「…ただいま」
どこか遠くで、優しく囁く声が聞こえて。
ふわり、身体が宙に浮く感覚に、わたしは少し意識を浮上させた。
(…大…和…?)
かすかに感じるコロンの香りが、彼が帰って来たことをわたしに教える。
やがて背中にひんやりとしたシーツの感触と。
同時にわたしを抱きしめる温もりが離れて行って。
「ん…大和…」
無意識のうちに、わたしは彼の名前を口にしていた。
「…紡」
寝室を出て行こうとしていた彼は、足を止めて振り返る。
「…お帰り、なさい」
まだハッキリとしない意識の中で、上半身を起こしてそう言うと。
彼は数歩引き返して、ベッドの脇に座った。
「…ただいま、紡。バカだな。先に寝てろっつっただろ?」
フッと笑みを浮かべて、そう言う彼の声音はとても優しくて。
わたしをゆっくりと抱き寄せる手の温もりも。
髪をそっと梳く指先も、言葉とは裏腹だった。
大学受験を控えるこの時期、教師はとても忙しい。
だから先に寝ているようにと言われていたけれど。
どうしても彼の帰りを待っていたくて。
お帰りなさいと言った時の、幸せそうな顔が見たいから。
「…大和…お帰りなさい…」