、加えてきた。そしてもう一度、両手をぐっと握りしめ、気合いを入れ直している。
「やっぱり、やる気スイッチは必要だよね。頑張るよ、仲謀!」
 いつでも勉学には真面目に取り組んで欲しいし、「やっぱり飽きてんじゃねえか」と呆れるし、「すいっち、てなんだ」とも悩むし、「俺の要望、忘れてねえか」などと懸念するけれど、直向きに花嫁修業をする花が、可愛いと思えて仕方がない。惚れた弱み、恋は盲目だ。
 仲謀は溜め息を零しながらも、花の握り拳を解かせ、少し強めに指を絡める。
「約束、だからな」
 俺のも叶えろよ。
 忘却の逃げ道など作らせずに、念を押すと、花の身体が微かに震える。意識した態度に気を良くした仲謀は、絡めていた指を解き、「次、読むから復唱な」と投げかけ、花の先生を再開した。



***



 気配や物音などの前兆はなかった。身体が底から浮上するように、目覚め、重たい瞼を開く。
 花は寝ぼけ眼で、ゆっくりと起き上がる。
 電気が通っていない、発明されていない時代。闇を実感し、明りの偉大さを知ったのは、ほんの数年前。蝋燭を付けるほどの用もないので、少し離れた窓から零れる月光を頼りに、物の輪郭を捉えた。
 まだ陽が出ていないのか、外は暗い。身体が、手が、布の上を滑れば、擦れる音ですら耳に届く、静けさ。
 起きる時間ではなかったと思いながら、ぼんやりと窓の外を見る。
 すぐ寝転がれば良い。そうすれば、朝までゆっくり眠れるだけの時間はあると推測出来ていても。寝転がることが出来ずにいた。
 微かに溜め息が漏れる。
「……はな?」
 腰に引っ付いてくる腕の力が強い。驚きながらも怯えることなく視線を落とせば、隣で寝ていた仲謀と目が合った。
「仲謀…起こしたね、ごめん」
 もともと身の危険がある地位にいるからか、仲謀の眠りは浅い。微かな気配ですら、目覚めてしまう。それでもゆっくり寝かせてあげたいと、気をつけていたのに。もっと慣れて、もっと上手に、目覚めないと。
「いや…怖い夢でもみたか」
 危険がないと分かっているので、仲謀の話し方も鈍い。
 しかも、猫のように花の太腿に擦り寄せ、心地良さそうにしている。覚醒させる気なく、まどろみに浸かったままでいるようだ。
「子供じゃないよ、もう」
 実際、仲謀のところへ身ひとつで嫁ぎ、少し経つ。妻になったのだから、子供に分類されないだろう。
 そう、言葉通り、花は心と身体しかない。居候の頃から手荷物は少なく、仲謀が手配した侍女数名だけ連れ、後宮に入った。身分も財産も、家族も、友人も、学校も、この世界に飛ぶきっかけの本も、全て置いて、仲謀の傍にいる。
 不安がないと、言えない。仲謀に捨てられたら、何処に行けるか、考えつかないから。
 恐くないとも、言えない。身と心だけでどうにかなる、地位の人ではないから。
 それでも、仲謀が駆ける先を、一緒に見たいと願った。そして仲謀も傍にいることを望んでくれた。だから、身ひとつで嫁ぎ、仲謀と同じ寝台で寝ている。
 あっさり引き寄せてくる腕が、力が、こんなにも安心出来るなんて、知らなかった。どきどきして恥ずかしいだけだと思っていたのに。
「大人になったら、みないのか…」
 はぐらかし方に失敗したな。花はそう思いながら、暗闇に溶け込まない、仲謀いや孫家の特徴とも言える髪を撫で続ける。
 仲謀に嘘はつけない。否、つかないと決めた。だから、はぐらかそうと思っていたのに。思いが隠しきれていなかったらしい。
 怖い夢を見た、のだと思う。曖昧なのは、ほとんど覚えていないからだ。けれども、すぐに眠ってまた夢を、とも思えなかった。もう一度は見たくないと、心の片隅で怖がった。多分、そのほんの少しの拒絶が、確信に繋がり、眠りを拒んでしまった。
「……花、」
 腰に回っていた腕が解け、仲謀が身を起こす。気怠そうに髪を掻き上げながら、目を合わせてきた。
 面倒くさそうな表情はない。どちらかと言えば、どうしようかあぐねいている。何に悩んでいるのかと考えるのも一瞬。肩を掴まれ、勢いよく引き寄せられた。仲謀の胸元に収まると同時に身が傾き、寝転がらされる。
 仲謀に抱きしめられたままなので、痛みはない。ただほんの少し、瞬き程度の時間だったため、驚きの方が強かった。
「俺様が傍にいる」
「知ってるよ。いなきゃやだ…すごく、嬉しい」
 項から後頭部にかけて、髪をすかれる。大きな手が、落ち着かせるように、背中を撫でて。ゆっくりとした鼓動が伝わっているような気すらして、心地よい。
 一緒に眠ることがこんなにも愛おしく、安心し、嬉しいのだと知ったのは、婚儀を済ませてから。もうひとりの部屋で寝っていた昔に、戻れない。
「可愛いこと言って、流そうとするな」
「事実だもの」
 話す気がないと言いたいのだろう。気付いていても花は苦笑するだけで、何も声にして返さなかった。
 怖い夢。多分、怯えるものではない。物騒に表現するならば、殺されそうになるとか、崖から落ちるとか、そういう身の危険なく。もっと、ずっと前から、仲謀を好きになる前から、不安だった、記憶の損失。そういう精神的、怖さ。
 この世界に馴染んでいくと、生まれた世界の感覚が薄れていく。
 どれかを選ばなければならない、それを突きつけられて。それを夢にみる。後悔のない選択だからこそ、置いて来た家族や友人、学校を懐かしむことすら、やり場のない思いが募るだけで。
 答えは出ている。薄れていく昔の、尊い記憶を大事にしていくだけのこと。心のあり方を、何処に落ち着かせれば良いのか、まだ分かっていないだけだから。仲謀に相談しない。
「仲謀、子守唄うたって」
 婚儀より前に、歌ってくれた以来、花のお気に入りだ。夜分遅く、目覚める時間ではないので、耳元にて鼻歌にすらならないもので良かった。仲謀が落ち着かせるように、あやすようにしてくれることが特権だと思えるから。気持ちで十分。それだけで、嬉しさとあたたかさに溢れ、眠たくなる。
「花、今度お前が歌えよ」
「うん、膝枕もつけてあげる」
 了承の意味か、背を軽く叩かれた。そして息が耳朶をくすぐるくらい、身体を抱き寄せて。微かに、聞こえてくる、歌。
 本当は寝かせてあげたいと思っているのに。眠らせてもらっている、とやはり反省しながら。離れないように引っ付けば、仲謀の鼓動や匂いを感じる。
 ゆらりと、まどろいが降りて来て。歌にたゆたい。
「おやすみ、仲謀」
 静かに、瞼を閉じる。一瞬だけ「おやすみ、花」と、歌が途切れたけれど。すぐに再開し、落ちるまで、歌が途切れたと思うことはなかった。



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