死に至る病
菜子様『胡蝶』より頂きました



※リコさん大学1年生、赤司くんが高校3年生の恋人設定




恋は盲目だとか、恋煩いなんて言葉もある通り。恋とは非常に厄介だ。しかも、殆ど経験のないリコにしてみれば、これほど辛い「病」もなかった。
恋とは病らしい。好きな人を思えば思うほど、食事が喉を通らなくなったり、睡眠不足になったり。冷静な頭で考えれば、何をそんな馬鹿なこと、と鼻で笑えるのに。自分が当事者になってみれば、なるほど到底笑いごとには思えない。むしろ怖くて仕方ない。
「あぁーもう……」
さきほどからため息しか出てこない、とリコは広い講義室で一人、頭を抱えていた。幸い、次の時限にこの教室は使わないらしく人は居ないが、自分もまだ授業がある。移動しなくては、いけないのに。らしくない。そう、らしくないのだ。
食事が喉を通らないなんてことは無い。夜もぐっすり眠れる。毎朝、きちんと起きられるし、体は至って健康だ。しかし、一日のうちで不意に脳裏をよぎる存在が、そのたびリコの頭を悩ませた。なかなか会えない恋人に思いを馳せる自分。まったくもって似つかわしくない。
「恋ってそういうもんよ」
友人はリコの姿を見てそう笑ったけれど、そんなこと知らない。らしくない、そんなの私じゃない、とリコは軽くパニックにすら陥っていた。彼女にしてみれば、この恋愛とやらが招いた現在の自分の心理状態はかなり異常で非常事態だ。非常口はどこかと必死に探しまわって、どうにもできず切羽詰って彼に「助けて」と一言乞うたのは昨夜の話。
電話口の向こうで、明らかに答えに詰まった赤司の気配が伝わってきた。そもそも、それまでは他愛のない話をしていた。調子はどう?そちらこそ。そんな世間話をして笑っていたのに。そこでもまた、まるでウイルスのように彼の姿が脳裏をちらついた。最近、そのたびにこみあげてきた、手に負えない感情の波に任せて、思わず口をついて出てきた言葉。文脈も何も関係のない、まるで意味不明な一言だったに違いない。
「―――どうしたんですか?」
その声音には明らかに驚愕と、若干の焦りが含まれていたのに、リコはすぐさま後悔した。ごめん、なんでもない。ほんとになんでもない、と繰り返しても、一度そんな言葉を聞いてしまっては赤司の方も引けずに押し問答を続ける。
「違うの、ええっと、課題の話」
「はい?」
「厳しい教授がいるって言ったでしょ?その人の課題レポートが、どうしても終わらなくて。明日の授業内に提出なのに」
どうしよう、と明るく繕った。自分でも驚くくらいに、自然と出せた声だった。電話の向こう側も、いくらか空気が緩んだような気がする。
「……あぁ。テーマは?」
赤司の方もなんでもなかったように話を続けてくるのに、リコは内心で安堵しながらそのまま会話をし、いつもの通りに電話を切った。ほうと一つ息をついて、リコはそのままベッドにダイブしたのだった。―――うっかりすると、会いたい、なんて言ってしまっただろうから。
時期が時期だ。仮にも監督であった自分が、たかが恋愛如きでインターハイのこの時期に、選手の時間を奪いたくない。そんな独り善がりなこと。
それに、何よりも嫌だった。こんな無様でみっともない自分でいること、それ自体が。
「……もう、嫌」
ぼそりと呟いてみて、気晴らしにどこか寄って帰ろうとパッと顔を上げる。うじうじ悩んでいたって仕方ない。遠くにいる彼は、そこで一生懸命頑張っているのだ。
「―――何が嫌なんですか?」
「え?別に……って、はぁ!?」
鞄を肩にかけて立ち上がろうとしたその瞬間、予期せぬ人物の、いや予期せぬというか絶対にありえないだろう人の声が背後からかかって、大げさなくらいに体を震わせた。首が攣りそうなほどに勢いよく振り返って、その姿を認めてからなお驚く。なぜこんなところに。
「赤司くん!?」
「お久しぶりですね」
「はっ!?ちょっと待って、なんでここにいるの」
「ご存知ありませんか?京都と東京は二時間半ほどあれば十分着ける距離ですよ」
「ちがっ、そういうことじゃなくて……」
唖然として口をパクパクとさせる。赤司は普段と大して変わらずに平然とした表情でリコを見つめた。
「学校は?授業どうしたの、それに練習だって―――」
「相田先輩」
鋭く遮られて思わず口を噤んだ。はい、と反射的に返事をしてしまってから、僅かに眉を寄せる顔に一瞬あっけにとられた。
「昨日のあれは、どういう意味ですか?」
「昨日のあれって」
「助けてと言っていたでしょう」
「……いや、あれはだから。課題の話だって」
「貴女が以前厳しいと話していた教授の授業は、今日この曜日には無いはずですが」
「……ちょっと待って何で知ってんのそんなこと?」
「そんなことは問題ではありません、……相田先輩」
恐れをなして体を退いたリコの腕を取って、赤司は目を細めて見据える。その目が苦手だとリコは思う。エンペラーアイだとかなんとか呼ばれる彼の眼には、その名の通りなんでも見透かされているような気になるのだ。読みあいならば決して自分だって負けないけれど、それはあくまでも試合中の話。既に監督を引退した身としては、無防備にその視線を受け止めるほかなかった。
「……ご、めん」
結局、折れてしまったのはこちらの方だった。
「言う、言うから。……少し、離して?」
赤司はそれで少々迷ったように瞳を揺らしたが、リコの要求を飲んで腕を解放してくれる。どっと息を吐いたリコは、そのまま再び座りこんでしまった。
「その前に、教えて。どうしたの、わざわざ京都から?」
「愚問ですね。貴女が助けてと言ったのが気になって気になって仕方なかったから、駆けつけたのですよ」
そんな直球な答えが返ってくるとは予想だにしていなかったリコは、一瞬で赤面して俯いてしまった。一方の赤司はそれを見下ろしてため息をつく。
「……相変わらず、可愛い人ですね」
「言わないでよ、そういうこと」
「さて。次は貴女の番ですが」
「まだ、聞いてないことならある」
「質問一つにつき、一つにしましょう。でなければ公平でないでしょう?さぁ」
口調こそ丁寧だが、早く言えという空気に満ち溢れていた。ものすごく気おされて、リコはおずおず口を開く。
「……変なのよ」
「何がですか」
「最近、変。なんか」
中途半端なところで言葉を切ったリコに、横から覗き込むように顔を近づけると、ますます気まずそうに、それでも続けた。
「……赤司くんの顔がね。頭に浮かんで、そのたんび、なんか。変になる」
ぽつり、ぽつりと言い終わると、リコはうろうろと視線をさまよわせた。しかし、目を見張ったのは赤司の方だ。赤面しておいてこの人は、―――どれだけの威力の爆弾を落としたのか。
「赤司くんってさ。恋煩いってしたことある?」
「……と、いうと?」
「恋煩いってさ。食べ物が食べられなくなったり、眠れなくなったりするでしょう。ああいうの。そんなことは無いけど、いつか、そうなりそうで。すごく嫌」
だから、どうすればいいかわかんなくて、思わず言っちゃったの。ごめん。
そう結んで、リコはすっかり黙り込む。赤司は赤司で思いもかけなかった彼女の告白に、ただただ驚いて彼女を凝視するばかりだった。
「……で、赤司くんは部活はどうし……」
二つ目、とばかりに赤司を向いて言いかけたリコの台詞は続かなかった。やや強引に腕を引いて立たされ、勢いでたたらを踏んだところを、そのまますっぽりと彼の胸元に引き寄せられる。いつになく、性急な抱擁に戸惑っていると、肩越しに囁くような声で赤司は言った。
「申し訳ありません。僕が悪かった」
「えぇっ、何で!?」
唐突な謝罪に尚更焦る。何も悪いことはされていない。どちらかと言えば自分の方だ。
「完全に僕のミスだ。取り返しのつかないことをした」
「ま、待って。意味わかんない。何でよ」
「そうでしょう。他の誰でもない、貴女のような人が、―――寂しいと言ったのだから」
リコはそれでハッとした。助けて、会いたい、と思わず口をついて言ってしまった自分の真意にようやく気がついた。寂しいから、助けて欲しい。寂しいから、会いたい。なんて単純なことじゃないか、鈍い鈍いと言われる自分ではあるが、ここまで己の気持ちにも鈍いとなるとただの馬鹿だ。
「そんな思いをさせてしまいました。僕のせいだ」
「……ち、がうでしょう」
途切れ途切れに否定して、おずおずと背に腕をまわす。こんなことになるのであれば、もっと。
「……早く、素直になれば良かったのよ。ごめんなさい、大切な時期に、余計な心配をかけて」
こんなに無様な姿を晒すくらいなら、いっそ。思い切り、懇願してしまえば良かったのだ。
「駄目ね、プライドばっかり邪魔して」
「……そういう貴女を最初に好きになったのは僕の方だ。どうか大切にして下さい、貴女のそれは気高くて誇りなのだから」
赤司くんは甘い、とリコは苦笑する。そうして一度体を離したら、額がコツンとぶつかった。
「……二つ目の質問ですが、監督から許可なら得ています。僕の人生において、非常事態が発生したために休ませて頂きます、と」
「非常事態って、そんな大袈裟な……」
「貴女が悲しんでいる。それで十分でしょう」
自然と視線は交差して、自然と唇は触れた。ほんの数秒の軽いものだったけれど、ひどく安心してリコは笑みを溢す。しかし、すぐに赤司が学校を抜けてまで自分の元まで来てくれたことを思い出し慌てた。
「ごめん、私の我が儘に付き合わせすぎた。もう、本当に戻って。大事な時なのに、主将がいないなんて」
赤司はそれで呆れながらリコの頬に片手をあてがった。たしなめるように、相田先輩、と呼ぶ。
「一つ聞きましょうか。相田先輩は、バスケと僕とどちらが大事ですか」
「……どっち、も」
「そうでしょうね。貴女ならそう答えるでしょう。ですが、はっきり言っておきますが、僕は貴女のためなら何もかも捨てられます」
それでリコの表情が歪んだのも、想定内。赤司は間髪入れずに笑いかける。
「―――ご安心を。とはいえ、僕にとってもバスケは大切です。そうして、そういう僕で在って欲しいのでしょう?」
「……何でも、お見通しね。君は」
「貴女のことは勿論、バスケにしても、これ以上の失態は犯しません。ですから、どうか、今日は僕の我が儘に付き合って頂きたい」
するりと頬を滑った手のひらはそのままリコの掌を握り、指を絡めた。
「相田先輩が欲しい。容赦して頂けますね」
狡い、とリコは思う。ここまで完璧にエスコートされては、拒否権など無いも同然。
「……あの、ね」
だから、覚悟はした。けれどか細く、羞恥心から顔を俯けて、リコは言った。
「……その、胸無いんだけど」
消え入りそうなほどに小さな言葉に、赤司は可笑しくなって微笑んだ。
「何か問題がありますか?」
小さくて華奢な腕を引く。狂おしいくらいに、愛しかった。リコは未だに恥ずかしそうに、半歩ほど遅れてついてくる。
「……ごめんね」
「なぜ謝るのですか」
「だって、部活まで休んで……」
「僕一人を、一日欠いたくらいで負けるほどにヤワなチームではありませんよ」
不敵にそう返した赤司の意図は、普段のリコの勢いを取り戻すためだ。それを理解して、リコはようやく本来の彼女らしく相好を崩す。
「ウチの子だって、絶対負けないわよ」
彼の手を握る自身のそれに、ぎゅっと力を込めた。それでちらりとリコを見た赤司は、やれやれと首を振る。
―――ウチの子。そんな呼称だけで嫉妬に駆られるのだから、相当沸いている。
そうでなくとも、昨夜の助けてという一言に、一睡もできなかった時点で大概だ。大概、彼女に溺れている。

なるほど、これが病かと、赤司はどこか能天気に納得するのだった。

(それも、いいだろう。)



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