昨日の夕方、ナマエの携帯に着信があった。
相手はレオンで、翌日に家に行っても構わないかという内容の電話だった。
つい一昨日会ったばかりで急な話だったが、ナマエもちょうど悩みを抱えていたので、二つ返事で彼の訪問を受け入れた。
今日は母親も外出しており、家にひとりのナマエは昼食を摂りながらニュースを見ている。
まだ気分は晴れないままだが、レオンが来るということで安心はしていた。
正直、降って湧いた出来事にどうしていいのかわからず、あの時は上手く切り替えせたと思っていたが、自称諜報員にとっては手の内に丸め込んでいるようなものだったろう。
今になって、最初から返事なんてしないで黙って帰ればよかったと後悔していた。
のろのろと食事を口に運んでいたナマエは、先程からひっきりなしのハリケーンの報道を聞いていた。
この街に接近しているらしく、付近の郊外では竜巻も発生しており、朝から窓が揺れるくらいの風が吹きっぱなしだった。
父親からは、もしかしたら今日中に帰れるかわからないという連絡が入り、母親は外出の予定が変更できなかったので、帰宅しない覚悟で出かけていった。
もし、交通機関が麻痺してもふたりには滞在できる場所があるので大した心配はしていなかったが、家に残され時間と共に大きくなる風と雨の音に怯える自分が情けなかった。
気晴らしにテレビをつけて昼食を摂っても、どのチャンネルでもアナウンサーが繰り返しハリケーンに注意してくださいと言うばかりで、早くレオンに来てほしくて仕方なかった。
もう一度、家の戸締りを確認するために、2階に上がって雨戸と鍵が閉まっているか見回った。
ナマエは復学の手続きを済ましたが、また新しい環境に飛び込むのかと思うとどうも落ち着かない。
唯一ありがたいのは、所属していた研究室の教授の赴任先と同じ大学にしてもらえたことだろうか。
研究室の先輩も何人かはそこに転入したということなので、編入した時よりは負担が少なくて済むだろうかとも考えていた。
それよりも問題なのは、やはりあの政府からの勧誘である。
目的が何であるのかは全く見当がつかず、考えてもしかたないのに気づけばそのことばかり考えてしまい、どうにもならない状況だった。
リビングに戻ったナマエはソファに身を沈めると気怠そうに目を閉じた。
彼との約束まで、まだ時間はある。
ニュースはもう見飽きたし、暫く休んでこの後に備えておくことにした。
それからしばらく経ち、何かの気配に眠っていたナマエは意識を戻した。
心地よい香りを感じて目を開けると、すぐそこにはレオンの顔がある。
「え!?」
驚いたせいで頭が肘掛からずり下がり、上手く身動きが取れず尚更混乱した。
「心配したじゃないか……」
レオンは体を起こしナマエから離れると、安堵の溜息をついた。
約束通りの時間に訪問したところ呼び鈴を押しても返事がなく、さらに鍵は開いたままだったので慌てて家に上がったと彼は言う。
警戒しながらリビングに入るとソファに横たわるナマエの姿を見つけ、意識がなかったので呼吸を確認していたところ、彼女が目を覚まして今に至るらしい。
どうやら彼女は随分長い間寝入ってしまったようだ。
「ごめんなさい……」
「無事ならいいんだ。でも、鍵はちゃんとしておくようにな」
起き上がって体勢を整えたナマエは、レオンに向かって頭を下げた。
彼がその頭をそっと撫でると、しょんぼりしていたナマエの表情がはにかむ様にほころびた。
この笑顔にどうも弱いらしく、レオンはさりげなく視線を逸らして自分を律した。
彼女に釣られてうかうかしている場合ではないのだ。
「話の方だが……、ナマエ、目はちゃんと覚めてるか?」
「あ、はい!」
雨戸に打ち付ける風雨が、正午より一層酷くなっている。
レオンはナマエの横に静かに腰掛けると、真っ直ぐに向き合った。
「通院をやめてほしいんだ」
彼の言ったことに、初めは驚いた。
しかし、ナマエもおかしいと思っていないわけではなかったので、何かを察したように返事をした。
「調べたんですね」
「ああ……」
珍しくその先を話さず言い淀んだ彼に、ナマエは理由を聞くのを躊躇う。
今まで定期的に通っていた検査をやめても本当に大丈夫なのか、レオンはなぜやめるという判断に至ったのか、気にはなったが彼からは話してくれないのだろうか。
沈黙が続いてしまったので、何はともあれ自分の話も聞いてもらおうと再び口を開いた。
「あの、私も話があるんです」
レオンの相槌を待たずに、彼女は昨日遭ったことをそのまま話した。
そして、自分が政府にとって何の利益になるのかもわからず困惑していることを伝えた。
レオンは動揺がほんの少し顔に出ており、そんな彼を予想もしていなかったのでナマエはとうとう何か隠されているのではないかと感じ不安になった。
彼に話せば気持ちが落ち着くと思っていたが、今回は訳が違うらしい。
「レオンさん、知ってることを全部教えてください」
自分自身に起こっていることを覆い隠されるのはたしかに気分がいいものではない。
何しろナマエには正確な情報が必要であり、彼女も訳が分からずどうしていいのか悩んでいるとレオンには容易く推測できる。
その上政府からの接触もあり、彼が思っていたより事態は深刻なようで、全て伝えた方が身を守る術も考えやすいと結論づけ、そうすることにした。
「ナマエの情報が、あの病院の医師からアンブレラ関係の者に渡っているみたいなんだ」
「え……!」
「しかも、点滴はT-ウイルスの生ワクチンで、もし身体に抗体の機能が残ってなかったら……」
その先は考えたくもないと言うように、レオンは組んだ手に額をつけて項垂れた。
自分が傍にいながら情報の流出を防げなかったことが本当に悔やまれる。
一方、事実を知らされたナマエは全身に悪寒が走った。
自分の身体にウイルスが投与されているとも知らずに、毎月病院に通って呑気に点滴を打たれていたのだ。
彼の言うように、もし抗体が機能していなかったらと思うとゾッとする。
自分は感染者、もしくは特異性を発現して恐ろしい化物になっていたかもしれない。
そう考えると急に怖くなって吐き気がした。
両腕を自身で抱きかかえて小さくうずくまっても、その恐怖をすぐには拭うことができなかった。
「憶測でしかないが、政府の狙いもナマエの体内にある抗体だと考えられる。あんな胡散臭い勧誘は無視して構わない」
「……」
そうか。
抗体を何かに利用しようとしているのか。
それなら納得がいく。
目の届くところに置いておき、必要になったらすきなだけ血でも何でも抜いて実験なり分析なりをすればいいのだから。
ナマエは、病院からも政府からも自分が都合の良い実験対象として扱われているという事実を突きつけられて、鈍器で頭を殴られたように何も考えられない状態になった。
人間としての尊厳を無視され、絶望の闇に放り込まれたような形容し難い気持ちだ。
どう考えていいのかもわからず、知らぬ間に溢れていた涙にも気がつかなかった。
「私、ウイルスを投与されてもう人間じゃなくなったんですか」
掠れた声が震えていて自分のものではないみたいだった。
彼女の弱々しい声を聞いたレオンはこうするしか伝え方を見つけられなかったことを心の中で嘆いた。
結局また彼女に辛い思いをさせてしまっている。
「そんなことはない、ナマエは人間だ」
「でも……でも、ウイルスを何度も投与された人間なんていないんでしょう」
自嘲しながら言うナマエにレオンの表情は険しくなった。
彼やクリスのように、抗体を元々持っている人間は一定数いる。
しかし、後天的なもので感染を防いだ例は稀であるのが事実であることには変わりなかった。
肩を震わせてうずくまっているナマエに居たたまれなくなったレオンは、無理やり彼女の顔を上げさせた。
「や、放してください……!感染してるかもしれないんですよ!?」
「抗体が機能してる限りそれはない」
「だけど……体内に何度もウイルスが入り込んでいたなんて、私……!」
「ナマエも俺も、抗体を持っている只の人間だ」
ぽろぽろと涙を流し、取り乱しているナマエは見ていて辛かった。
レオンが言い聞かせようとしても、それを聞き入れようとはせず、自分の身に起こったことに絶望していた。
そうなることは仕方ない。
それでもレオンは何とかして彼女に、自分は正常な身体で通院さえやめればその危機に晒されることもないということをわかってほしかった。
しかし、いくら口頭で説明しても感情が昂ぶっている彼女の心にことばが素直に入っていくのは難しいことだった。
「ナマエ……」
「放して!あっちいってください!もう私なんか……!」
「ナマエ!」
「や、やだ!はなしてっ……!」
暫く揉み合いが続いたが、支離滅裂なナマエがレオンの鍛えられた腕力に適うはずがない。
いとも簡単に両腕を押さえられ、そのまま彼にすっぽりと抱き締められてしまった。
始めは駄々を捏ねて反抗していたナマエだったが、身動きが取れないことがわかりそのままレオンの胸に顔を押し付けて大人しくなり嗚咽を漏らしていた。
「もう誰にも悪用はさせない」
「……レオン、さん……」
「俺の認識が甘くてナマエを酷い目に遭わせてすまなかった」
「ちが……レオンさんのせいじゃない……」
苦しくなるくらいに腕に力を込められ、耳元のすぐ近くで聞こえるレオンの声に戸惑いながら、まだ取り乱してはいるもののナマエの精神は平常を取り戻しつつあった。
彼の前で、急にあんなにパニックになってしまったことが恥ずかしい。
泣いていたせいで浅くて不規則だった呼吸も徐々に落ち着いてきが、彼の温もりがナマエの琴線に触れたのか今度は安堵からくる涙が止まらない。
それに気づいたレオンはあやすように彼女の背中を摩った。
「ナマエは感染してないから安心していい」
点滴のことを思い出すと気分が悪くなるが、こうして落ち着かせてくれるレオンと彼の言うことばを聞いて自分は大丈夫なのだと感じることができる。
嗚咽が落ち着くまで、もう少しこのままでいたいと感じた。
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