「……詩季ちゃん。本当に無理しなくていいんだよ」
キッチンに立って野菜を切るわたしの背後で一磨さんが声をかけてくる。
「ううん。わたしがやりたいだけだから」
いつも忙しく働く彼の食事というと、移動の車の中や楽屋で食べるお弁当がほとんどだと聞いたことがある。
少しでも栄養のあるものを食べてもらいたくて、わたしは海からの帰り道、スーパーに寄ってもらっていた。
「ありがとう……うれしいよ。詩季ちゃんの手料理が食べられるなんて」
「あっ……一磨さんったら。危ないよ」
急に後ろから抱きしめられて、わたしは包丁を置いて首を後ろに向ける。
肩越しにわたしを覗き込む一磨さんの瞳が目の前にあり、ドキンと心臓が音を立てた。
「一磨さ……」
名前を呼ぼうとしたわたしを制するように、スッと空気が揺れ、唇に温かいものが触れる。
「詩季」
すぐに離れていった唇が低くかすれる声でささやいた。
(あ……そっか……)
「……一磨」
“ここにいる時は、一磨って呼んで”
付き合い始めた頃に交わした約束。
(いまだに恥ずかしくて慣れないんだけど……)
彼に向き直るように身体を動かすと、わたしの頬が両手で包まれる。
「ありがとう……じゃあ、邪魔しないように向こうで待ってるよ」
「うん」
こんな些細なやり取りも時間も、わたしの心を温かく幸せにしてくれる。
(ずっとこうしていられたらいいのに……)
そんな思いが胸をかすめる。
わたしもあなたに、幸せをあげられているかな?
わたしがあなたからもらう、幸せと同じくらい、あなたも幸せかな?
(……そうだと嬉しいな)
やがて料理ができ上がり、わたしは一磨さんに声をかけようとリビングに顔を出す。
「あ……」
すると、ソファに座って本を読んでいた一磨さんは静かな寝息を立てていた。
(疲れてるのに……ありがとう……)
わたしはキッチンに戻ると、ふわりと湯気の上がる料理にラップをかけ、そしてそっと彼に寄り添うようにソファに腰かけた。
カチッ、カチッと、秒針がふたりの時間を静かに刻んでいく。
その流れに身を任せて、わたしは彼の肩にそっと頭を乗せて目を閉じた。
その温もりを、この穏やかな空気を感じたくて……。