体育準備室でゆっくり昼食をとりつつ、時間を潰すのが日課である。数名の体育教師が使用している為、ひとりの空間にはならないが、職員室より緩い空気だ。学校ならば十分贅沢な方だと、雅子は思い、好み利用していた。 所用あって少し遅れたが、今日とて昼休み、準備室に入ってみれば。先に居座っていた教師から「主将が部室の鍵を取りに来ましたよ」と伝えてくる。それに対し間抜けな声が出なかったのは、職場意識の意地だ。これがなければ声に出ていた程、驚いた。 朝練から放課後練までの間、部室の鍵は準備室で管理している。だから、取りに来ることはおかしくない。 「主将、ですか?」 それでも『主将』の部分が引っかかる。 「ええ。紫原君が主将になったのでしょう?」 何か間違えていたか、と不思議そうな表情で返されると、これ以上問えなくなる。 接点がなくとも外見の印象強すぎて、学校中誰もが紫原を知ってしまう。誰かと間違う筈がない。 それに、つい数週間前終えたWCを目処に、男子バスケットボール部の主将は氷室から紫原へ代替わりした。これも正しい。 「えぇ、そうです。紫原がですか…分かりました」 それでも、すっきりしないのは。紫原が昼休み、部室に来る用事など、皆目見当がつかないからだ。 雅子は昼食を軽く済ませ、部室に向った。よからぬことを予想範囲内に入れている辺り、信頼していないと呆れるべきか。それとも紫原に問題要素が酷すぎるだけか。どちらにせよ、都合が悪いので、考えないでおく。 ノックから間を空けず、室内から声がかかった。気の抜けた、いつもの聞き慣れた声色。内心安堵したなんて――その声の主に言える訳もなく、平常心を唱えながら扉を開ける。 「あれ、まさ子ちんだ」 人の懸念など、知らぬが吉。問題児扱いされた紫原は暢気な声で緩く表情を崩す。手には駄菓子の袋。昼飯は終えたのか、と内心思うも、無意味すぎて声にならない。 「あれ、カントク。どうかしましたか?」 「急用アルか?」 部室にあるパイプ椅子に腰掛け、弁当や菓子を広げる、氷室と劉もいた。こちらは紫原より不思議そうな表情を浮かべている。 「……なんだ、3人か」 引退したとはいえ、スポーツを含む大学推薦組はだいたい部活に出ている。特に寮生徒は部活詰めだった所為か、暇すぎて時間を持て余し、自由登校でも出席率が高い。なので、引退した3年がいてもおかしくなかった。 現主将の紫原、ひとつ前の主将と副主将が揃ったならば、相談にのっていると検討するのが無難だ。ただ、この3人の性格を知っていれば、無難に当てはまらないと気づくが。 「部室の鍵がなかったから、ついな。それよりも、珍しい。いつもここで食べていたか」 部室の使用は許可している。そして、変な問題は起きていない。まっとうだ。 こんな状況で問いを受けたら、雅子が追いやられる。だから、軽く説明するのみで「つい」がどういう意味か答えず、話を逸らした。先手が勝ち。 「んー? そんな面倒なこといつもしないし。今日は逃げてきたの。俺じゃなくて、室ちんがね」 面倒とは――場所を移動して昼食をとることが、だろう。極力動きたがらない紫原は教室でぐだぐだしていることが多く、探すのに手間いらず。 「アツシは施しだから良いけど、オレのはちょっと…大変なんだ……」 「最後のチャンス、気合い入るネ」 「リュウも同じだろ?」 「ある程度なら、食費浮くアル」 「俺もくれるならもらうよー? お菓子いっぱいの日だし。ちょっとチョコレート飽きるけど」 案の定、話題に乗ってくれたのは良いが、如何せん話について行けない。話題を振っておきながら、少々面倒になってきたな…と思う辺り、雅子も相当適当である。どうしたものか、と駄目な大人は周囲を見渡し――何となく聞いていた『施し』と『逃げてきた』と『食費』の意味を理解した。 本日、2月14日。製菓メーカーの営業が頑張りに頑張った結果、大きなイベントと化している。男女が愛や恋を紡いだり、友達同士で交換したり、社会人ならお歳暮ならぬ謝礼として渡したりする、なんでもありな日。 「そうか、バレンタインか」 ついぽつりと零してしまったのは失態だった。話を聞いていたのか聞いていないのか、顧問の微妙な反応に、男3人が驚きの視線を向ける。 「あー…不毛な理由での部室使用だが、目を瞑ろう」 教室に置けきれなくなったのか、部室に来るまでに貰ったのか。可愛らしいラッピングの箱や袋が幾つもある。しかも、簡易包装ではない見た目。義理ではない、と取るべき類のばかりだ。 貰えないと嘆く生徒たちを見て来たし、上げられるかと不安ながらも頑張ろうとする生徒たちも見て来たから、これがどれほどありえないことか分かっている。ただ、貰いすぎて部室まで逃げて来た、という部分が何とも評価しがたい。 「ここで授業サボるなよ。ちゃんと鍵返しに来い」 これ以上問いかけたら、放課後楽しみにしておけ、くらいの強くも嫌に面白そうな笑みで黙らせ、失態を逃げ切る―― 「ねーまさ子ちん」――つもりが、長居は無用と踵を返したところで、声をかけられた。いつでも雅子のテンポを崩すのは、紫原である。 「監督と呼べと何度言えば分かる。主将になったんだから、周囲の手本にな、……なんだ?」 もはや習慣である。注意をすぐ済ませれば良いものを、食いかかるように振り返ってしまったのがいけない。いつのまに席から立ったのか不明なのもあって、距離が近いことに驚いた。一歩引いたり、奇声を上げなかったのは、雅子の矜持だ。 「まさ子ちん、バレンタインて何の日?」 昨年初めて日本で迎えたバレンタインデーにぐったりする氷室を見て来た男だ。クラスメイトや女バス部員たちから、施しも受けている。だから、バレンタインデーそのものが何か聞いている意味が分からない。 雅子が紫原の背後にいる氷室と劉に視線を向けるも、彼らは見守るのみ。見守る、の意味もさっぱり検討つかないが、援護は見込めないとだけ汲み取れた。 仕方がない。不明点を問いかけていたら、えらく遠回りしそうだ。回答だけ、声にする。 「男女問わず、愛や恋、友情、謝礼を伝える日だろ」 「なんだか他人事だね」 「……イベントに敏感でもないしな」 声に出しながら、女子力のなさに苦笑が滲む。 雅子は『敏感』で濁したが、実際のところ、かなり疎い。生徒に何を言っているのか、という呆れも湧いた。 「じゃーまさ子ちんにとって、バレンタインてどんな日?」 「どんな日?」 少し内容がズレた。紫原は、何を、望んでいるのだろう。 真意が読めず、雅子は見上げるも、真っ直ぐな瞳から見抜くことが出来ない。真っ直ぐなのに、分からないなど。教える身として不甲斐なさを感じる。 「……色々な物を貰う日、かな」 茶化している風には捉えられなかった。だから、未熟さを隠し、紫原の態度に偽りなく答える。 昔から、貰ってばかりで、渡すという感覚が鈍ってしまった。当日に受け取って「あーバレンタインか」などと思う低レベルだ。 「やっぱり」 「的中、だね」 「期待を裏切らないアル」 部員3人の納得声に、雅子は釈然としない。予想もしていなかった、と思われるのも微妙だが、その肯定を素直に受け取ることも出来なかった。 彼らが深く頷く理由はある。 男子バスケットボール部は毎年マネージャーが部員に慈悲の義理チョコを配っていた。雅子はほどほどにな、という緩い忠告のみ、一応顧問公認。 しかもそれを部員みな認識の上で、マネージャー一同が「監督、いつも指導有難うございます。貰って下さい!」と一番大きなバレンタインチョコを渡す。ワザとらしく朝練直後、部員の前で。 「お前らなんておまけなんだよ」と叩き付けられているような、頂点を教え込まれる瞬間であり、何故か毎年恒例だった。 公開告白みたいな現場ながら、雅子は自然に「いつも有難うな」と淡く微笑み、恥ずかしそうな表情がない。生徒だから眼中すらないのもあるだろうが、慣れている雰囲気かつ余裕な態度。 納得の要素はそこら中に散らばっていた。 「女の子からそんなに貰うの?」 「数の基準は分からんが……まあ大半女子から、それなりに貰うな」 「大半?」 「男からも…て何を言わすんだ。貰う日という認識なのは、お前らと同じだろう」 良く分からない方向に傾いて来たな、と雅子は内心思い、微妙に逸らそうとするも、しくった感が否めない。教師である以前に年上としてどうかと思う発言だった。苦笑混じりに誤摩化そうとすると、紫原が思案めいた表情をしている。 「どうした」 「んー考え中ー…ちょっと待って」 「……紫原?」 紫原の思案顔に何か引っかかる。これは2年に上がった頃からで、そろそろ1年になる。だいぶ経っているのに、明解な憶測が出来ずにいた。 感情が垣間見えそうになっているのに、自分では掴めない。生徒の全てを理解するなどおこがましいが、表面も気づけないなど教師の矜持が許さなかった。 「えーっとねー」 紫原が手に持つ菓子袋を置いてから、自身のセーターやズボンのポケットを叩き、何か探している。 「まさ子ちん、手ーだしてー」 「……手?」 「はーやーくー」 違和感ばかり残るが、抵抗しても時間の無駄だ。バスケットボール以外適当だが年上に礼儀を持つ氷室と、仲の良い友人にのみ無礼を大判振る舞いする劉がいるので、いたずらなどもなかろう。 雅子は一息ついてから、要望どおり手を出す。すると、紫原の大きな手が重なった。何かを置き、すぐ離れる。 「まさ子ちん、いつもありがとー」 手には一粒一粒包装されたチョコレートが幾つも入った箱。購買部で売っている類の菓子だ。 「……貰いものだろ? 自分で食べろよ」 「違うし。俺の」 「紫原の私物?」 「そう」 「……私に?」 「そうそう。まさ子ちんに」 『男女問わず、愛や恋、友情、謝礼を伝える日だろ』 先程自身で紡いだ台詞が脳裏を駆ける。最後の部分だけ、引っかかった。 紫原から、謝礼。 珍妙な言動だと思えた。欲しい欲しいと受け取りたがり、施しを受ける男が、誰かに渡すなど。 この商品が美味しくないのかと一瞬疑うも、流石に失礼と考え直し、忘れることにした。 「紫原から?」 「俺以外誰に見えるの」 呆れて突き放し、返せば良い。いつもお腹空いたと嘆く男から貰うほど、雅子は飢えていない。 でも、感謝を突き放すのは教師以前、人として良くない。慎んでいるならば、バレンタインデーに浮かれる生徒にも目を瞑っている。マネージャーからも受け取っているので、ひとりだけ拒むのもおかしい。しかも本当にささやかな量と値段。色々なことが詰んでいて、拒む点が定まらない。 「後でお腹空いたから返せとか言うなよ?」 「あげたの返してとか言わないし」 「3倍で返さないからな?」 「まさ子ちん、マネジにそんなこと言われたの…?」 「言われてないが…」 五指で箱を掴み、手にあることを実感させる。不思議な気分だ。菓子好きから菓子を貰うなんて。 「……では、貰おう。有難う、紫原」 短く息を吐いて、仄かに笑みを零した。 恋か気まぐれか
-Amore o grillo- 雅子の価値観がおおらか、と捉えるべきだろうか。逆チョコに驚いていなかった。 「……成功、したのかな?」 雅子がいなくなってから、氷室が首を傾げつつ気持ちを吐露する。その隣で劉が微妙な表情を見せた。 「受け渡し、は成功したネ」 紫原からのバレンタインチョコ。渡すことだけは決めていた。それ以外、何時かなどの計画はしておらず、今のは本当に偶然舞い込んだタイミング。話を聞いていた劉は、雅子が正確に読み取っていた『見守る』ことで、紫原を応援していた。 「……びみょー」 紫原が唸るように、答えを言い切る。盛大に溜め息をついてから、パイプ椅子に座り込んだ。 「まさ子ちん、手強い」 本当は欲しい。貰いたいと思っている。 だけれど、毎年上げている姿を見たことがないと聞いていたので、今年も期待出来ない。だから、海外仕込みの氷室が提案した。諦めるのではなく、男からあげてみてはどうかな、と。 「オレの作戦は不発だったね…」 「ううーん。強請ってもくれないから、室ちんの案が一番良かった」 「おー…なんか恋してる感じするアル」 「感じじゃないし」 「うーん。特別なアツシでも、難関だね…」 受け取った時の表情は、好印象だった。でも、嬉しいというより、少し人らしく思いやれる気持ちが出来て、それに触れられた喜びにみえた。個人の男としてではなく、部員のひとりとして、人として――でしかない。 「今も特別?」 「特別アル」 「そうだと思うよ」 「んー…だったらフツー気づかない?」 想いに。 そう含めて問い質すと、今度は年上ふたり苦笑を返した。 氷室と劉も、紫原の意見に同感だ。でも、そこそこ聡明な雅子が気づかないのは思い込みによるもの。あまりにも「教師として懐かれている」の発想が強すぎて、他を否定する。弟のように思われている姉心と同類。あと子供っぽいところが印象的すぎて、「同年代以外に恋をしている」に至らないのだろう。 それに行き着いたのは卒業した先輩――岡村であり、付け加えたのが福井だ。恋にそこそこ疎い岡村だが、信頼されていただけあって、雅子のことを的確に当てる。否定しにくいし、これより正しい意見が浮かばない。 「アツシ、告白はしないの?」 「……は? 言ってないアルか」 真っ向一番気持ちを伝えそうな性格だ。劉はてっきり何度も言ってあしらわれていると思い込んでいた為、目を丸くした。 「うん、言うのは簡単だし」 告白を容易いと表現出来る性格はそういない。その直球に思いを声にしてきた男が、今の策略に価値がないと言い切る。 「まさ子ちんには言葉が一番利くし、気づいて欲しいけど、時間与えたらダメ。まさ子ちんの防壁が頑なになる…世間体とか、倫理観とか、そういう正論で防ぎきる」 振られたら諦められるようなものを、紫原は好きと呼んでいない。心が強いというより、恐いものを知らない若さ、極論な精神。 そこまで分かっていて、突っ走ろうとする。諦め切れないから、大事に大事にすると決めた。こうもじれったく、長期戦なんて策略をとる珍妙だって選ぶ。それが最善ならば、負けない為ならば、方針だって変えよう。 「完全に緩ませたところで落とすべきだから、好きって言葉は、最後にとっておくの」 難関なものが多すぎて。効果絶大、貴重な想いの吐露すらも霞んでしまう。だから、最後の最後まで。最初に言いたい『好き』を、隠しておく。 「長期戦…とか、本気ネ」 「アツシらしくない…のか、マジだから、特殊なのか。なんか不思議だね」 「えー? 俺だって、面倒くさくて捻りたい衝動いっぱいだし。でも、」 心底億劫そうに、今にも投げ出しそうにした口調。でも、最後に否定の接続詞を加え―― 「手強いのもまさ子ちんの一部じゃん。しょーがないし、なんていうのかなー……あー分かった。『たまんない』よね」 捕獲し食い尽くそうとする笑みを見せた紫原を視界の隅にいれた氷室と劉は、「こいつも男だったのか」など失礼なことを思った。 back |