9

北国の短い雨期が明けて。

紫色の小さな花の優しい香りが風に揺れる6月下旬。

札幌での撮影も、明日の朝の分で終わり。

わたしたちはいよいよ、次の舞台となる富良野へと発つことになっていた。

夜。

わたしは滞在しているホテルの裏手にある小さな緑地公園にやって来て。

ベンチに腰掛けると、台本を広げ、練習を始める。

「……私、一人でも行くから……」


天文部の部室ではその日、150年ぶりの皆既日食をどこで見ようかという話し合いが繰り広げられていた。

『山は無理だろ。夏でも雪が残ってるぞ?』

『……まあな。でも、俺は登ってみたいけどな。夏の雪山』

『……汐織はどうする?お前、女一人だからな。ついて来るのキツいだろ』

そう尋ねられて、汐織は答えるのだった。

『一人でも行くから』と。


「……汐織?ここにいたんだ」

不意に背後から翼の台詞が聞こえて来て、わたしはハッとして振り返った。

「ごめん……邪魔したかな。詩季があんまり真剣にやってたから、声をかけるタイミング逃しちゃって」

「一磨……ううん。大丈夫。もしかして……一磨も?」

彼の手にある台本に視線を落とすと、彼はフッと穏やかな眼差しになる。

「うん。自主練習しようと思って……明日でここも、最後だしね」

答えながら一磨さんはゆっくりとベンチに腰を下ろした。

「そうだね……」

何となく、淋しいような、切ないような。

それでいて、楽しかった思い出と、少しの充実感が胸に押し寄せて来る。

サァッと吹き抜ける風が髪を梳いて、木の葉を揺らして、優しい香りを運んでいく。

頭上を仰ぐと、7時だというのに、まだ西の空が赤く染まっていた。

夏の北海道の夜は、遅い。

頬を撫でるその風の感触を、香りを、忘れないように。

わたしは目を閉じてスウッと一回、深呼吸をした。

「……じゃあ、一緒に読み合わせしようか?さっきの所から」

「うん……そうだね」


大学の校舎の非常階段。

そこには空を見上げる汐織の姿があった。

雲一つない、澄みきった空。

『……この空の青に、溶けてなくなってしまうのかな……』

自分で言った言葉に、ギリッと胸の痛みが蘇って来る。

そんな汐織の後ろで、カタンと物音が響いて。

『……汐織?ここにいたんだ』

『翼……』

いつもと変わらない翼の優しい笑顔に、息苦しさを感じながら。

汐織はぎこちない笑みを浮かべる。

『今夜は星が良く見えそうだ。汐織……これから海にドライブに行かない?』

隣に並んで空を仰ぐ翼の言葉。

それを否定するように、首を横に振って。

汐織はこう答えたのだった。

『私……もう……翼と一緒には行けない……』



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