今期ウィンターカップ決勝戦の高校が決まった。その期待や高揚感をあっさり覆い被さるが如く、敗北後に観る試合の痛みが心を占め、強く、痛む。
 コートに立てていない焦燥感、未来へ馳せる思い、過去を置いていく意味。色々なことが溢れ、混ざり、何から整理すれば良いのか分からない。
 それでも、それでも。早くボールを持ちたい気持ちだけは、はっきりしていた。

「室ちん、かえろー」

 ゆるい掛け声で、我に返る。
 コートから視線を外せず、立ち止まっていたことに気づいた。疲労もさほどないのに、身体が重たい。足も動かない。振り返ってみれば、帰りの人混みでも、ひとつふたつ飛び抜けた紫原が少し先で待っている。
 立ち止まっている訳にはいかない。紫原を待たせてはいけない。氷室は繰り返し思い、重たい足を、無理矢理動かす。
「ごめんね、アツシ」
 待っている人がいれば、なんとかなるものだ――なんて思いながら、紫原の隣につく。
「ゆっくりしてると門限越えちゃうよ」
 WC遠征に関し、大会全日分の宿泊を確保しているが、これこそ結果によりけり、毎年臨機応変である。今回は4回戦敗退で幕を閉じたが、最終日まで残ることとなり、本日門限付きの自由日。学生の枠内で羽の伸ばせ、と監督からお達しがあった。観光に出掛けた部員もいるが、氷室は面倒くさがる紫原をつれてのウィンターカップを選んでいる。
「そうだね…本当、気をつけないと」
 指定された枠からはみ出たら、荒木が何の罰を飛ばすか。練習中の厳しさを踏まえれば、鬼内容の候補が幾つも上げられる。だから、部員みな派手かつ無茶かつ冒険なことをしない。門限は最低突破しなければならない、当たり前の事項であっても、いつも異常に重要視してしまうのだ。
 氷室が意味を噛み締めながら、相槌を打った。

「あれ、まさ子ちんじゃね?」
「え、ドコ?」
「あそこー」
 指先が気怠そうに右へ動く。倣って視線を向ければ、人混みを避けるように廊下の隅で男と話す荒木がいた。
「ホントだ…」
 荒木がいることに驚きはない。根っからのバスケ好きだから、純粋に試合観戦か、監督の仕事か、どちらが割合を占めているかに悩むくらいだ。
「男?」
 性別の判断ではなく、荒木の彼氏か、という問い。
「どう、だろう…?」
 遠くからでも氷室くらいの身長はあると推測出来る。癖のある黒髪、どことなく柔らかな仕草、引き締まった体型を包むスーツ。頭から爪先まで綺麗に整えた印象すらある。
「どっかで見たような…」
「え、室ちん知り合い?」
「いや、そうじゃなくて…あ、」
 氷室たちの存在に気づいたのか、荒木がこちらを見ていた。すぐ男の方へ向き直り、頭を下げてから身体を翻し、向ってくる。
 素行を心配されているのか、相手との別れ手段に使われたのか定かではない。けれども、いつも厳しい人がゆるく笑みを零す瞬間を見れば、優先順位の高さに嬉しく思ってしまう。
「まだ残っていたのか」
「え? あ、はい。その、カントク…」
 まだ残っていた、の『まだ』に引っかかるが、荒木の感覚でそうなのだろうと深く考えず、氷室は肯定した。躊躇いがちに視線を向け、喉元で抑える疑問を声にするタイミングを見計らう。
「なんだ?」
「オレたち、行くって言いましたか?」
 自由行動でウィンターカップに行くとは伝えていない。それなのに、いると分かった前提で問い質して来ている。食い違い、違和感。
「そんなことか。お前らが立って観戦していたら目立つぞ」
 荒木が呆れ面で紫原を見上げた。大会中なので長身はごろごろいるが、紫原くらいとなると滅多にいない。彼が目印だったようだ。
「それに、氷室なら来ると思っていた。お前は、バスケ以外適当だしな」
「…………そう、ですか」
 バスケ中心で良いと思っている。だが、それを周りに指摘されるのは別の話だ。
 それなのに嫌な気がしないし、素直に頷ける。予想以上に悪くない距離に戸惑いがあるだけ。少し前まで、氷室を構築する大半はバスケとタイガとアレックスだったから。隣にいる紫原も含め、許容範囲が広がっていることに驚きと気恥ずかしさを感じる。
「ねーまさ子ちん」
「監督と呼べ」
「さっきの男、誰?」
「ア、アツシ!?」
 ぎょっと目を丸くし、氷室が声を張り上げた。
「ん? あぁ、昔お世話になった方で、今も目を掛け……てお前ら、なんだその落胆というか溜め息は」
 隠す気もない態度からして、事実であり、邪心もないのだろう。氷室と紫原がほっと溜め息がついてしまったのは、つまらないより崩れぬ理想への安堵からだ。
 でも、それが荒木には伝わらない。むしろ、伝わるべきじゃない。
「なんでもなーい。あと、まさ子ちん」
「だから監督と呼べと言ってるだろうが」
 毎度毎度繰り返すやりとりに、氷室はどちらもしつこいな、と内心思う。氷室の性格だと、目上の監督が絡んでいなければ声になっていた程である。
「用事終わり?」
「……そう、だな。終わった」
 逡巡ののち、肯定。
「あと帰るだけ?」
「ああ」
「じゃー一緒に帰ろ」
「……は?」
 荒木が間抜けな声をあげ、お前誰だみたいな視線を投げたのは致し方なかろう。女性を保護する態度は無自覚氷室の手段であり、紫原にない筈だ。
 話が続かない、間が持たない。
 上下関係にはそういう苦痛や窮屈が付きまとう。だから帰路を誘われるなど、思いもしていなかった。
 部活中なら、荒木だって気にしない。そんなこと考えない。でも、今は自由行動範囲内だ。年下に気遣われる訳にもいかないし、自ら気を利かせて「門限までには帰れよ」と切り出そうとしていたからこそ、躊躇う。
「なに、まさ子ちんは門限ないの?」
「いや、門限前に帰って、門限越えた奴がいないか確認するが」
「だよね、じゃあ早く帰ろ。俺お腹空いたー」
 監督と帰れば「門限クリア」だと分かっている紫原は、一般概念まで気を回していない。むしろそんなことどうでもよく、荒木の躊躇いをあっさり蹴飛ばす勢いで、首を傾げる。
 この発想は中学時代、近所のさつきを置いて帰る青峰を叱る赤司見て、植え付けられたものだ。その経緯を知らない荒木からすれば珍妙にしかとれなかったが。
「オレも賛成です。女性ひとりで帰るのは危険ですよ」
 これはなんだ、みたいな視線、珍しい。紫原の思考に様子見だった氷室が、荒木の態度を見てそう思う――のに、助け舟ではなく追い打ちをかけた。
 部活帰りはいつもひとりだ…と荒木は内心反論するも、これは何を言っても無駄と判断する。変に考えず、彼らの性格、感覚だけ素直に受け取ろう。気恥ずかしいとか、抵抗の方が、おかしい。
「………わかった、帰ろう」
 眉間辺りにトントンと指を当て、唸るのも一瞬。荒木は顔を上げ、それだけ答える。
「そうそう、かえろー」
 ノリのゆるい紫原の相槌に、荒木は早速返答にしくった感を抱いた。



 陽の落ちた、月が浮かぶ夜空の冷え込みは極寒区域育ちに支障なく。氷室と紫原と荒木の3人は周囲に比べれば防寒が少し足りない格好で、体育館外の広場を突っ切った。
「どうした、岡村、福井」
 石畳の階段を降りていると、花壇の縁に腰掛けた劉とそれを囲う岡村と福井に気づく。無視するのもおかしいので、荒木が声をかけた。
「監督。それに…氷室と紫原も」
 その声で気づいたふたりが視線を向け、軽く頭を下げる。
「偶然さっき逢ってな」
「は、はあ…」
 相槌が打ちにくいのは荒木でも分かっている。何か言いたそうな表情を無視して、話題を逸らす。
「そこの劉はどうした」
 苦笑混じりの岡村と福井が、ぼんやりした劉を囲んでいた。
 陽泉の部員は関東に来て「雪がない!」「あったか!」という感想ばかりで、厚着しない。それなのに、耳当てとマフラー、手袋に缶の飲み物まで持っている防寒っぷり。
「……いつからここにいるんだ」
「準決勝2試合目の途中くらいから、みたいですね」
 福井の説明曰く。
 はじめはひとり観光にでかけたらしい。だが、気づけばウィンターカップの会場にいて試合観戦し、次に気づいた時には外でぼんやりしていた、とのこと。
 散漫し過ぎだが、試合に燃え尽きた後だ。同じく観戦しに来ていた陽泉2年が、劉を放置も出来ないがそっとすべきと判断し、防寒具をひとつひとつ増やしていったらしい。慣れた寒さでも、身体が冷え、風邪を引いたら大変――という優しさである。その最後のパーツを着けているところに、岡村と福井が遭遇し、後輩とお守りバトンタッチ、今に至る。
「……どうしたい? リュウ」
 氷室がそんな言葉を出してしまうのも、無理はない。
 試合に負けて、憑きものが落ちた氷室や紫原など、少数である。試合のミスなどの失態で責任を感じる者、重圧に押し潰れる者、心に穴をあける者、燃え尽きる者などが多数だ。
 劉がそれに当てはまるかと言えば、みなそうと思えない。
 魂が抜けたような腑抜けさはない。肩の荷が下りた、だらけもない。
 ただ、何処に足をつけばいいのか、あぐねいている。戸惑っている。もどかしくしている。これからの陽泉を考えれば尚更早く地に足をつけたいと、身だけが前進してしまう。
「決めてから、戻りたいネ」
「リュウは考え過ぎだ」
「氷室に言われたくない」
 劉でも、氷室が同発想だと分かっている。同じなのに、強がるなと歯向かう。
「昨日今日でどうにかなる話じゃないよ」
 氷室も先程実感したばかりだ。否定は出来ない。それでも、今、ここで、劉が立ち止まる事を、氷室が誰よりも望んでいない。苛立つし、失望するし、ありえないと否定する。お前が、立ち止まるなど許さないとすら思う。
「それでも、繕うだけのものは最低限必要だ」
 ずかずか内側に入り込む2年ふたりに、仲良いのか微妙なのか。立場は似ているけれど、性格が正反対のふたりだ。何処か互いを一緒くたにしているし、誰よりも一緒を拒んでもいる。遠慮がないのは確かで、周囲が介入しにくい。
 これが悪化すると、部内で一番手に負えない、多国語の暴言と拳つき喧嘩に成り果てる。この前触れとして、劉のアル口調がなくなる――のだが、放送禁止用語系の暴言が飛び交い始めていた。もう過去形、だいぶ手遅れだ。
 会場付近で何をするか、と岡村と福井が慎重に様子見。それを含め全部員に対し傍観の荒木は、珍しく黙っている紫原を一瞥する。
 紫原も自身と向き合っているところだ。茶化したり我が儘を言えるほどの余裕もない。つつけば隠そうとしている部分が零れかねないと、口を閉ざし、中立にすらなろうとしない。ただ面倒くさそうな表情だけは相変わらずのっていた。
 加えて岡村と福井こそ、優勝旗に届かなかった思いと、引退という心の損失が強い。それでも後輩が目の前に居る限り、主将と副主将最後の仕事だと、頼もしくあろうとしている。
 それらを、少しでも氷室が察しているからこそ。珍しく自ら劉に食いつく。余裕なくとも、乱暴でも、対等に接するのは自分だけと分かっているから。
 各々、自身で立ち上がらなければ意味がない。それか、仲間と掴み合って強引に前進するしかない。
 時間をかけてでも大事なことだと、荒木は思っている。だから、こんなぐちゃぐじゃな空間で、監督として出来ることは、支える、見守る、だけ。選択肢が少ないから、即決、そして実行する。
「劉、氷室、」
 怒鳴らず、鋭さもなく。いつもの、傍にいる部員に声をかけるような、真っ直ぐで強く短い声色で、名を呼ぶ。
 すると条件反射、習慣。どんな暴言と化した口論中でも、劉と氷室が荒木へ視線を向けた。
 気力が足りていなくとも。何処に気持ちを置けば良いのかあぐねいていても。こちらを向く意識はある。声が届いて良かったと、荒木は苦笑の安堵を滲ませた。
「帰るぞ」
 突き放しているのではない。悩むことを拒んでいない。今、こんなところでする必要もなく、落ち着ける場所で、心と向き合えば良いから。
 そのために、ただ、引っ張る原動として。きっかけや背を押すための――少しだけ、柔らかな、一声。
「「……はい」」
 しっかりと、劉と氷室の返答が重なった。そして劉が腰をあげ、立ち上がる。
「さ、行くぞ」
 荒木が息を短く吐き、微かに笑った。その調子、と言わぬばかりに。
 この緩急極め方と指導者の意志に、部員みな弱い。恋愛感情なくとも年上の女性にグッと来る。
「なんだ。もう、いつものまさ子ちんだ」
 紫原ですら、とてつもなく厳しい監督の優しさと表情の貴重価値を知っている。無自覚で余韻も残さず、さっさと歩き出す荒木の隣に着いてから顔を覗き見し、つまらなそうな声をあげた。
「なにがだ。というか、褒めてんのか、貶してんのか。ケンカは売るな、買いたくなるだろ」
 食い違った会話に、劉と氷室が互いを見て苦笑し、すぐ後を追う。
「……なあ。俺、なんか今、無性に泣きてえ」
 4人の後姿を見ているだけで立ち止まったままの福井が、声の届かない距離になってから、ぽつりと零す。ひとりで立っているのも嫌なくらい、顔を崩して。逸らしたくなる衝動を抑え、目映いものを見つめていた。
「ワシもじゃ」
 余裕がなくて、つらい思いを声にしているのだと、岡村は分かっている。だから彼なりに、肯定することで支えた。
「つらいのう、寂しいのう」
 昨日、散々泣いた。
 岡村は部員の前で、大声を上げて。福井は宿泊所に帰って、静かに。
 その時はコートから降りることに、ボールから離れることに。このチームとの終わりの意味に。悔しくて、泣いた。
 でも今は、バスケとは別の、痛みがある。
 あたたかな居場所。大切にして来た人たち。傍から離れる日が近いこと。
 まだどちらも実感が薄い。でも、少しずつ、少しずつ、近づいている。それが、恐くて、悲しくて、何より苦しい。
「岡村、福井。お前らも帰るぞ」
 荒木が振り返って、声をなげかける。
 先頭をきって行きながら最後尾まで忘れず見届ける、いつも理不尽で、いつも厳しい顧問。3年間、怯えながらも必死についていったら、いつのまにか自分の日常にまぎれていて。最後の1年は沢山助けてもらって、少しだけ助けられたかもしれない、成長を教えてくれた。
 その人の前から、離れる日――引退は過ぎ去った。本当の意味で立ち去る日――卒業も近い。
 目頭が熱くなる。それでも、この人の前でだけは、涙を見せない。頑なに決めているのは――この人が、誰よりも人前で泣かないと決めているから。自分たちが泣いたら、泣きそうな表情を見せて、決意を揺るがしてしまうから。
「……はい」
 年上で目上の人に出来ることは少ない。少しでも、少しでも、ずっと支えてくれた監督に出来ること。監督の決意を揺らがぬよう、自分たちが動く。それくらいだ。
 福井は、頷く。いつものように、詫びて、後を追おう。
「えぇ、帰りましょう」
 岡村が福井を安心させるように、肩を叩く。そして、柔らかくも頼もしい声色で返答した。




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-Apres un reve-





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