『Je te veux』の過去部分
今、幸せか。 そう問われても、私は首を縦にも横にも振れない。 他者に教えることは嫌いじゃない。後輩の面倒をみて、そう思えたからだ。でも、大事なバスケを通して気づいたことだから、バスケでのみかもしれない。だから、嫌いじゃない、くらいで。 そんな思いあって、身と時間をバスケに注いでいた多忙の学生時代、教員免許を取った。教えること、なんて職業沢山あるのに。我ながら愚直構造である。 そして、教師になってから、子供がそこそこ好きとも気づいた。世の中、上手くいくこともあるものだ。 教鞭をとり続け、掛け替えのないバスケの部活顧問についている。 大人になると心の半分以上を占めてしまう仕事関連に対し、苦痛がない。不満もない。不幸でもない。 将来に全く不安がないと否定も出来ないが、辛くない。楽しいと思う。 そう、結論づけられるのに――幸せか、分からない。
氷のような姫君の心も
-Tu che di gel sei cinta- 幸せな気持ちを知っている。 バスケコートを走り抜けていく、あの瞬間。翼が生えているのではないかと錯覚する、あの疾走感。このままが続けば良いと望んだ、現役の頃。 同時に、恋が永遠だと、愛は決して冷めないと、そう願う乙女心もあった。信じていたかった。素敵だろうと夢見た。 辛い気持ちを知っている。 現役でいられず、コートから降りなければならなくなった、あの時。ボールを掴めるのに、立ち止まなければならない、あの喪失感。 このままを望んだ翼は、あっさりと、もげた。 誰もが通る道だと分かっていても、理不尽だと嘆いた。受け止めている落ち着きと、抗いたい衝動がまざって、ぐちゃぐちゃだった。今でも、何と表現すれば良いのか分からない。それくらい、苦くも忘れるべきではない、記憶。 苦しみは重なるもの。やけに気づいてしまうもの。 周囲より少し遅く、夢から覚めた同時期。想いも去っていくと認識する。信じていたかったものが、消えていく。永遠を夢見た、素敵な情は、幻になった。 夢を失って、大人になってしまって。 私は永遠を信じられなくなった。いや、目に見えずとも、世界には必ずあると思っている。だけれど、私にはもう――手にすることが出来ない代物だと思うようになった。 様々な壁を乗り越えたり、崩したり、避けて遠回りしたりして、進み続け、時間を刻んで来た。 その途中、それが今だ。 それなりに幸福も、不幸も、知っているのに定まらない。 幸せな気持ちを信じていたい純粋さも、辛い気持ちを受けて立ち直る力も、あまりないからだろうか。どっちにもつきたくないのだろう。 曖昧すぎて、どちらとも思えなくて。どっちつかずが、一番もどかしかった。 そんな、いい加減な時期――2年前、陽泉の卒業式。子供の塊だと認識していた生徒兼バスケ部員の紫原敦から告白された。 互いの立ち位置からして、お試しなんて考えられる距離はない。だから、拒む手段を瞬時に選んだのに、この私が言い負け、一回り下の男と付き合うことになった。いや、あれは、本当に、もう、なんだ…失態としか言いようがない流れだったが、今、その言い訳は置いておこう。 なんだったか、ああそうだ。 それ以来。相手、紫原がまだ、大人になりきれていないからだろうか。大人になって捨て去った欠片と再会する羽目になった。 擦り切れた思いが、尊い思いが、大事にしたかった思いが、ぶつかって来て、辛く苦しくも――羨ましく思えた。 そんな思いを抱きながら紫原と一緒にいて、もうひとつ。蓋にしてきたものと、直面する。 傷つきたくない。保身にもなる。 この類は紫原がやけに食いつき、何度も、何度も、その機会が訪れた。 『うそつきー。まさ子ちん、自分の身体、大事にしてないし』 紫原にしては珍しい、何処か困った表情を零すものだから。年上で大人の私が、話題を逸らせなかった。 勘違い甚だしい。私はそれほど、無鉄砲じゃない。当時はとくに不思議で、苛立ったものだ。 『バスケが、陽泉が、大切じゃん』 当たり前だ。 夢から覚め、翼もない私を構築するもの、ほとんどである。 部員は生意気で図々しいが、それでも可愛いと思う。 彼らのためにも、陽泉を強くしたい。バスケはこんなにも楽しいと、知っているから。 同時に、教師としても、彼らが可愛い。もしバスケから離れたとしても、その時培った精神や努力は尊いものだと思えるように。そう思って、指導している。 私は沢山の生徒を見送ってきた。成長し、飛び立つあの輝かしい瞬間を、傍で見てきた。教師であるが故、私は立ち止まったまま。 寂しさがある。でも、嬉しさもある。どちらもまじって、どちらもいっぱいで、どちらが強いこともない。慣れないが、馴染んでしまったもの。 過去も、今も、これからも。続いていくことだろう。 『それなのに、傷つきたくないとか…まさ子ちん、馬鹿でしょ』 また。そう、またも珍しい、苦笑の表情を浮かべて。優しい手つきで私の頬を撫で、そこにかかった髪を払う。 『まさ子ちん、バスケと陽泉の為なら身を捨てるくせに』 それは傷じゃない。バスケと、陽泉で受けた感情は、どんな辛いことでも傷にならない。傷と、私は思っていない。 『それが身を傷つける以外なら、なんなの?』 分からない。でも、傷には。傷とは思いたくない。 たった数秒の間で、思いの感覚が、ズレた。 お前といると、保てなくなる。構成して来たものが崩れそうになる。 そう思うのに、お前の手を解くことは出来なかった。 大きくてがさつな手。ひねり潰そうとする物騒な手。それが何処か優しく思えた、不思議な手。 長身とは不釣り合いな、子供心の塊。スポーツ界特有の縦社会を実力で捩じ伏せて来た、天才児。 人としてどうかと思う元生徒であり元部員であり、そして恋人だが、全て何も考えていない訳じゃない。見た目に反し成績優秀で知識面は緩くないし、気に入った相手のことを思量深く見守っている。突き放した態度だが、守らない気もないことを知っている。 お前は良い子だ。教師として、顧問として、少し欲目もあるだろうが。お前はすぐ、良い男になる。 そんなお前の、素直な好意を、態度に見せてくれることは嬉しい。本当に嬉しかった。 散々拒絶しておきながらも恋人になって、2年の遠距離恋愛が続いたのも。訪ねて来たら、扉を開けて家に入れてしまうのも。愛されている、というまどろみから離れられなかったから。 お前がくれる想いと同等のものを、私は返せていると思えなかった。私が一方的に貰っているようにしか思えなかった。 お前の幸せを考えきれていなかった。 自分のためにしか動けていなかった。 恐れていた。私は、まどろみの中で、恐れていた。 両腕を広げ、抱き寄せてくれたお前が、ずっといる。そんな気持ちが、永遠にあるなんて純粋さもなくて。 傍にいる時間が長くなれば長くなるほど、喪失感は強くなる。捨てられる前に、自分から捨てなければ、もう愛情なんて芽生えない。そんな恐怖を一度、バスケで知ってしまったからもあって。 いなくなった後のことを恐れていた。 二度目を、恐れていた。 だから、だから。 ここで終わりにしよう。 そう決意したのは、紫原が専門学校卒業を控えた――社会に出る手前。 わるい。わるいわるい。私が、わるかった。決断が、随分遅くなってしまった。 お前の気持ちを弄んだ。2年も、お前の傍から、離れられなかった。 私が、弱かった。 弱かったあまり、2年も、閉じ込めてしまった。 →02/後編へ back |