今日のニュース
-Neues vom Tage-



※後編です。前編はコチラ





 捕まえた。

 雅子には、そう感じとれた。
 何度も手を伸ばし、散々叩き落とされ、それでも粘って、引き寄せた男が。何を今更とも思う。釈然としない。心に抗わず、空いた手をぐっと握りしめ、紫原の横腹にいれた。
「った!?」
 痛みからか、紫原の拘束する手が緩む。一瞬の隙に、雅子は顔を上げ、視線を合わせた。
 紫原の見つめる瞳は、射抜くように強い。何するの、と苛立ちすら湧いている。それに恐れも臆する気も、毛頭なかった。
「逃げたら、離すのか」
「なんで?」
 意味分かんない。
 問いかけている男が、首を傾げた。ならば聞くなと言いたいが、それすらも呆れて声にならない。
 腰に添えた紫原の手が、ゆるりと背を撫で上げる。落ち着かせる優しいものではなく、試すような。何故か雅子が猶予をもらっている、と錯覚させる雰囲気で。
「俺無しじゃ生きてけないでしょ」
 未来を考えて、仕事を辞める。それは愛してやまないバスケットボールから離れることを意味する。同時に、大事にしている『陽泉』からも。ふたつと決別して選んだ男を、手放せる訳がない。
 その通りだが、思っていても言うべきではない言葉を吐かれた。こいつキレたかな、と雅子は勘づくも、声にしてしまったものは回収出来ない。
「試すようなことを聞くな」
 雅子もまた苛立っていた。
 捕まっている、解かれることはない。その安息をやっと心に刻み、散々悩んで決断したことだ。くだらないことをするな、と叱りたい。
「ならば私も聞こう。私に、何の、生きている証拠をくれる」
 バスケットボールと陽泉の溝を埋められるものを。上書きではなく、それと同等になるものを。
 雅子は手の甲で、紫原の頬を撫でる。触れていないと、崩れてしまいそうだったから。掴まれていても、不安だった。
 その感情を、声に出来る勇気もあまえも、雅子はまだ持ち合わせていない。手を伸ばすだけで精一杯だ、情けないくらい。
「まさ子ちん、春から何するか考えてる?」
「……あまり、いや、何も、だな。そういえば、お前が新居どうこう言ってなかったか?」
 ウィンターカップが終わるまで、私情は一切思考から削ぎ落としていた。部員と向き合う為に、他を潔く捨てただけだ。それ故、いきなり問われると、大人として対処出来ていない酷さと直面する。
 流石に、その…もう少し、何か、考えておけよ、自分。そんな呆れと痛みで、雅子は心がつらい。自業自得なので、声に零せなかったが。
「場所とか希望あるー?」
「いや、何処でも良い。お前の職場に近いところとかで良いぞ」
 半分は真面目に、半分は投げやり。そうなってしまうのは、今ですら喪失感がじわじわ湧いているから。どうなっても事は一緒だと思ってしまうから。
 心の穴は、早くも開き、広がり始めている。怯えないよう、防ぐことに感情の多半を割いてしまう。雅子は無意識のうちに短く息を吐いた。
「ん、じゃー大丈夫かなー」
 あえて見ない振りをした紫原は、へらりと緩い笑みを零しながら、頬を触れていた雅子の手を拾い上げ、掴み、五指で広げ、指を絡める。離さない暗示のように、『捕まえて』。仕舞い込む為に、鍵をかけるよう呪文として、言葉を、紡ぐ――

「まさ子ちん、フランスいこー?」

「………………それはないだろ」

 たった一瞬で、懸念、過ったキツさが、吹っ飛んだ。振り払われた。
 それを実感することより、話題を飲み込むことで精一杯。雅子は長考ののち、その展開はおかしいとツッコミをいれた。
「なに、何処でも良いって言ったじゃん」
 おかしなこと言ってないし、と不思議そうだ。
 雅子は、自分がまともだと言い張りたい。苛立っていた気すら抜けた。
「せめて東京だと思うだろ、ここは……」
 洋菓子の本場、フランス。
 夢を追いかけることを諦めた雅子としては、応援したいし、開き直って何処へでも思っているから、頷けなくもない。だが、二つ返事が出来る場所でも展開でもなかった。
「赤ちんが今期大学卒業なんだけど、家のことあって欧州に飛ぶんだって。俺もついてって、修業して、肩書きひとつ増やそう。で、まとまった」
「肩書き?」
「うん、赤ちんが必要だって」
「えーと…自分の店でも持ちたいのか?」
 そんな願望あったのか。仕事に意欲的だったことを含め、フランスすら霞んでしまう程、驚き、問いかけてしまう。
「赤ちんが店、持つの」
「意味が分からん」
「だーかーらー赤ちんの将来設計で俺、使えるんだって。俺も赤ちん使えたら便利だから、それに賛同したの。そしたら、本場で修業した方が良いから、一緒にフランスに飛ぶことになって…あー生活面はねー赤ちんがパトロンになってくれる約束済み。はい、分かんないとこ、ある?」
 雅子は「接続詞が役にたっていない」と思いながら、問うことを探すべく、ひとつずつ咀嚼していくことにした。
 赤司が大学卒業後、欧州へ飛ぶ。敦もそれについていき、フランスで学ぶ。何を。パティシエとして、洋菓子を。何のかは不明だが、肩書きを得た敦を、赤司が雇う…ということだろうか。赤司が店を持つ、オーナーにでもなるのか。事業発展のひとつかもしれない。利害一致、互いに利用しようとしているのは確かだ。それで、海外生活費は赤司が出す。赤司がどういう奴か、バスケ以外だとよく分からないが、生意気なこと言う。というか、パトロンは芸術類に使うものじゃないのか? 万能な言葉だな。
 幾つも浮かんで、幾つも投げ捨てた。そして――
「分かった。フランスだな」
「まさ子ちん、考えるのやめたでしょ」
 即、バレた。なんでだ、と不満だが、否定も出来ず、諦めて頷く。
「欧州の失業率は高い。ビザ厳しいだろ…とか考えたら、面倒になった」
 現職場のことはどうなっているのか、職場先はあるのか、型破りすぎな行動じゃないのか、などなど。色々思うところが多すぎる。
 だが、赤司の計画も、紫原の思惑も、一緒に考えると馬鹿らしい。自暴自棄なのだ、なんでもありだ。雅子は元来何でもひとりでこなしてきた為、「自分のことは自分で決めろ」の発想があり、拍車をかけてしまう。
 行きたいなら任せよう、面倒だし、
「それが生きる証拠になるかは分からないが、一蓮托生だ」
「………博打でしょ、それ。まさ子ちん、俺以外でしちゃダメだよ」
 博打、も確かに言い得て妙だ。実際、もうその突拍子のない計画に賭けようとしているのだから。
「それに、もう動いてるだろ?」
 大事なことなのに、事後報告。普通なら怒るべき展開、そこそこ大問題である。
 だが、雅子も教職と監督の悩みを相談せずに動いていた。人のこと、言える筈がない。これでチャラにしよう、次回から問題事項にしよう、で締めた。
 そもそも、学生の頃から外国為替に首を突っ込んでいた生意気なふたりだ。紫原の貴重な「任せて」に口を出さないことにする。
「まー…あーうん、滞在許可の査証は俺と赤ちんに任せてくれて良いよ。なんか相談するのも失せたし」
 溜め息と共に、紫原が雅子の頬から耳を経て後頭部へ、指を入れ、髪を梳く。
「まさ子ちん。何処にでも連れてくから、楽しみにしてて」
 立ち止まって動けず「飛べない」と苦しむならば、自分が引っ張って、飛び立たせる。紫原はそう過去に伝えて、雅子を落としたのだ。その言葉を形にする時が来ただけのこと。
 辛さも苦しさも、真新しい環境の疲労で覆い潰そう。無茶でも、立ち上がって進んで行く。そして少し余裕が出て来たら、過去を振り返れば良い。雅子が続けてきた方法を、無理にやめさせず、添う方向で。それなりに未来絵図ものせて。紫原の描く、雅子への計画には、突拍子もない展開が必要だった。
 そして無謀と無茶なんて紙一重の計画は、進行している。正しいかなんて分からない、振り返れない。もう雅子同様、紫原はこの計画で完遂するしかないのだから、強引にやり切ってみせる。
「実感もわかないが、何処でも良い。お前が……」
 掠れた声は最後まで続かなかった。否、雅子は続けること止め、苦みを滲ませる。
「まさ子ちん、」
 軽く唇を開き、名を呼ぶ。舌を出して、紫原から雅子の下唇を舐めた。
「言わなくていいよ」
 呪文のように、と意識して、声に出す。言葉を紡がせない為に。自身を傷つける言葉を零させないように。
 他者からみれば狂気の沙汰みたいな計画に、雅子はあっさり頷いた。それが彼女の何を意味するか。近づいている虚無から見ない振りを、逃げ切りたいと――弱さのひとつ。
 これを、あまやかすべきではないと、解く人もいるだろう。でも、紫原は自分を選んだ雅子に、それが正しかったと伝えるための方針を決めている。
 逞しくて、強くて、あまえ方も知らない人を。だだあまやかして、傷つけさせないようにして。依存させて。離さないようにする。だから、怯えていることを、全て遮ってみせよう。
 どうせ、こんな弱さも、今日だけ。日常から離れた、でも向き合うべき現実に慣れたい焦燥と事の困難さから、心に疲労ばかり溜めた出来事があったからこそ、あっさり落ちている。
 いつもならば、自覚していても、素直に吐露しない。まだ進めると、自分を偽るだろう。頑固や意地や矜持なんて表現にも辿り着かない、その方法を知らない不器用、強引さがあるから。
 だからこそ、紫原はこんな珍しい時間を、あまえを、弱さを、見逃したりしない。身体に沁み込ませて、味わって、満たしたいし、満たされたい。
「情けないな、本当。自分のことなのに」
 人が止めてるのに、傷つける言葉を紡ごうとする、自身への厳しさをどうにかして欲しい。
 紫原は先を読み取り、唇を塞ぎ、物理的に言葉を遮る。かすかに開いた唇に、紫原は舌をねじ込んだ。歯列をなぞり、上顎をくすぐり、相手の舌を舐める。
 雅子の吐息を肌で感じ、熱くなっていく。その熱が、冷えた心の雅子に移れば良い。何処でも良いと投げやりになるほど、愛したことから離れる辛さがあっても、選択に失敗しなかったと思わせられるように。
「……っ、馬鹿だな、私は…」
 一度少しだけ離すと、その隙間から、泣きそうで、絶対泣かない声色が零れた。
 幸せすぎる、苦しさではない。幸せな筈なのに、虚無感で溢れる。馬鹿らしいと思っているのに、その感情を持て余す。
 そんな、自分を突き放す罵声。
 どれを選んでも後悔すると分かって、決めた答えを――もう、悔やんでいる。何度も来るだろう、苦しみに、弱ってしまう自身を卑下しているだけ。
 塞ぎきれなかった、遮れなかった。雅子が自身を傷つける、厳しく当たる行為を。
「もーまさ子ちん、俺が頑張ってるんだから、無視するのやめてよね」
「わるい」
「謝るならやーめーて」
 人の努力をなかったことに、しかも読んでいて自我を貫く相手に、ほとほと困る。
 紫原が額を合わせると、雅子は微かに笑った。可笑しいというより、自覚しての苦笑と、それに呆れている紫原に納得しているのだろう。
 今のことだってそうだが、他にも面倒くさいことが、山積みだ。それでも尽くしたい気持ちが勝っていた。これは、雅子がくれた唯一のもの、尊いもの、とも思っている。
「まさ子ちん、馬鹿だから…面倒なこと考えないで良いよ」
 だから、情緒不安定が面倒くさくても、あまやかす。涙脆いくせに、自分のことでは泣かない人に。弱くてもいいのと分かっているくせに、弱い自分を隠していられる人に。
「俺が、  」
 考えは間違っていないと、許してあげるから。
 離れないで、捕まっていて。ずっと傍にいて。
 崩れそうになっているのは、雅子の方で、あまやかしているのは自分の筈なのに。向こうが「傍にいよう」と優しく包容してくれているような気持ちになるから、本当、いつでも、紫原は必死だった。


これはあるひとつの選択。
仕事を続けず、家庭を選ぶお嫁さんの、ひとつの未来。





※この後、ひとつの未来の先『Twinkle, twinkle, little star-前編 / 後編 / The end roll




back





×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -