Fortune favors fools. この世界――という表現を使用するのも、理解出来るのも、花しかいないだろう。俺にはさっぱりな言回しだが、容易く軽いものでないことくらい分かっている。 家族や友人の傍から離れ、後ろ盾のない場所に身を置くことは、無茶か勇気、どちらか。大半が前者を取る。だが俺は、俺の傍にいると決めた花を――肯定する。 沢山の選択を捨て、ひとつにした想いに対し、俺は全力を持って、これで良かったのだと思わせられる行動をしよう。 そして、花の小さな手、細い腕と腰、柔らかな髪、優しい表情、まっすぐな感情、あまい瞳。そして、俺を想う気持ち。欲張りなんて言わせない、全部全部、守りたい。 子供の頃の願いと変わらない、無垢な気持ちで。花が想ってくれているように。ずっと、傍にいたい。 そう強く想っているのに――最近の俺は、色々な意味で負けている気がする。 目に飛び込んで来たのは、花の後ろ姿だった。 扉の開閉音と投げかける声に、振り返える動作。ふわりと揺れる髪に、綺麗だと思ったのは――完全な欲目、恋は盲目だと分かっていても、抑え切れない。 「…あれ?仲謀、どうしたの?」 不思議そうなのは、日中やって来たから。仕事はどうしたのだろう、という疑問。 「休憩だ」 扉を閉めた所で、一度止まる。少し離れた位置から、花の全身を見たいという悪趣味な発想が拭えなかったからだ。 「そう、なんだ…ちょっと驚いた」 花は邪な思考に気づかず、驚きの表情を崩し、笑みを零す。 歓迎の想いが、笑顔だけでありありと分かる。その素直さを含め、向けられていることの幸せを堪らなく感じた。 「俺も驚いた」 こちらは『ちょっと』どころではない。そう思いながら再度歩き出し、花のすぐ傍で止まる。 「その、なんだ。似合っている」 「…うん、ありがとう」 いつも降ろしている髪が、今日に限って結っており、大輪の花飾りが色を添えていた。それにより、髪や外套によって隠れがちな首が露出していて、目に留まる。 沸き上がる衝動に抗うことなく、右手を伸ばす。細い、折れてしまいそうな首にするりと滑らせ、項辺りで止める。 噛み付きたいとも、痕を残さず綺麗なままにしていたいとも、思う。矛盾した、否、どちらも選びたい葛藤。 昼から何を滾っているのか。客観視、冷静さは残っている。身体に熱さあれど、心は落ち着いていた。 悪い例えだと、ほろ酔いになる前、酒が一番美味しい時。意識も感情も平常の少し上くらい。 「……仲謀?」 「なんだ」 「その、くすぐったい」 花が身をよじり、首に触れる右手を取って、離させた。 「我慢しろ」 抵抗した手を逆に掴み直す。形を覚えるように、甲を撫で、指を絡め、強く握る。 花の小さな手。幼き頃、自分も同じく小さかった。見慣れている自身の手が大きくなっていたことより、女の、花の小ささに意識が向き、ただただ驚く。 「え!? 仲謀、それは…その、あの、だから…」 花は文句を紡ごうとするも、脳が戸惑いにより鈍っており、何ひとつ浮かばない。 そんな態度など見ぬ振り。空いている左手で力の抜けた花の腕に触れ、肩の方へ撫で上げる。その間に、絡めていた手を解き、腰へ回す。 花が状況把握した頃には抱きしめられており、離れる隙間などなかった。驚きの悲鳴も、羞恥の困惑も、声色に乗せることが出来ないほど、密着している。持て余す感情が後押しするように、花の脈拍数はどんどん上がっていく。 「細い…」 分かっていた。身体の隅々まで知る仲だ。それでも、意識して触れると、思わされる。 「俺って単純じゃねえか……」 馬鹿だろ、自分。そういう含みで呆れた。 首元に顔を埋めると、花の匂いがすぐ傍にあって安心する。花が良い。否、花でなければ嫌だ。 そもそも女に目を向ける余裕もなければ、興味も薄かったが、手に入れたものが好みになった。悪くない。 「あの、その、仲謀」 とんとんと、背中を叩かれる。離れたいが為の ![]() 「何かあったの? 悪いことでも起きたとか、いじめられたとか…もしかして、体調悪い…?」 困惑と羞恥が混じった声色で、取り留めなく問い質される。しかも最後には花から腕を伸ばし、下から抱きかかえるように抱きしめ返してきた。 そんなに頼りないか。いつも落ち込んでいるか。否、いつでもそういう素振りはなかった筈だ。それだけ有能な部下がいて、停滞することなく孫家の悲願に向け走っている。 弱くて良いと言われたこともない。政から一歩下がる休憩時に無理しなくて良いと言いたいのだろう。 真っ直ぐすぎる気持ちは脆く崩れやすいのに。保持する意思が強く、頼もしさだけ浮き彫りになる。 弱そうな印象しかない、細い腕で。精神的に引き寄せる力は強く、優しい。 女の逞しさは大喬と小喬の姉妹、実母と尚香――と、多くの女性たちから身を持って教え込まれたが、何度垣間見えても圧倒される。 「いや、嘘偽りなく、ただの休憩だ」 顔を覗くと、頬を赤らめた花と目が合った。 「……あまえに、きたの?」 言っておきながら、とてつもなく恥ずかしい。 そんな表情を露骨に浮かべており、ならば声にしなければ良いのにと他人事な感想を抱く。 実際の所、酷い邪心もなかった。いつも独りにさせている自分の不甲斐なさから、仕事の合間に顔を出そうと思っただけなのだが。見慣れない髪型ひとつで、感情が切り替わった。 「そうだ、悪いか」 親指の腹で頬を拭うように触れると、更に赤くなる。仲謀の動作で赤面を自覚した結果、増したと捉えるべきだろう。 「悪く、ない…けど」 「けど?」 「なんか、すごく悔しい…!!」 可笑しくて、口元を緩めると、花から拗ねた答えが返ってきた。割りと本気の。 「……本当に、何もない?」 仕返しと言わぬばかりに、花が髪を軽く引っ張る。同じことをしてやろうかと思うも、髪型をいじると――多分、怒る。 「本当に」 女は髪型を崩されるのを本気で嫌がる。これも姉妹や妹からの経験談。それあって、されるがままにしておいた。 「花。この髪型、自分でやったのか?」 侍女の世話に戸惑い、ひとりで身支度する花だ。それ故、頼んでいない含み付きの問い。この発想になるのは、妹の尚香を基準にしているから。私生活が何となく分かるのが妹しかいない、とも言う。要するに基準が良くない。 「あと、この髪飾り」 不満があるならば。髪飾りが、贈った物ではないこと。 物欲の薄い花の所持品はあまりにも少ないのに、その仲間入りを果たしている。悔しいというか、腹立たしいというか。結論をいうと、妬いているだけだ。 「髪飾りは大喬さんと小喬さんから貰ったの。その時、これに合う髪型を結ってくれてね」 とても嬉しそうに、言葉を紡ぐものだから。俺が贈る物は滅多と受け取らないくせに、という文句が喉元で止まった。朗らかで優しい表情に、自分の情けない気持ちも折れる。 「俺からこの髪飾りに合う衣服を贈るから、着ろよ?」 だが、張り合いだけは、どう足掻いても、消えなかった。付けている髪飾りが似合っているのも、姉妹から「私たちの方が、花ちゃんを可愛く見立てられるよ?」と喧嘩売られているようにしか思えない。 過剰反応と捉える所だが、あの姉妹の場合、六割が花を着飾らせたい、三割が仲謀への嫌がらせ兼からかい、一割が色々あるの、という配分であり、あながち間違えでもなかった。 何処まで察しているのか不明だが、花はその言葉に目を丸くするのもほんの少し。すぐに目を細め、笑った。 「返事はどーした」 「しょうがないなあ」 「花、」 「ごめんなさい」 笑い声混じりの謝罪。 「……うん、いつもの仲謀だね」 花が真偽を見分けるように、瞳を覗いて来た。 「さっきから、ずっと、いつもの俺だろ」 「昼からあまえにきたなんて……心配するよ」 確かに見栄の塊だが、昼間から泣きつくことはしない。 花の発言を汲み取ると、職場で泣かされた感覚でいるのだろう。男を、君主を、なんだと思っているのか。色々不安だが、自分しか知らないことだ。訂正は後回しにする。今とやかく言っても、効果など無いに等しい。それに今は―― 「なんだろうな」 「うん?」 「噛み付きたいって思う気持ちもあるが、今はだだあまくあまやかしたい気持ちの方が優る」 「えっと、それどう答えるべきなの?」 あまく揺れる瞳に、自分だけが映っている。こういうのを至福なのだろう。 「お前の好みに合わせてやる」 「そこでその切り返しは卑怯だよね? それに、仲謀がその、あまえに来たんでしょ? 私をあまやかしてどうするの」 「俺があまえるのと、お前をあまやかすのに、大差はない」 「……一緒くたにされた…もう、」 花は少し困った表情を浮かべながらも、微笑んだ。そして、気合いの入れる素振りをみせてから、 「仲謀。大事な休憩の時間に、来てくれて有難う」 踵を上げて背伸び、それでも足りない分は仲謀の胸元を掴んで、引き寄せて。 右頬に唇を落とす。優しく、軽く。 「仕事、頑張ってきてね」 今度は左頬に。名残惜しそうに、ゆっくり。唇が触れて。 「…………は、な…?」 「……あまやかしてみました」 受けてばかりじゃないよ、と言い張るように、満足そうに、胸を張っている。 支えてくるこの小さな身体が、愛おしくて堪らない。 内心は「畜生やられた! なんだこの可愛い女は…!!」と、どうかと思う感想が溢れた。煽るそぶりなどなかったのに、いきなり行動にしてくるなど。卑怯すぎる。 「……唇には、ねえのかよ」 指の腹で花の唇を撫で、少し摘む。情けない強請りだが、欲しいものは欲しい。すると―― 「今日一日の仕事が終わって、帰ってきたら、ね」 離さない気持ちで引き寄せていたのに。花の身を離す動きを、あっさり許してしまった。他人よりは近くも、恋仲としては遠い距離。 「これ以上くっついてたら、離せなくなるから…」 引き止めて、仕事を滞らせることはしたくないと。花は意地のように、気を引き締めて言い切る。 「踊らされてんのは、俺か…?」 「私だと思うけど……」 「はぁ?俺だろ」 「だって、来てくれただけで嬉しいんだよ? 軽すぎる…」 「軽くねえよ」 追っても追っても、伸ばした手を取らず。最後には役目を終え去ろうとした花に、どれほど苦戦、策を練ったか。軽いなんて言わせない。痛感している為、張り合ってしまう。 「そう…かな、うん。良かった」 「じゃーその軽くない花」 「重たいみたいで嫌」 女というのは、変な所ばかり敏感に、しかも話の腰を折る。あえて無視し――我が強い女性に慣れ、嫌でも覚えた技だ――花の額に自身の額を合わせた。 「ちゃんと仕事してくるから、さっき言ったこと、守れよ」 「さっき?」 あっさり流す身軽さや、事を忘れる楽観というか豪快さも、周りにいる女の特徴だ。今更ながら、嫌な共通点に気づいてしまった。忘れよう、それが正しい。 「帰って来たら、あまやかせ」 「……増えてるよ」 私そこまで言ってない。 そう呟きながらも、降参と言わぬばかりに眉を下げ、花が「分かった、頑張る」と頷いた。 俺は、痛感する。やはり負けてばかりだ。 花が可愛らしい努力を検討するだけで、舞い上がるのだ。単純すぎて滅入る。 それを声に出すつもりはない。悔しいから。愚かな意地だが、癪に障ることもなかった。 その感情も、花の傍で感じる幸福の一部だから。 back |