先程まで校章のついた旗や手入れされた花壇、均等に並べられていたパイプ椅子などが撤退されれば、見慣れた景色となる。行き慣れた場所が厳かな空気により違和感を漂わせ、加えて未来へ馳せる感情がまざれば、居心地悪く、雅子は一息ついてしまう。
 安堵はしていない。この広い体育館がやけに静かで、ひとり立ち動かなくなることが、今の心情を表しているようで、むしろ辛かった。
 手塩にかけた部員や、生徒が旅立つ、卒業式。今年は雪がやんでいて良かった。微かに晴れ間も見えていて、北国なら十分良い天気だろう。
 三年の歳月なんてあっという間だ。学年という枠がある所為か、若い時でもそう思うもの。大人の雅子からすればもっと、早く感じる。
 新しい門出を祝う、教師として喜ばしい。いなくなっていくことに、ひとりの人間として寂しく、思う。
 前者は声にだそう。後者は、心にしまっておこう。生徒たちにとって、雅子は教師であり、顧問だから。
 見送る立場を選んだのは自分だ。この職に就く前から、分かっていたことでもある。そして、毎年繰り返すことだから、慣れたいと思う。でも、慣れたくないと拒みたくもなる。
 もどかしい。つい感傷に浸ってしまう。いや、浸っても良い時間など、式が終わった少し後くらいしか許されていないように感じていたから。誰もいない慣れた体育館で、少しだけ自分と向き合うことにしている。
 雅子は体育準備室に置いている私物のボールを弾ませ始める。少し、慣らして。フリースローライン辺りで体勢を取る。
 筋肉の動きが悪い。持ち上げたボールも少し重たく感じる。物理的基礎体力不足。
 加えて、なにより足が重たい。釘を打たれたかのように、動かない。これは、精神的なもの。
 軽く膝を曲げるだけで、ボールを放つ。飛ばない。否、飛べない。ジャンプでもレイアップでも、軽く走って、軽く飛べば、入るだろう。鈍っていてもそれくらいは出来る。
 それなのに動けなくて、無理矢理手から離した。
 ボールの行き先を、ゴールから視線を外さない。見つめる。ぐしゃりと、視界が滲んだ。揺らぐ。涙で遮られているのだと分かったことには、もう心が焼けるほど熱かった。なにより、苦しい。
 リングにぶつかる、嫌な音。ネットをかする音もない。
 外したな、とぼんやり思う。

「やはり、飛べないな」

 羽はもげた。大人になって、なくなってしまった。
 精神的に、自身がそう思い込んでいるだけだ。分かっているのに、それを拭い捨て去れない。
 生徒を見送る。この地で、立ち止まったまま。一緒に進むことなんて出来る筈もないのに。
 何を望んでいるのだろう。いや、何を恐れているのだろう。
 嘘だと、分かっている。ただ、飛べないと自覚する瞬間が、コートから離れた時と類似していて。思い出すと、事が重なって、恐い。憧憬もあって、一緒に駆けたいと思ってしまう。
 これは、夢を捨てたのに、未練がましいのと似ている。
 重力にまかせた緩く弾んでいくボールの音。右に飛んで行った気がするが、見ることが出来ない。曖昧な方向に進んで行く様を、今、見ると、自分と重なりそうだから。
 無性につらいな。
 雅子はそう思いながら瞼を伏せ、溢れ出そうになる涙を頬に流しかけ――いきなり規則的にボールを弾ませる音が聞こえた。それもほんの少し。雅子の視界、右から左へ巨躯が軽く飛び、ダンクでボールをリングに叩き付けた。
 驚いた。誰かいると思いもしていなかったことも。ボールが戻って来たような感覚を得たことも。行き先の分からないボールが、ゴールに入って安堵したことも。
 着地してすぐ、雅子の方を見て、首を傾げる巨体が誰か。滲んだ瞳でも、分かる。

「まさ子ちん、怪我してるの?」

「……紫原」
 名を呼ぶ声が掠れていないか。不安が過ってしまった。


***


 強くて格好よくて逞しい先生兼女監督が、実は涙もろいことを、そういう情熱を、部員誰もが知っている。そして、それは巡り逢いやすい。
 だが、卒業式後、雅子がひとり体育館か部室で泣いている場面に遭遇する人は少ない。未練があったり、思い出が深すぎる部員が見つける程度。
 紫原がその話題に触れたのは、偶然だった。卒業式が終わり、これから三送会まで何して時間を潰そうか話していた時のこと。丁度一年前、部室に向っていたところ、事を知っていた岡村と福井に捕まり説明を受けたと、劉が話したのだ。
「青春いっぱいの体育館に別れは告げてえよ。だから何人も見ている筈だ。でも噂にもならねえ」
「なんだろうな…どんな思いかは分からんが、卒業式に、監督が泣いてくれること。それだけで、嬉しいんじゃ」
 惜しんでくれる気持ちを、尊さを、大切にしたくて。自分だけが知っているような気分になりたくて。黙ることを選ぶ。そして、監督をひとりにさせてあげたいと考えてしまう。恩返しのように思えるから。
 故に、雅子は部員に気づかれていないと思い込んでいる。
「今年はどうじゃろうな…」
 懇願を含んだ岡村の声色と、遠くを見た瞳が、印象強い。
 それが背中を押したように感じられ、紫原はいきなり駆け出す。一緒にいた者は皆ぎょっと目を見開いた。
「行ったらいかんぞ!」
「ばっか! 人の話聞いてたか!」
 何処へ向ったのか、気づかない訳がない。
 興味で走り出したのではないと分かっている。それでも、どんな結果を招くか予想もつかず、捕まえ、止めようとした。
 岡村と福井が誰よりも早く諦め、声を上げる。彼らなりに、色々なことを後輩に託したこともあり、来期幕開けの前兆を見たいのだろう。
「紫原!」
 劉が伸ばした手は空を切った。慣れれば遠慮しない性格だが、そこそこ生真面目な男の露骨な舌打ち。しくったと、思っているのだろう。紫原はそれを察しても、劉の為に止まることは出来ない。
「アツシ!!」
 氷室の声すらも振り切り、ただ走る。英語罵声が飛んだけれど、そこまでは聞き取れない。「あいつが本気で走ると誰もとめられん」や「つーか練習中でもそうしろよ」など呆れや諦め声が続いていた。
 壁はもうない。
 紫原はみなの声を背中越しに聞きつつも、振り払って、体育館へ向った。


 おかしい。
 自分を責める涙ではない。誰かを思って泣く涙を、ひとりで零して、何になる。
 この湧き上がる感情が何か。紫原はまだ整理出来ていない。
 でも、不快でではなかった。面倒が多い世の中で、そう思えたから、大切にしたい感情となった。
 これは、雅子の為ではなく、自分の思いを優先してしている。そこまで理解していても、最善なのか、思考を仕切り直おす時間と余裕などなかった。
 ひとりで泣くことが本当に大切なのか分からない。
 その思いだけで開き直る。もう当たって砕ける勢いでいくことにし、面倒な感覚を放棄、直感で動く。
 その勢いも、開きっぱなしの扉手前で少し渋った。入るタイミングが見極められなかったし、独特な空気を肌で感じ、止められた思いに気づいたから。
 でも、リングのぶつかる音が聞こえ、紫原は衝動を抑えられなくなった。駆け出し、中に入ってボールを掴み、飛ぶ。歩幅が広めだった為、軽く飛躍し、ダンクで入れる。
 後々この時を振り返ってみたが、何故いきなり動けたのか。あの音が、スイッチだったとしか分からず仕舞いだ。
 着地して、すぐ雅子を見ると、瞬きもせず目を丸くしていた。頬に伝うのは、ほんの細い涙ひとつ。泣いているような、泣いていないような。止まってしまったのだろう。
「まさ子ちん、怪我してるの?」
『やはり、飛べないな』
 足の故障ではないことは分かっていたのに、偽りの質問を声にした。
「……紫原」
 微かに声が掠れている。動揺していると推測出来たが、これもしらばくれた。
「怪我はしていない。どうした、紫原」
 雅子が手の甲で涙を拭き取っているので、化粧落ちるよ、と思ってしまう。だけれどそれが声になることもなく、紫原は短く息を吐き、可笑しい気持ちを外に出す。いつもの距離まで足を進め、心持ち屈んで、顔色を窺った。
「どうしたじゃないし」
 立つことすら辛そうな、脆い雰囲気が、浮き彫りになっている。三年が引退する時など、見え隠れしていたから、初めてではない。でも、こんなにはっきりとした危うさを、ひとりでなんとかしようなんて考えているなんて、見過ごせない。みなに止められてでも来て良かったと、紫原は安堵する。
「はい」
 紫原は軽く腕を広げ、手を前に出す。すると雅子が怪訝そうな表情を見せた。
「なんだそれは」
「俺の胸貸して上げる」
「……遠慮する」
「言うと思った」
 色々な状況、立場、精神が邪魔をして、拒むだろうと予想出来ていた。そんなあっさりあまえてくるようでは、格好良いの評価は得られない。
「俺が壁になってあげる」
 ほんの少しだけ近づく。
「お前がいなければ、誰も見ていない」
 何人もの部員が見ているから、言っているのに。知らないという意味は、善し悪しの区別がつかない。
「誰かいた方が、まさ子ちんすぐ進めるでしょ」
 雅子はひとりで泣く嫌な強さを持っている。誰かがいると、すぐ起き上がって、気づかせもしない。
 それを自分が望んでいると思って。早く、早く、進んで行く。
「俺居た方が良いじゃん」
 少しずつ、違和感がないように。内側に、入る。
 この感情を、理由を、紫原は理解しておらずとも。この気持ちに抗わず、今、したいことをする。
「勝手なこと…!」
 後一歩でぶつかるという距離で、雅子が紫原の手を叩こうとする。近づくなという拒絶として。
 でも。でも、途中で止まった。
「………紫原。動くな」
 紫原がどんな思いなのか、雅子には分からない。でも、この拒絶は、人の厚意を我が儘で押しのけているように感じた。お門違いだとも思えた。だから、叩けなかった。叩くのをやめた。振り上げた手を、下げる。
「ちょっと待て」
 支えて欲しいと距離をつめることも、逃げることも、考えつかない。決断力が鈍っていることは分かっているので、ただただ、前にいる男を制止する。
「お前といると嫌でも落ち着かないといけない気がする…」
 すうっと大げさに深呼吸。大人なのはどちらだ、と思えば心拍数も、乱れた心も、だいぶ落ち着く。
「まさ子ちん。それ、ひでーし」
 雅子の声を紡ぐ長さが伸びて来た。もう、立ち上がろうとしている。本当に早い。
 独り占めしたいと思う時間も、あと少し。小さく上下に揺れる肩を抱き寄せられたら楽なのに。そう思い、紫原はつい首を傾げた。なんだろう、この気持ち。さっきから不思議だ。
 自分の感情はひとまず保留。気を紛らわすように、いつも騒がしい体育館を見渡す。
 いつも煩わしい喧噪さがない。物音ひとつ、うるさく響く、静寂さ。冷えきった空気が、鈍くも重い。
 少しずつ冷えていく。特別な思いが別のもので覆い被さる。心の何処かに置いといたものと、向き合う羽目になった。
「ねーまさ子ちん」
 嫌な感情は吐露し、心に残すことを避ける。
「俺もちょっと、寂しい」
 当たり前が当たり前でなくなる意味を、またも噛み締めさせられた。しかも中学時代は自ら飛び出して秋田に来たが、今回完全に見送る側。心に空いた穴は、埋まりそうもない。
「ちょっと、か?」
「ちょっとだよ」
 嘘付け、と言わぬばかりに雅子がくしゃりと歪ませた。笑いたいのだろう。でも、泣いていたことにより、崩れている。
 本当に、他者がいると立ち直る早さは異常だ。時間なんてさほど経っていない。雅子はあっさり引き、紫原から離れた。
「失った部分を、新しいもので代用しても、同じになれない」
「分かってるよ」
 帝光の時に一度空いた穴は、陽泉に来て数ヶ月、そればかり感じた。でもいつのまにか埋まっていて、過去と一致することはなく。どちらも同じ枠組みで、別物だった。今なら、なんとなく、分かる。
「俺がこっち来て…もう一年だよ、まさ子ちん」
 誰かが去って、誰かが入ってくる。あと一ヶ月もしない内に新一年生が加わり、本当の意味で新生の陽泉は動き出す。
 心が追いつかない、終わりと始まり。北国では桜もまだ先だが、暦では春。本当に慌ただしい季節だ。
「……なんだ。今を大切に思える選手になれたんだな」
 いつもの距離になってから、いつもの口調で、雅子から言葉が紡がれる。
 他者に興味を持たない男が、周囲の輪を理解している意味を噛み締めて。そこには少しだけ、成長を喜ばしそうにする笑みが加えられていた。





春のはじめに
-Der Fruhling-












 北国は主に室内競技が盛んで、陽泉も何面かコートを所持している。その出入り口、体育館のロビーに靴が散らばっていて、人がいると確信していたのだろう。紫原が靴を履き、外に出てみれば、氷室と劉がいた。
「あれ、どしたのふたりとも」
「どうしたじゃないよ、アツシ」
 コラ、と軽い口調で、氷室が紫原の腕を叩く。それから紫原の鞄を差し出した。
 走り出す際、邪魔で投げ出したのをすっかり忘れていた紫原は、そういえばと思いながら受け取る。
「主将と副主将は学校ひと周りしてくるって」
 いないふたりを探す紫原の視線に目敏く気づいた保護者氷室が付け加えた。
「探してねーし」
『俺もちょっと、寂しい』
 吐露出来たのは雅子の前だけだ。それなのに、氷室も聞いたかのような素振りに、内心慌てた。
 劉と氷室は立ち聞きなどしていない。そこまで野暮なことする気も起きないから、体育館前にいた。何があっても対処出来るように、寒い寒空の下、後輩と、監督を、待っていた。
 それだけでも、本人から聞かずとも、紫原が寂しそうだと気づける。いつも無表情の男が、少し拗ねるように、少し不満そうに、少し自分の感情に困惑しているように、表情を陰らせていたから。
「連絡したアル。校門で集合ネ」
 紫原のことを任せた岡村と福井は、時間潰しをかね、思い出探索に出ていた。劉が福井にメールを送り、合流を促す。
「これからどうするの?」
「駅ビルで何か軽く食べようかって。アツシ、三送会までお腹もたないだろ?」
「んー…お腹すいたー」
 式中は特に開けるな食べるな、と散々言いつけられていたので、本日の摂取量が少ない。通常の感覚に戻していくと、食欲が湧いてくる。
「……ねえ、アツシ。変なことしてないよね?」
 校門へ歩き出してから、氷室が紫原を見上げた。胡乱な視線を隠さずに。
「変なことって何」
「……アツシ、」
 その視線の意味は分かっている。でも紫原は茶化した訳でも、誤摩化した訳でもなく、素でそう返したまでだ。
「なにも」
 後方、体育館に視線を向けてから、紫原は氷室が望む、質問の答を、言い直す。
「いつものまさ子ちんだよ」
 嫌なくらい、逞しい監督のままだった。それが嬉しくもあるし、不満でもあるが、嘘もついていない。
 恥ずかしさも、浮かれた心も、苛立ちも、不安もない――いつもの気怠そうな表情。不安はなかったけれど、少し予想外な態度だったのは確かで。氷室は勿論、静観していた劉も隠そうとした感情が溢れ、僅かに目を見張る。
「……春、かな」
「あーそんな表現あったアル」
「春? まだ雪景色じゃん」
 巡る季節を、真新しい春を。確かな開幕に、氷室と劉は立ち会ったことを、噛み締めた。



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