【坂本龍馬(寺田屋組)略年表】


1829年(文政)
(・武市半平太(瑞山)が生まれる。)

1835年(天保)1歳
・郷士、坂本長兵衛(のち八平)直足の次男として高知城下本丁筋に生まれる。

1838年
(・中岡慎太郎、岡田以蔵が生まれる。)

1846年(弘化)12歳
・母・幸病没。
・漢学の小高坂村楠山塾に入門するが、間もなく退塾。

1848年(嘉永)
(・岡田以蔵、武市半平太に師事し小野派一刀流剣術を学ぶ。)

1852年
(・中岡慎太郎、田野浦勤役間崎哲馬に師事する。)

1853年 19歳
・小栗流和兵法事目録を受ける。
・江戸に行き、北辰一刀流の千葉道場に入門する。
・ペリー来航により、江戸湾の品川海岸警備に当たる。
・土佐に帰国し、絵師の河田小龍に会う。

1855年(安政)
(・中岡慎太郎、田野学館において武市半平太に師事し、武市半平太道場に入門。)

1856年 22歳
・再び江戸へ向かう。
(・武市半平太、岡田以蔵と共に江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となる。)

1858年 24歳
・北辰一刀流長刀兵法目録を受ける。
・土佐に帰国する。

1860年(万延)
(・武市半平太、岡田以蔵、豊後岡藩まで行動を共にし、以蔵は留まり直指流剣術を学ぶ。)

1861年(文久)25歳
・武市半平太の土佐勤王党に中岡慎太郎と共に加盟する。
(・岡田以蔵、土佐勤王党に加盟するも、後に名簿から名前が削られている。)
(・岡田以蔵、土佐藩下目付けの井上佐市郎をはじめ、同志などを次々と暗殺し「人斬り以蔵」と恐れられる。)

1862年(文久)28歳
・武市半平太の使者として長州へ行き久坂玄瑞に会う。
・土佐勤王党を離れ、沢村惣之丞(関雄之助)と脱藩する。
・長州下関から九州を経て、千葉道場に滞在する。
・幕臣・勝海舟の弟子となる。
(・武市半平太、公武合体派の吉田東洋暗殺を指令、新たに要職に就いた守旧派を傀儡として藩政の実権を掌握する。)

1863年 29歳
・勝海舟の尽力で脱藩の罪を許される。
・神戸海軍操練所の塾頭になる。
・土佐藩の帰国命令に従わず、再び脱藩する。
・長州藩を主とする尊皇攘夷派を追放する、文久の政変が起きる。
(・武市半平太、郷士の白札から上士格留守居組に出世。)
(・武市半平太、土佐藩の山内容堂により投獄される。)

1864年(元治)30歳
・楢崎龍と知り合う。
・幕府の神戸海軍操練所が完成し入所。
・池田屋騒動で多くの同志を失う。
・海舟の江戸召還により操練所と塾が解散されたのち、小松帯刀、西郷隆盛の尽力で薩摩の保護を受ける。
(・蛤御門の変で中岡慎太郎負傷、桂小五郎行方不明になる。)
(・岡田以蔵、無宿者として幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、土佐へ搬送される。)

1865年(慶応)31歳
・西郷隆盛はじめ近藤長次郎、高松太郎ら同志と共に薩摩へ行く。
・長州に行き、桂小五郎に薩長の和解を説く。
・薩摩藩の援助で長崎に亀山社中を設立、通商航海業を営む。
・土佐勤王党の同志が次々と捕らえられ、拷問、処刑される。
(・中岡慎太郎、西郷隆盛、桂小五郎に会う。)
(・武市半平太、「君主に対する不敬行為」という罪目で三文字切腹をする(享年36)
(・岡田以蔵、拷問の後、打ち首(享年27歳)、辞世の句は「君が為尽くす心は水の泡 消えにし後ぞ澄み渡るべき」

1866年 32歳
幕恋の龍馬ルートはこの辺りから。
・龍馬の仲立ちで、京で薩長同盟が成立する。
・伏見の寺田屋で幕府の役人に襲われる。
・お龍と結婚後、西郷隆盛の計らいで中岡慎太郎、お龍と共に薩摩へ行く。
・日本初の新婚旅行をする。
・下関における対幕海術(第二次長州征伐)で亀山社中は長州軍艦、ユニオン号を率いて、幕長戦争に参加、長州の勝利に貢献する。

1867年 33歳
・脱藩の罪を許され、亀山社中は海援隊と名を変え、隊長となる。
・後藤象二郎と共に京に向かう船中で、大政奉還の「船中八策」を考える。
・京都薩摩藩邸で、薩土盟約締結に中岡慎太郎と共に立ち会う。
・岩倉具視に会う。
・大政奉還後、船中八策を換骨脱胎した「新政府綱領八策」や「新官制案」を草する。
(・中岡新太郎は陸援隊隊長となる。)

11月15日(没)
・夕方、近江屋に中岡慎太郎、岡本健三郎、菊屋峰吉が来訪。
午後9時ごろ、刺客に襲われ絶命する(享年33歳)
・下僕藤吉は翌16日絶命(享年25歳)、中岡は翌々17日絶命(享年30歳)


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