Twinkle, twinkle, little star
※『今日のニュース』後、ひとつの未来の先
フランス行きが決まったのならば、雅子がまず取り組むべきこと――語学である。住むとなると、どうあっても仏語知識が必要だ。 「どうしてお前、フランス語なんて出来るんだ…」 雅子は不満の声を、斜め横に座る男に投げつける。八つ当たり上等、開き直り付き。 「んー? 別に、出来るってほどじゃないし」 進路を決めた時、赤司から「フランス語を覚えておくと良い」と助言され、ふらふら気ままに続けていたらしい。それが蓄積し、日常会話と料理関連なら支障ない程になったとか。 学生時代から成績優秀の紫原は、英語が出来る。氷室の英語を聞き取って、返せる、訳す腕前だ。そこに仏語も加わるとは。 一芸一能の自覚ある雅子は、バスケットボールの神様に愛され、且つ賢いとかなんだとキレそうになる。旦那ながら、ありえない。そこに惚れた訳ではないからこそ、尚更、腹が立つ。繰り返すが、八つ当たり上等、開き直っている。 「世界は理不尽だな」 「何言ってんの、まさ子ちん、戻っておいで」 「戻るも何も、正常だ。あと、ひとりで出来る。散れ」 「散れってひでー。あと、まさ子ちん、出来てないから。俺が教えてあげられんだよ? 悩まずに済むんだから、喜んで良いくらいだし」 紫原がローテーブルに置かれた仏語学のテキストをたしたしと叩き、早く次の問いを解けと促す。昔の立ち位置であった教師と生徒の逆転が、存外悪くないようで、緩く笑っている。 反対に、雅子は面白くない。元生徒に教わること自体、矜持が許さなかった。教えると提案された時、「面倒くさがりがいったい何処で頭打ってきた」など酷い感想すら抱いたほど。大人の余裕を投げ捨て、何度も何度も「気にすることはない」と繰り返し、なんとか折れ、教わっている最中である。 「まさ子ちんの目標は、公共の掲示物を読む、だから。それぐらいにはなってよ」 「だから頑張ってるだろうが…英語なら、なんとかなるんだがな…」 「まさ子ちんて本当、バスケ中心だよね」 バスケットボールの本場――アメリカ合衆国の試合放映が観たい、という動機で、雅子は英語を覚えた。しかも完全に米語、拘りもない。紫原も同じく拘りはないが、赤司からクイーンズ・イングリッシュをそこそこ齧らされた。 「英語は場所によって使えると思うけど、母国語好きな国だしねーはい、今ので最後」 「ん、これで終わりか」 雅子からすればやっと、指定されたところまで終わった。勉学を苦痛、辛い、早くボールに触れたいと思っていた学生時代があるので、今でも堪える。教師の矜持で声には出さなかったが、紫原に八つ当たり混じりの強い視線を投げ、採点を促した。 紫原はテキストを受け取り、赤のサインペンで採点を始める。先生っぽい行動をする意識でいるらしい。面倒くさがりの凝る様に、雅子は物珍しい気持ちを抱いた。 「ねーまさ子ちん、なんで4択で間違えんの? 意味わかんない。答え出てるようなものでしょ」 「馬鹿を馬鹿にするな」 「あーはいはい、変に拗ねないでよ」 ガキ扱いすることに苛立つ雅子を完全無視した紫原は、不正解に対する説明を始める。正しい答えと、その理由。間違えた方はどういう意味か。 ある程度理解している証拠を突きつけられた。やはり世界は理不尽だ、と雅子はどうしようにもならないことを、再度思ってしまう。 「やっとなんとか、くらいまできたかなー」 紫原が背筋を伸ばし、億劫そうに首を曲げ、本日の勉強終了の態度を見せる。勉学からの解放、雅子も肩の力が抜けた。 「なんとかなってきた、か」 「いや、テストなら平均以下だから」 「まあ、私なら仕方がない」 「え、その諦め、なんなの」 教師としてどうなの、とか。人としてその諦めはどうなの、とか。紫原がとてつもなく微妙そうな表情で雅子を見てしまう。 すると自覚があるのか、雅子から腕を殴られた。八つ当たり、今度は態度だけでなく、力までのせられる。だいぶ前から不毛な争いになっていたが、雅子のやさぐれは、大人げなくも収集つかなくなったらしい。 「ちょっと、まさ子ちん。暴力反対」 「暴力じゃない。説教の一部だ」 「どうして俺が説教受けなきゃいけない訳」 紫原は「むしろ俺がするべきだよね、この成績…」と内心思いながら、テーブルを挟んだ、斜め横に座る雅子の方に、身体を動かす。そして八つ当たりの力を込める拳を掴み、自身の方へ引き寄せた。雪崩れ込むようにして、雅子が紫原の胸元に収まる。 「まさ子ちんの、けっこー痛いんだけど」 「手加減するか」 雅子から生娘のような拒絶も動揺もなかった。疲労を隠さず、凭れ掛かってくる。 やっと傍で触れられた。お預けを食らっていたような生殺しの気分で教えていたので、素直に嬉しい。八つ当たりで殴られたことも、許してしまえるほど。 紫原はご機嫌そうに、左手を雅子の背に回して軽く叩き、あやす。落ち着いて、と言外に含め、やさぐれを収めさせる。 「……教わっておいて、これはないな、わるい」 釈然としないが、タイミングが今しかないと分かっている雅子は、抗うことなく、少し長い溜め息をついた後、謝ってきた。 学生時代、顧問行使という理不尽慣れしている紫原としては、謝って来ること自体未知な話だ。気にしていないので、相槌も打たず、もう片方の右手を長い髪に絡め、くるくる巻いては解く遊び始めた。 「まーまさ子ちんのペースで頑張れば良いんじゃない?」 「さっきと言ってること違うぞ」 「この短期間で話せる訳ないし」 しかも否定してきた。こいつは何が言いたいのか、何がしたいのか、と微妙な気持ちがのった瞳が、へらっと緩く笑う紫原の瞳に映る。今も機嫌の良い紫原に、雅子は「未だによく分からないな…」とぼんやり思いながら、その表情を崩すように、顔を軽く叩いた。 「当分辛いだろうけど、俺一緒だから良いよね」 「…いや、良くはないだろ」 四六時中紫原が傍に居る訳ではない。どうなったらその発想になるのか。お前の脳が理解出来ない、くらいの信じられなさが言外に含む。 「赤ちんとこの管理人、日本語話せるらしいし」 「そうなのか?」 「言わなかったっけ」 「聞いてない」 渡欧先での家は、赤司家所有のアパルトメント――現在パリ赴任の社員寮として利用されているらしい――で、「まー広くないけど、身内家賃だって」としか聞いていなかった。 余談だが、そのアパルトメントはオスマン様式で、素晴らしい外観を持つ。けれども、無知な雅子はそれが写る写真を見て「ここに世話になるのか」と薄っぺらい感想しか零さなかったし、知識ある紫原なんて「今時エレベーター増設してないの…?」と価値を見出さなかった。勿体無いふたりであり、赤司を唸らせている。 「赤ちんが不便にさせるとは思わないし、大丈夫じゃない?」 「なんというか……あまえっぱなしだな…」 手堅く賢い紫原と赤司が事を決めているので、あえて横槍をいれていない。変に口出しする方が邪魔かつ、事を悪化すると思い、ほぼ任せていた。それが形になってくると、苦笑が隠せない。 他の協力が必要であっても、微妙な気持ちになるのは、元来何でも一人で行って来たからだろう。とてつもなく遅いが、反省してしまう。 「まー赤ちん嫌がってないから、使えるものは使わないと」 遠慮がないというか、度胸があるというか、頼むことに抵抗が薄い。兄弟の多い末っ子らしい発言である。 見倣うつもりはないが、こういう感覚にも慣れていく必要がある。傍で一緒に進んでいくと決めたのだから。 「なあ、敦」 「んー?」 気怠そうな紫原の頬を軽く指で叩く。すると不思議そうな瞳で見下ろされた。 「お前にとっても、フランス行きは負担が大きいと思う」 技術を評価する職についた男の渡欧は、容易くない。無茶苦茶すぎる計画のあまり、酷い仕打ちも多いだろう。雅子は付いて行くだけで仕事面の干渉が出来ないと思っている。けれど、支える努力を放棄したつもりもない。 「私がこうありたいと決めてから、お前には無茶をさせている」 まだまだ若い20代、紫原には選択も自由も未来への道も沢山あった。それを狭めたのは自分で、分かって手放そうとして、でも離せなくて。 『ずっと』を約束させてしまったと、雅子は今でも思っている。 「俺のこと馬鹿にしてんの? 怒るよ」 「馬鹿にしてない。その想いに嬉しいと思っているんだ」 何度も遠慮して、何度も説得と説教をくらった。そしてそのあまったるい想いに貪欲になって、餓えを知って。自分のものだと餓鬼みたいに誇りたくなって。 もう若くないんだがな、と雅子は自嘲するような薄笑いを零す。 「独占して良いよ」 紫原が雅子の頬を撫でた後、軽く摘んだ。 「俺の身も心も、まさ子ちんになら、譲って上げる」 譲ると表現したのは、雅子の性格を読み取っているからこそ。謙虚というより、方法を知らないから戸惑って、手すら伸ばせないから。こちらから差し伸ばす。 すると、雅子が自嘲を消し、目を丸くするのも一瞬―― 「…そうだな、譲り受けよう。幸せが何か分からないが、後悔はさせない」 昔から見てきた、片思いの頃から惹かれていた、強い、笑み。格好いい監督の、部員を引っ張っていく、表情。 引退させても、それを捨てずに、こうして見せてくれる。少しずつ身分や環境が変わっても、この強さは、変わらない。 紫原が何度も、雅子に想い誓って来た気持ちを、雅子から紡いできた。聞かされると逆プロポーズみたいで、惚れ惚れする。 渡欧に不安がないなんて言えなかった。そこまで強くなれなかった。声にしたら崩れてしまいそうだった。 そんな紫原なりに見抜いていた自分の弱さを、雅子は知ってか知らずか、あっさり背を押してくれる。背を支えてくれる。 出逢った頃から何も変わらない、彼女の強さは、糧だ。高揚感が上回って、心配なんて後ですれば良いかと、いつもの余裕さが沸いてくる。 「かっこいーね、まさ子ちん。頼りにしてるし」 意気込みのある台詞に、紫原が緩くも嬉しそうな笑みを露にした。 →02/後編へ back |