荒木雅子は二重三重の意味で勇ましく強い、女性監督である。 しかも、陽泉高校教師として、好感――バスケ部員を抜くと尚――もかなり高い。指導も授業も、はっきりと言い切る厳しさあれど、緩急極めた優しさ付きだからだ。 更に、漆黒の艶やかな長い髪。キレのある目つきと声色。女性らしい膨よかなラインはないが、細くも綺麗に整った容姿。 そこまで揃えば、勇気ある男子生徒からの告白も一度や二度ではない。そう、そういう類の人気もあった。 自分を想う気持ちは、大半恋愛に属さない。思春期特有の年上に対する思い入れ。大人への背伸び。憧れと好きが履き間違えた、可愛い尊敬心。 そういう感情だと気づかせるために、告白の返事は曖昧な手段を取る。突き放すようで、何処か濁す、先生らしい模範的な断り方。裏を返せば、大人らしいずる賢い逃げ方で。 完全否定をしないのは、「好き」という区分を否定する訳にもいかないから。幾つもの「好き」があって、どれかを気づいて欲しいから。 先に生まれ、後に生まれた者へ、教え、繋げる。教師らしい、雅子の方法だった。 そんな流儀を、バスケ部員は知っている。男子生徒の中で雅子のことは勿論、彼女の恋愛絡みの話題も有名だからだ。 それでも部員たちにとっては鬼監督の印象が強い。人として好感の持てる監督、という意見で一致しても。なので、「告白、ねえ…」という不思議な感覚が大半である。 でも、全員と言い切らないのは想いを秘めている部員もいるから。 「どうしてこうなった……」 何度も何度も思い出しては、つい呟いてしまう。現在に至る経緯が、雅子自身、理解出来ないあまりに。 「んーなにが?」 「いや、なんでもない…」 抱きしめるというより覆い被さるように後ろから包む紫原の胸に背を預けながら、誤摩化す。 想っている部員に紫原が入っているなど、誰が思おうか。とりあえず雅子は思いもしていなかった。つーかあいつ恋するのか、なんて酷い感想すら抱いた程、晴天の霹靂。 視線を落とせば、紫原が雅子の長い髪を掬い、指に絡め、くるくるいじっては解いている。大きな手をじっと見つめ、何処か愛嬌を感じた。捻り潰す類の面倒かつ問題の手に、人らしい仕草をするからだろうか。 「楽しいか、それ」 「くるくる?」 聞きたそうにする紫原を無視し、あえて話題を逸らす。すると雅子曰く「やはりガキ」の紫原があっさり乗って来た。 「そう、それだ」 「まさ子ちんの髪、綺麗だしね」 答えになっていない気がする。あと、その返しになんと反応すれば良いのか、分からない。 雅子はガキくさい思考回廊かつ、ダサい戸惑いだと自己分析。思わなかったことにし、後ろを見る。紫原が教え子だった頃から何度も見上げ、見慣れているが、こんな近距離になるとは。 本当に、世の中は不思議なことだらけだ。 *** 紫原が1年、誠凛に負けた後から身も心も成長している。バスケが才能だけのスポーツから、好きなスポーツと自覚したことが何より大きい。ぐだぐだで面倒くさがり怠惰な態度もよくよく取るが、指示を飲んで動くようになる。相乗効果なのか、エースの意識も見せるようになり、人の情熱に対し否定しなく――価値観が変わった訳ではない。まだまだ否定的だが、声に出さなくなっただけマシだ――なった。 それと同時期、やけに背後からひっつくようにもなった。背丈や体格の差で重くて辛いし、周りの気も緩んで示しがつかないと怒鳴っても、反省の色もなく。 雅子は、懐かれた、と解釈していた。氷室の先輩懐きとは違う、教師懐き、という区分で。そうなるのは、同類の生徒が多く、バスケ部員もそこそこ同じ態度をとっていたからなのだが。 大きく、幾つも変わったことはある。それでも、雅子にとって紫原の子供っぽさは変わっていない。身体だけ大きな子供の心、欲しい物が手に入らなければ駄々をこね、感情なんてすぐ変えてしまうと。バスケを通し、紫原の性格や価値観に確信していた。 そんな思惑の中、2年の歳月が流れ――紫原の卒業式、いきなり告白された。 予想外も良いところ。伏兵以外なんなのだ。 一瞬、本気で頭が真っ白になった。 それでも生徒、部員の前で放心するなどプライドが許さない。瞬時に次を選択した。誰であろうと、答えは決まっている。 雅子は大人になってしまった。冒険が出来る、勇気だけで飛び込める若さなどなくなっていた。 結婚適齢期でもある。付き合うということは、少なからず結婚を考えなければならない。恋愛に年齢など関係無いと思うも、10代には道が沢山あって、それを減らすことなど教師として出来る訳もなく。 勿論、保身もある。表の看板である監督が話題のタネになるわけにもいかない。 でも、でも。幾つもの建前や弱さや、正論はあるけれど。本当に大事なことや物が出来たら、多分バスケ以外切り捨てられるとも思っていた。 それを踏まえても、結局は陽泉とバスケが一番大事、になる。陽泉に傷など付けさせない。この身だけでどうにかなるのならば、あっさり自分を潰せる。どんな大事なことがあろうとも。それだけは、揺るがない。 普通ならば、その発想は自身を守らない、狂気な思想だ。でも、バスケを愛し、教師であったが故。あまりにも平均より心を強くあろうとし、強く維持出来る故――彼女は誰とも向き合うつもりなどなかった。 そして紫原を子供だと思い込んでいた為、告白の断りなど簡単だと思ってしまう。それが雅子の浅はかだった。 紫原の告白は卒業の焦燥感で起きた勢いと異なる。雅子の性格を読み、長いこと想いを声にせず、最後の最後まで待ったもの。 だから、小さな隙を探し、見つけ、するりするりと避けて。諦めさせる、という選択をへし折った。意地でも、もぎ取り、彼女を負かした。 紫原にとっては、向き合うことに成功。雅子にとっては、断ることが出来なかった。 その直後、紫原は故郷である都内の製菓学校に進学した為――遠距離恋愛。そんな類から始まった、紫原と雅子の恋人生活。 雅子は続かないと見込んでもいた。少年少女の数年は大人が思う数年より長く感じる。そして目紛しく変化し、明るくも厳しい生活を謳歌しているから。自分なんて飽きてしまうだろう。そんな予想をたて、傷つく範囲を狭めようとしていた。それなのに―― 「まさ子ちん、どれか決めたー?」 見上げる雅子に、不思議そうな声色と、緩い笑み。頭部に唇を落とし、未だ好き勝手に髪の一束を掬っていじっている。 「あ、あぁ、これかな」 気恥ずかしさもあって、手元のスマートフォンへ視線を逸らす。画面をスライドさせ、ある洋菓子の写真で止めた。 紫原が指定した写真は全て製菓だ。その中でどれが良いか、聞かれていたので、選んだのだが。 「理由は?」 「紅茶に合いそうだ」 食材の好みや見た目の可愛らしさなどない。飲み物と合わせ、自分が食する時を想像した、表面的な意見。売り上げも出費も関係ない、主観なんだか適当なんだか、判断しにくいザックリとした感覚。 「しかも砂糖なしの紅茶ね、まさ子ちんのは」 「あまいものは嫌いじゃないが、あまいのにあまい飲み物はない」 何処までも男前な監督と評されているだけのことはある。そして砂糖菓子の成分で出来ていそうな紫原とは対照的だ。 「じゃあそれ作るねー」 雅子の予想では、故郷であり進学先でもあった都内で就職すると思っていた。良い引き際か――などと考えていたら、紫原が秋田で就職した。 「支店出すからそっちで就職しないかーて、誘われた」なんて臨時先生のお誘いを受けるほど気に入られたらしく。相変わらず無駄な天性を持ち合せ。真っ当に就職し、一人暮らしを始めた。 いや、本当驚きだ。紫原を陽泉に迎え、接するようになってから、何度も思ってしまう。その時点でもう、内面で紫原を受け入れていたのだと――雅子はまだ気づけていない。 卒業式同様、雅子の引き際を読んでいたようで、紫原が就職した際、 『あまいよねえ、まさ子ちん。俺ね、まさ子ちんのこと好きになって、大人になりたいって思ったんだよ。俺、負けるの嫌いだって知ってるでしょ?』そう言い切った、あの表情を忘れない。 こいつも男だったんだな、と失礼なことを思った程。舐めるように、狩るように、掴み取るように、離さないように。強い瞳で口元を緩め、笑ったあの顔は――子供ではなかった。 そして紫原が就職した今でも、恋人は継続している。 しかも、紫原は雅子の家にいりびたっていた。遠距離の、離れていた時間を埋めるように。やっと、離れなくても良いことを知っているように。 好きだからどうにでもなる。そんなことの出来ない、大人の、悲しくも落ち着いた恋愛を、紫原は覚えてしまった。いや、教えたというか、そこまで来いと示したのは雅子自身だが。 紫原にそんなこと出来ないと思っていた。何処までも子供だったから。大人にしたのは、自分だ――なんて驕りも出来なかった。 若い内なら、どんなのことも変われる。その事実に目映く思う。そして、変わることの出来なくなった大人は、己の確信のなさに、弱さを垣間みた。 「大事なことだろうが。自分で決めろ」 作り手として、売り手として、よく考えろと説教する。スマートフォンを返すと、紫原が首を傾げた。 「まさ子ちんに食べてもらいたいなーって思いながら作るのが一番上手くいくし」 「……そ、そうか」 だからそういう問題じゃない。雅子はそう思うのに、声にならない。 素直に好意を見せる、もとい直球なところは相変わらずで。自分に向けられていると戸惑いを隠せなくて。つい、こもる相槌しか打てなかった。 「あーそうだ、まさ子ちん。俺、やっと欲しいもの手にいれたんだー」 「……あぁ、なんかそんなこと言ってたな。見せてくれるのか?」 紫原の投げかけで、雅子は我に返る。自然を装いながら、話題に乗った。 「やっと見せてあげられる」 とっても欲しいものがあるから、毎日のお菓子を減らす。未だ駄菓子大好きな男が珍妙な決意をするものだから、雅子は頭イカレたか、と思った程だ。 紫原は好きなものや欲しいものなど、人より少ない。仕事の、料理関連の、多種多様高性能で高価な電子レンジだと予測していた――のだが、取りに行く気配もなく。 「あったあった」 「なんだ、小さなものか」 「まさ子ちんなんだと思ったの……」 微妙な声色に「家電」と言い切れず、雅子はあえて黙った。 「まー良いや」 「よし、見せろ」 「その意気だいじ」 「……?」 微妙に逸らしただけで、この返答。違和感が残る。 様子を窺おうと振り返える前に、左腕を掴まれた。そのままするする撫でるように肘、手首に移動し、最後には手を包まれる。 何をしているのか、雅子には皆目見当がつかない。 紫原の左手をじっと見ていると、もう片方の右手が視野に入った。何かを持っている。手が大きいあまり、とてつもなく小さいとしか分からない。 掌に乗せてくれるのだと予想していたら、左の指に、はめられた。正しくは雅子の薬指に、指輪を。 「まさ子ちん、結婚しよう?」 ふたりしかいないのに、紫原が耳元で大事そうに、吐息ほどの小さな声を紡いだ。 Je te veux
-きみがほしい- 「………………まさ子ちん?」 言動した側が、長い沈黙に耐え切れず、反応を求めてしまった。 やっぱり向かい合った方が良かったかなぁ、表情分かりやすいし。なんて内心思っていると、微かながら身体が震えていることに気づく。 「もしかして、泣いてる?」 「泣いてない」 ここで即答。ずっと黙っていたのに。涙もろい彼女の場合、判断しにくい所だが、ここは泣いていないと正確に読み取れていた。 触れる身体の微かな変化、ではない。 雅子は自身のことで、滅多と泣かないから。良くも悪くも強くあろうとする精神と、逞しい教育心がそれを揺るがせない。 「なーんだ、そっか」 残念、という気持ちが声に乗ってしまった。 「なんだじゃない」 「まさ子ちん、こっち向いてー」 見ない方が良いと思ったが、今は権利があると主張しよう。紫原は体型の差を生かし、雅子を強引に身体ごと反転させ、振り向かせた。 「待て、」 「ヤだ」 胸元を押して距離を取ろうとする彼女の右手を取って、掌に唇を落とす。 「まさ子ちん」 名を呼んで。返事、と言わぬばかりに、次を促す。 すると、顔を隠していた左手が解けた。そして視線が合わさる。 やはり、泣いていない。でも少し瞳が潤んでいた。 雅子が瞳を隠すように、細め、淡く笑う。こんな時でも何処か格好良い様が残っていて、とてつもなく彼女らしい。 見えにくくなった瞳に残念な気持ちを抱きながら、紫原は瞼にキスをする。泣いて欲しい、なんて気持ちを込めて。 涙もろいのに、どうしてか自分のことでは泣いてくれない。 もっと素直に、自分のことを優しくして欲しい。伝えたい、伝わって、少しでも。 そのキスの途中、目が合っていないのを良いことに、 「…私で良いなら」なんて返答をするのは卑怯だ。 いつも格好良くて、元ヤンキー魂かケンカを売るのだって早いのに。自分のことに関して、優先順位が低くて。もっと自分にあまやかせば良いのに。 紫原はそう思いながら、今度は唇を重ねる。ゆっくり、触れるだけの。それでも、自分だけの特権だと主張して。 「まさ子ちんじゃなきゃ、ヤだ」 遠距離の頃から、雅子は紫原が去ることを前提としていた。幸せを何処か、否定していた。そんなこと出来る年ではないと、諦めていた。 人の心をなんだと思っているんだと苛立つが、年の差が大きな影響力を与えていると分かっていたから。 雅子が自身に優しく出来ないのならば。紫原が彼女にあまえるだけでなく、彼女をあまやかせば良い。 他者を思いやる気持ち。愛しい人を大切にしたい気持ち。子供でも手にすることが出来るけれど、紫原には大人になるという過程でやっと知ったこと。 「……有難う」 雅子の掠れた安堵の声に、紫原は身震いする。 何の基準でも高く定めているからこそ、磨き上げた精神のある人。そして強くあれる心を持つあまり、自分をあまやかすことすら許さない人。弱さを見せることを恐れる、弱さを隠せる人。 そんな人をやっと――慰められる、宥められるようになった。雅子の弱い部分に気づけるようになったし、それを見れる地位まで辿り着いた。 堪らない。望んでいたもの。手にしたかったもの。 自分の成長に褒めよう。縁のなかった努力の、結果だから。 紫原は、強く強く、雅子を抱き寄せ、彼女に歓喜を伝えたかった。 「で、誰の入知恵だ」 「まさ子ちん、分かってるのに聞いちゃうんだー」 「うるさい。負けの言い訳がいるんだよ」 「まさ子ちん、かわいいー」 「何が可愛いだ!」 ※入れ知恵の答え→『未来の散歩道』 ※今回のモノローグ・過去部分→『氷のような姫君の心も-前編 / 後編』 ※後日の陽泉→『無限なるものへの讃歌-前編 / 後編』 ※全て↑の、終わりに→『Je te veux/curtain call』 back |